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第36話「母との約束」

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記憶をよぎるのは、家族の思い出だった。

細身でよれたシャツを着て、瓶底眼鏡をかけた父。安い配給タバコの香りをさせている。

幼い芳田カールは、その膝に抱かれていた。

「お父さん、川の向こうのビルがたくさんある町には行ったことある?」

「あるとも。」父は笑顔で答える「時々行くよ、今も」

「友達がさ、あの町の人はお金持ちしかいなくて、学校に通う生徒はお肉や唐揚げ、ジュースが食べ放題の給食だっていうのさ。ホントかな」

「本当さ」カールの父は微笑む「父さんが先生をしていたとき、そうだった」

「悔しいなぁ!皆お勉強はできる?」無邪気な眼差しでカール少年が聞く。

「できる子は多いよ。お金持ちが多くてみんな塾に行くからね」そして、父はカールの頭を撫でた「でも、お前の方がうんと賢いさ」

「僕も合成肉じゃなく、美味しい給食をたくさん食べたいな!」カール少年が言う「父さん、どうして世界にはお金持ちと貧乏がいるの?父さんは何でお金持ちじゃないの?」

カールの父は微笑み、息子の頭を撫でる。
「いいかい、この世界はね。運良くお金持ちになった人が、お金のない人達を沢山働かせる仕組みになっているんだ。お金のない人達は沢山働いても、お金持ちに取られちゃうから、簡単にはお金持ちになれない」

「ひどいや!」カール少年が叫ぶ「じゃあ、裏の家のケイちゃんも…お金があったらお医者に行けたのかな。そうすれば、まだ生きてたかも…ぼく、あの子が好きだったのにさ」

父の顔はふと曇る。
「そうだね。もっとお金持ちの人達が優しければ、ケイちゃんも助かったかもな。だが、世の中のお金持ちは自分の事しか考えてないんだよ。だからこそ、お金持ちになるんだけどね」

「じゃあ、お金持ちの奴らをやっつけたらいいんだ!」とカール少年。

「ははは…そんな乱暴な」カールの父は笑う「だけど、この世界を変えて、誰もが貧乏にならず、平等に暮らせる世界を作ろうと頑張っている人もいるよ。ケイちゃんのようなかわいそうな子を減らすためにね」

「へーすごい!父さんはどうなの?」カール少年が父の瞳を見つめる。

「カール、そろそろお父さんはお仕事よ。そこから降りてオヤツお食べ」土間の玄関から母が入ってきた。
そして、カール少年の前に焦げかけたポン菓子を取り出す。

カール少年は父の膝を降りて、喜んで頬張る。
母は慈愛に満ちた表情でカール少年の頭を撫でる…。

「第6支部…ガサを食らったそうよ」母は深刻な面持ちで、父に告げる。

「近いな…。6支部がやられたなら、情報網の近いウチもそろそろかも知れん。」父も深刻に答える。「この子だけが気がかりだ」

心配そうな目で父はカールを見た。
カールが顔をあげると、父は微笑んでみせた。


それから悲劇まではすぐだった。

カールが一人バラックに囲まれた道端で遊んでいると、目つきの悪い黒服の男たちに話しかけられた。
決まって父と母がいないときだ。
「ぼうや・・・・父さんと母さんはいるかい?」
「坊…養育施設ってところはな…勉強もできるし、とてもいいところだ。お前さんの両親はちょっと病気なんだ。おじさん達が施設に連れて言ってやる」

彼らが、公安警察だったとは、カールが大人になって分かった事だった。


悲劇の日は突然到来した。

薄暗い早朝、ドアが叩き壊された。

母の金切り声と、父の怒号で目が覚めた。

カールは寝ぼけながら、体を起こす。
直ぐに母がカールを抱きしめる。

「カール!見ちゃだめよ!絶対に大丈夫…お母さんは一緒よ!」
母が抱きしめる方の向こうで、寝間着姿の父が、黒づくめの武装した大男たちに殴られ、蹴られ、蹂躙されていた。

「見ないで!カール!」

「カール…!私は大丈夫だ!」父の悲痛な叫びが、バラック小屋にこだまする。

一人の機動部隊員が、カールの父の髪を掴み、床へ叩きつけた。

「ギャー」カールの父は悲鳴をあげる「く…苦しい…息ができない!」

機動部隊員は、カールの父の背骨の上に巨大な膝をのせ、抑えつけていた。

傍らには、眠そうな目をした黒服が立っている。
「わかんねえ人だな…手荒なことはしたかねえのに」男はあくびして言った「もう一度。ヴァシレスキーはどこへ行った。アレクセイ・ヴァシレスキーは」

「知らん…私は機関誌の編集風情だ…」

黒服の眠そうな男は目を剥く。そして、怒鳴り散らした

「いい加減なこと言ってんじゃねえぞ!このアカが!」
怒鳴ると同時に、父の顔面を蹴り飛ばした。

メガネが粉砕して吹っ飛び、余りの勢いに抑えつけていた機動部隊員もよろめいた。

母はさらに強くカールを抱きしめる。

「連れて行こう。特別公安のやり方をまだわかってねえようだ」
カールの父は気絶したまま引っ立てられた。

「おい。てめえもだよ」眠そうな男は、手袋をつけた手で、カールの母の髪を乱暴につかみ、引っ張った。

「あああ!」激痛で悲鳴をあげる母。

「お母さん!」カール少年は恐怖と緊張…母との別れに涙していた。

「カール!絶対…絶対また会えるわ!くじけちゃダメ…」そこで、別の機動部隊員が、母を羽交い絞めにした。

「お母さん!お母さん!」カール少年は泣きながら母の名を呼ぶ!

「勉強して、偉くなって…この世界を変えるのよ!いつかきっと…また会えるから!」母は、泣きながらカール少年に語り掛けていた。
「愛してる!カール!元気でね…離して!」

その時、機動部隊員が母の頭に麻袋をかぶせ、一撃殴打した。
母はぐったりと動かなくなり、機動部隊員が担ぎ上げ、連れ去る…。

カール少年は涙を流したまま、立ち尽くしていた。
拳を握りしめ…
母の言葉を何度も反芻していた…


「坊。施設に行くぞ」黒服の男がカールに話しかけた。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「私は…母に会わなくちゃ…」砕けて血に染まった電子ヘルメットを被ったカールが呟く。

そう、カールは激しい頭突きをくらって、倒れたのだ。
ゆっくり立ち上がる…。

口の中は、血にまみれ、欠けた歯が転がっている。
電子ヘルメットのガラスも口の中に入り込んでいるようだ。

目の前には、筋骨隆々の暴力装置が近づいてきている。

「母に…会わなくちゃ…世界もまだ、変えてない」
カールはうわ言のようにつぶやく。

警官はいぶかしんでいる。
打撃と負傷で、カールが朦朧としていると思っているのだろう。

次の瞬間、警官はさらにカールを殴りつけようと拳を振り上げた。

「母よ…」カールはつぶやき、そして叫んだ。
「ウラーーーーーーーー!」

今までとは比べ物にならない膂力と速さで、カールの左腕が伸びた。

そして、通常人よりも長い腕で、さながらバットのような勢いで肘打ちを繰り出した。

鋭く、素早い肘は拳を振りかぶり、スキが多くなった平治の顔面にめり込んだ。
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