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竹藪(後編)

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3日目の夜
Kさんは暗闇の中、森の静寂に耳を澄ませていた。
疲れからか、次第にうとうとし始めた。

静寂の中に、足音がした。
規則的な、ガサッ、ガサッという音だ。
タヌキやシカの足音は聞きなれていた。
人の足音は聞き違えることはない。
これは紛れもなく人の足音だ。

Kさんは気づかれないように、姿勢をほとんど変えず、藪に伏せたまま見回す。
だが、だれの姿も目に入らない。
目に入らないのに、足音だけは近づいてくる。

足音は、Kさんのすぐそばまでやってきた。
Kさんは震えながら、少し頭を上げる。
だが、だれもいない。

「こうして……膝を曲げて、腰を入れて……」
だれもいない空間から、男の独り言が聞こえた。
足音がしたあたりからだが、やはりだれもいない。
「えいっ」
今度は気合のような声を発した。
その瞬間、Kさんの目の前で「カコンッ」と小気味良い竹の音がした。
目の前の竹が、刃物で切られたように切断されて、ばさりと倒れた。
地面から生えている部分だけが、槍のような鋭さで尖っている。

Kさんの震えは強くなり、悪寒がした。
自分が何を見ているか分からなかった。
「見とれよお……やっちゃるけえのお……許さんけえのお……」
今度は憎悪に満ちたような低い声が聞こえた。
再び、音を立てて竹が切断されていく。
目の前でひとりでに切られていく竹に、Kさんは怯えていた。
立ち上がって逃げ出そうかと思った。
だが、声の主が気づいたら……そう思うと立ち上がれない。

Kさんが固まっていると、今度は大勢の足音が響いた。
バサバサと落ち葉を踏みちらし、大勢が駆けているような声だった。
その中で、すすり泣きや悲鳴が聞こえ始めた。
すくみ上るような絶叫も聞こえる。
「やめて!堪忍して!」
「清作さん!やめえっちゃ!やめえっちゃ!」
その声は、何かから逃げているような声だった。

山のそばに住んでいるのに、これまでは全く聞いたことがない。
Kさんは愕然とした。

同時に、先ほど聞いた声で罵声が聞こえる。
「やかましい!往生せえや」
Kさんの周りには大勢が逃げ惑う足音が響く。
踵を返して逃げる音、コケて落ち葉を散らす音、異様な刃傷沙汰のような音が辺りにこだました。
凄まじい勢いで、竹も切られていく。
密集した竹やぶで、斧やナタでも振り回しているように「ガコン」「ガコン」と音を立てては竹が倒れていく。
「じっとせえ!叩き切っちゃる」
「助けて!」
血も凍るような怒声と絶叫が聞こえる。
Kさんは恐ろしくて目をつむってしまった。
ただ、目をつむり、震えながら手を合わせて念仏を唱えたらしい。

どのくらい経ったろうか、音は次第にうめき声に変わり、うめき声もすぐに止んだ。
周囲が再び沈黙に包まれた時、Kさんは震えながら顔を上げた。

竹槍と化した竹林の中に、野良仕事姿の男が立っていた。
血の付いた日本刀のようなものが握られ、服には返り血を浴びていた。
男の姿は闇の中にぼんやりと浮かんでいた。
男は、ゆっくりと、竹やぶから低い灌木地に降りて行った。

Kさんは、夜が明けるのを待って、男の向かった灌木地に降りた。
灌木を掻き分けると、土の洞穴があった。
深いほら穴で、草で鬱蒼としていたが、懐中電灯を頼りに奥まで入ってみた。

奥には、自然石を組まれてこしらえた粗末な祠と、古びた大きい木箱があった。
大きい木箱には、さび付いた古い刀と、茶色く変色した薄汚い服が入っていた。

Kさんは、ただ事ではないと近所の宗教関係者に供養をしてもらったそうだ。

Kさんは語る。
「供養してもらっても、時々は竹槍は増えちょりますね。そういえば、昔からわしの爺様も親父も、山に人を連れて入るなって言いよったんですよ」
Kさんは顔を曇らせる。
「ここは代々ウチの山やけえ、なんか噂はあるんじゃろうけど。なんも聞かんのですよ。こんな田舎じゃあ噂なんてすぐ広まるし、皆忘れんのにね。まあ……昔は村八分がひどうて、役所や警察が指導に来たこともある村ですけえね……いやなもめ事のひとつやふたつはあるでしょうよ」

話を聞いた私は寒気がした。
Kさんに、今でも山に人は入れているのか聞いた。

「入れとりますよ。今更ダメって言っても、皆文句言いますいね。じゃけど、『なんかあっても責任取れんよ』とは忠告しとります。でも、皆山に入るのをやめんのですよ。こんな気味の悪い山、わしはもう入りとうないですけどね。皆、『世話ぁない、世話ぁない(山陽方言で『心配ない』の意)』って言い張るんです。なんか、山の中の『アレ』が、人を呼び寄せよるみたいに見えますよ……わしには」

Kさんの口元は笑っていたが、目は笑っていなかった。

【おわり】




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