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カヤの中 前編
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40歳代無職男性Fさんの話。
Fさんも昨年までIT関連企業で働いていて、羽振りが良かった。
5年前に家も買った。乗用車は2台持っているし、家族にも不自由させていなかった。
それが、二年前から突然おかしくなり始めた。
仕事があまりに忙しく、家の事に全く構えなくなった時だ。
妻一人が家事を担うが、手が回っていなかったと思う。
庭の雑草は伸び放題で、裏庭は腰の高さまでカヤなどが密集し、異様に伸びたセイタカアワダチソウも所々生えていた。
会社でやたらと失敗するようになった。
Fさんが手がけたソフトは何度確認しても必ず不具合があり、取引先からもクレームが止まなかった。
会社での立場は悪くなる一方で、とうとう大企業との取引で大きな失敗を犯した。
巨額の損失を生ませたのだ。
「もう御社とは取引いたしません」
相手はそう言い放った。
その企業は、自社の売り上げの過半数を担っていたといっても過言ではない。
Fさんの会社は、やむなく人員削減し、事業規模を縮小させた。
当然、Fさんも引責のような形で退職してしまった。
家のローンもあるし、まだまだ稼がないといけない。
妻は働きに出た。
その分、Fさんは家で家事をする。かつては、多くの部下を率いて肩で風を切って歩いたこともあった。
それが今では、家庭の居場所すらない。
妻は毎日、夕方まで仕事をして、夜はディスカウントストアのバイトに出ている。
昼間は事務員として働く。
夜は24時間の激安店のレジに立ち、酔っ払いや、なんとかしてタバコを売ってもらおうとする悪ガキの相手をしなくてはならない。
みるみる顔色が悪くなり、激務に疲れているようだった。
妻は本来温厚だが、Fさんの家事の不備を責めるようになった。
Fさんの洗濯物の畳み方が悪い。皿は洗えてない。玄関は掃き掃除してない。
料理も味付けがおかしい……と。
自業自得でもあった。
Fさんは、イケイケIT会社員の頃、妻によく文句を言っていたのだ。
帰っても食事ができていない。冷めている。
風呂が沸いてない。
赤ん坊が泣いてるぞ、オムツだろ。早く変えてあげろよ。
俺は高い給料のために一生懸命働いて帰ってきてんだぞ……。
日ごろからそんな言葉を向けていたのだ。
「ほんと自分は口ばっかりだよね」
憎悪と見下しの混じった妻の視線が、あまりにも痛かった。
俺は40のおっさんになって、無職になったんだ。
これまで、高い給料で許されていたことが、もう許されなくなった。
「ごめんなさい」
Fさんは沈痛な面持ちで頭を下げる。
サラリーマン時代に培った、平謝りの技術ではない。
飛ぶ鳥を落とす勢いだった俺が、家事の一つもできずに妻に頭を下げる。
自分のふがいなさと、かつての振る舞いへの後悔でうんざりしていた。
「いいよ。ムカつくけど、男ってそんなもんだし」
風呂上がりの妻は冷蔵庫からビールを出すと、さっさと自室に入る。
高校生の娘が自室から出てくる。
「ああ、のどか渇いたか?野菜室にコーラが……」
Fさんの気遣いの言葉は、思春期の娘に届かない。
娘は不自然なほど完全に無視すると、水道水をコップに入れて飲みほした。
「コップ置いてていいぞ、洗うから」
Fさんが言うけれど、やはり無視。
娘はコップを自分で洗い、食器乾燥棚にかけると、すばやく自室に戻る。
おかしい。
こんな、壊れかけた家庭じゃなかったはずだ。
2年前、家の雑草が伸び放題になる前までは幸せだった。
妻は、俺の言葉を「はいはい」と聞き流しながらも、感謝してくれていた。
娘は、「お父さん」と話しかけてきて、聞いてもいない学校生活の話をしてくれたものだ。
2年前だ。
家の裏が、雑草だらけになって、腰までのカヤが人を寄せ付けなくなったあの頃だ。
俺の仕事が傾き始めた。
不意にFさんは寒くなった。
家の裏。
あまりに雑草が伸び放題になり、手入れや芝刈りすらあきらめた裏庭。
なぜだろう。
Fさん自身は、裏庭が雑草だらけであることを認識していた。
だが、なぜかあそこには近づきたくなかった。
手の施しようもないほど雑草が伸びているから……それも理由ではある。
実際は、1日時間をかければ、雑草を片付けられないことはない。
今思い返すと、なんとなく「いやな感じ」がしていたのだ。
あの雑草だらけの裏庭に入っていくのが嫌だった。
もはや家事を担うFさんはそうも言ってられない。
翌朝、作業着を着て、草刈り道具を手にしたFさんは裏庭に赴いた。
2年間も放置した成果が広がっている。
裏庭にやってきて、一面カヤの海となった光景を見るだけで、ぞっとした。
刃物のように鋭い巨大なカヤが、あたり一面密集している。
風はなく、カヤたちが動くことも音を立てることもない。
ニオイは妙だった。
鬱蒼としたカヤの中から、鼻をつくような腐臭がした。
冷蔵庫の奥底に忘れられた、変色した牛肉の発するおぞましい腐臭。
吸い込めば口から胃壁が引っ張り出されるような、反吐を催す臭い。
腐臭は、腰の高さまで密集したカヤの中から漂ってきていた。
Fさんは、若干恐怖を感じているのを認識した。
