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内湯付き客室

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幼児を持つ父親Eさんの話。

Eさんは妻と娘の一家三人で古びた旅館に来ていた。

旅館の部屋は古さの中にも情緒があり、悪くはなかったが、少々嫌な予感がしていた。

部屋に入ったとき、心臓を見えない手が撫でてくるような「ぬるっ」とした嫌な雰囲気を感じたらしい。

部屋には内湯があったので、夕方の食事前に、娘とEさんが入浴していた。

薄目にして、リラックスするEさん。

何かが足に触れた。
柔らかく、小さく、まるで人形のような…

Eさんはとっさにその足を掴んだ。

間違いない、小さな体だ。

娘がおぼれたに違いない。
「くそ!俺はなんて役立たずな父親なんだ」
Eさんはその小さな体を水中から引っ張り上げた。

目を見開いたEさんには、立ち上がって湯につかっている娘の姿が目に入った。
きょとんとしている。

Eさんは、困惑して自分の引き上げた身体を見た。

それは蝋のように白くなった赤子の身体だった。

力なくぶら下がっている。

だが、充血したその眼は見開かれ、Eさんを凝視していた。

ギョッとしたEさんに、赤子は悲鳴を上げた。
その声は、赤子の声ではなく、成人した男の叫びのような声だった。

Eさんは恐ろしさで絶叫し、傍らにいた娘も悲鳴を上げた。

激しく浴室の扉が開かれ、妻が飛び込んできた。
「どうしたの!」

「これ!」Eさんは赤子を掴んでいるはずの腕を妻に見せた。

だが、なぜか赤子の姿はなく、Eさんの手の平は、脚を掴むように輪を作っているだけだった。

娘もEさんもきょとんとした。

結局内湯以外は何も変わったことがなかった。
Eさん達は以降念のため内湯を使わなかった。

Eさんは旅館の人間に聞いてみたが、何も知らないし、心当たりがないと言っていた。

だが、どこか知らぬふりをしているような表情にも見えたという。

「ぼくの勝手な想像だけど、大昔に赤ちゃんがおぼれたとか…そんな話があったんじゃないかな。古い旅館だからね。でも、素直に認めて部屋を変えてくれたら許したけどさ。白々しく『そんなこと、知りません。今までそんな話は聞きません』の一点張りなんだ。頭来ちゃうよ…もうあの旅館は使わないよ」

Eさんはそう憤慨していた。


【おわり】
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