そして、腹を決めると、おもむろにカヤを刈り始めた。
【つづく】
Fさんも昨年までIT関連企業で働いていて、羽振りが良かった。
5年前に家も買った。乗用車は2台持っているし、家族にも不自由させていなかった。
それが、二年前から突然おかしくなり始めた。
仕事があまりに忙しく、家の事に全く構えなくなった時だ。
妻一人が家事を担うが、手が回っていなかったと思う。
庭の雑草は伸び放題で、裏庭は腰の高さまでカヤなどが密集し、異様に伸びたセイタカアワダチソウも所々生えていた。
会社でやたらと失敗するようになった。
Fさんが手がけたソフトは何度確認しても必ず不具合があり、取引先からもクレームが止まなかった。
会社での立場は悪くなる一方で、とうとう大企業との取引で大きな失敗を犯した。
巨額の損失を生ませたのだ。
「もう御社とは取引いたしません」
相手はそう言い放った。
その企業は、自社の売り上げの過半数を担っていたといっても過言ではない。
Fさんの会社は、やむなく人員削減し、事業規模を縮小させた。
当然、Fさんも引責のような形で退職してしまった。
家のローンもあるし、まだまだ稼がないといけない。
妻は働きに出た。
その分、Fさんは家で家事をする。かつては、多くの部下を率いて肩で風を切って歩いたこともあった。
それが今では、家庭の居場所すらない。
妻は毎日、夕方まで仕事をして、夜はディスカウントストアのバイトに出ている。
昼間は事務員として働く。
夜は24時間の激安店のレジに立ち、酔っ払いや、なんとかしてタバコを売ってもらおうとする悪ガキの相手をしなくてはならない。
みるみる顔色が悪くなり、激務に疲れているようだった。
妻は本来温厚だが、Fさんの家事の不備を責めるようになった。
Fさんの洗濯物の畳み方が悪い。皿は洗えてない。玄関は掃き掃除してない。
料理も味付けがおかしい……と。
自業自得でもあった。
Fさんは、イケイケIT会社員の頃、妻によく文句を言っていたのだ。
帰っても食事ができていない。冷めている。
風呂が沸いてない。
赤ん坊が泣いてるぞ、オムツだろ。早く変えてあげろよ。
俺は高い給料のために一生懸命働いて帰ってきてんだぞ……。
日ごろからそんな言葉を向けていたのだ。
「ほんと自分は口ばっかりだよね」
憎悪と見下しの混じった妻の視線が、あまりにも痛かった。
俺は40のおっさんになって、無職になったんだ。
これまで、高い給料で許されていたことが、もう許されなくなった。
「ごめんなさい」
Fさんは沈痛な面持ちで頭を下げる。
サラリーマン時代に培った、平謝りの技術ではない。
飛ぶ鳥を落とす勢いだった俺が、家事の一つもできずに妻に頭を下げる。
自分のふがいなさと、かつての振る舞いへの後悔でうんざりしていた。
「いいよ。ムカつくけど、男ってそんなもんだし」
風呂上がりの妻は冷蔵庫からビールを出すと、さっさと自室に入る。
高校生の娘が自室から出てくる。
「ああ、のどか渇いたか?野菜室にコーラが……」
Fさんの気遣いの言葉は、思春期の娘に届かない。
娘は不自然なほど完全に無視すると、水道水をコップに入れて飲みほした。
「コップ置いてていいぞ、洗うから」
Fさんが言うけれど、やはり無視。
娘はコップを自分で洗い、食器乾燥棚にかけると、すばやく自室に戻る。
おかしい。
こんな、壊れかけた家庭じゃなかったはずだ。
2年前、家の雑草が伸び放題になる前までは幸せだった。
妻は、俺の言葉を「はいはい」と聞き流しながらも、感謝してくれていた。
娘は、「お父さん」と話しかけてきて、聞いてもいない学校生活の話をしてくれたものだ。
2年前だ。
家の裏が、雑草だらけになって、腰までのカヤが人を寄せ付けなくなったあの頃だ。
俺の仕事が傾き始めた。
不意にFさんは寒くなった。
家の裏。
あまりに雑草が伸び放題になり、手入れや芝刈りすらあきらめた裏庭。
なぜだろう。
Fさん自身は、裏庭が雑草だらけであることを認識していた。
だが、なぜかあそこには近づきたくなかった。
手の施しようもないほど雑草が伸びているから……それも理由ではある。
実際は、1日時間をかければ、雑草を片付けられないことはない。
今思い返すと、なんとなく「いやな感じ」がしていたのだ。
あの雑草だらけの裏庭に入っていくのが嫌だった。
もはや家事を担うFさんはそうも言ってられない。
翌朝、作業着を着て、草刈り道具を手にしたFさんは裏庭に赴いた。
2年間も放置した成果が広がっている。
裏庭にやってきて、一面カヤの海となった光景を見るだけで、ぞっとした。
刃物のように鋭い巨大なカヤが、あたり一面密集している。
風はなく、カヤたちが動くことも音を立てることもない。
ニオイは妙だった。
鬱蒼としたカヤの中から、鼻をつくような腐臭がした。
冷蔵庫の奥底に忘れられた、変色した牛肉の発するおぞましい腐臭。
吸い込めば口から胃壁が引っ張り出されるような、反吐を催す臭い。
腐臭は、腰の高さまで密集したカヤの中から漂ってきていた。
Fさんは、若干恐怖を感じているのを認識した。
そして、腹を決めると、おもむろにカヤを刈り始めた。
【つづく】
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