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第1章 黒衣の竜騎士

3 エストバール城

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身一つで馬車に乗り込むと、馬車は十日はかかるであろう王都への道を進み始めた。

俺は景色を楽しむ余裕もなく、気分も体調も日を追うごとに悪化していった。
家族で出かけることも多かったので、馬車の旅には慣れていたはずだったのに、魔力のせいか今回は酷く酔い、何も食べられず水すら吐く日が続いた。

体を渦巻く熱は全身を包むような痺れと熱、突き刺すような痛みを断続的に与えてくる。

俺は大きな馬車の中でクッションに囲まれて横になり、目を閉じて対面に座す使者と護衛二人の話を聞くとはなしに聞いていた。

「…しかしこのままでは、王都に着く前に儚くおなりにならないですか?」
「それでは困る。あの腹立たしい魔導士連中と対等に渡り合うには、この子が必要だ」
「本当にそんな力あるんですかねぇ?寝ててもこんだけ色っぽいんだから、色仕掛けでもさせた方がよっぽどいいんじゃないですか?」
「ふん…貴様ごときに言われずとも、上の方々が無力と判じればそうなるだろうさ」
「はあ、こっちに下げ渡される時は教えてくださいよ。しかし人形のような美しさだな、この見事な金髪…」
「あまり入れ込むな。間違いを起こせば、斬首だけでは済まされぬぞ」
「うう、怖い怖い」

そんな会話を耳にしながら、俺はエストバールという国があまりいい国ではないような気がしていた。不安ばかりが募り、更に気分が悪くなって、そのまま気を失った。

途中騎士たちの荒い鼻息を浴びせられたり、舐めるように見られたりしていたようだが、何とか気を失うことでしのいでいた。

魔力は相変わらず不安定で、どうしようもなく苦しくなった時は、馬車の中から小声で唱えてどこかわからない土地を浄化していった。その度に『魔導の御子』という言葉を聞いたが、俺は言葉を交わす余裕もなく、ずっと寝込んでいた。




何度も意識の浮き沈みを繰り返して、ようやくエストバール城に着いたらしい。

次に気がついた時には、俺は薄明かりの中で大きなベッドに寝かされていた。

知らない男に抱きとめられて、果実水を飲まされるが、男の匂いが気持ち悪くて吐いてしまった。
俺は吐いた胃液を拭われながら、別の方向からかけられた苛立つような声を聞いた。

「もう良い。退がれ」

微かな衣擦れの音を残し、抱きとめていた男が去っていくが、まだ誰か残っている気配がする。

俺は薄っすらと目を開けて視線だけで辺りを見回すと、視界の端のギリギリに、キッチリしたジャケットに輝かしい勲章をぶら下げた、立派な身なりの若者が立っているのが見えた。
もしやあれがこの国の王太子、グラン・エストバールだろうか。

「気がついたか?私がわかるか?お前の夫となる者だ」

男のきつい赤茶色の眼差しを見て、俺は戦慄した。

この目は、何だ。

何か言い知れない恐ろしさに、手足がガクガクと勝手に震え出した。
この男も、この小さな子どもの身体に欲情しているというのか。

俺はグランの視線から逃れたい一心でベッドの上を這いずった。
しかしグランはギシリと音を立ててベッドに上がってくると、無情にも俺にかけられていたシーツを引き剥がした。

「小さいな…」

俺の身体を見下ろすグランは、しかし失望した様子もなく、更に鼻息を荒くした。

「…っ、ゃ…」

俺はガタガタと震えてグランが上に覆い被さってくるのを堪えるしかなかった。
この男が本当に王太子だと言うのか。彼の赤茶色の瞳が、なぜだか異様に怖いもののように思えた。鈍く宿った光は、飢えた獣そのものだ。

もう嫌だ。怖い。

そう叫びたいのに、喉がひりついて碌に声すら出せなかった。
グランは俺が着せられていた薄いシャツに手をかけると、剥ぎ取るように脱がし始める。

嫌だ、嫌だ、嫌だ。

触らないで。

とうとう全裸にさせられて、大きな男の手が小さな身体を這い回り、首に吸い付かれ、乳首に噛み付かれた。

「ぃ…や…!」

気持ち悪い!

全身が粟立ち舌が這い回った皮膚が爛れたように灼けつく気がした。

這い回る手は、すっかり縮こまった俺の性器を見つけ出し、乱暴に掴み、グニャグニャと揉みしだく。
その恐怖に、涙がブワリと溢れ出した。

俺は一生、こんなことを堪え続けなければいけないのか。

「ぃひゃ…っ、ゃら…!ぃぁ…!」

もうすでに死にかけなのだから、いっそのこと今死んでしまいたい。
この這い回る手に触れられたところから熱で燃え上がって、俺の全身を焼き尽くしてくれたらいいのに。

死にたい!死にたい!早く!焼き殺して!この身体を…魂を…!

そう思い手のひらから熱を押し出そうとした時だった。


すぐ近くに稲妻が落ちたように、カーテンがパッと眩く青白い光に照らされた。

ズドォォーンッ!!

すぐ間近で雷鳴が轟き、ビリビリと建物が震える。

そして壁一面のカーテンが、ふいにブワリと膨らんだ。
ガシャーンッ!と硬質な音が鳴り響き、カーテンが覆っていた窓ガラスが全て割れたようだった。

その隙間から粉々になったガラスの破片が舞い込んで、室内のほのかな灯りをキラキラと反射した。

「な、何事だ!?」

グランは飛び上がって剣を引き抜いた。彼は帯刀し、靴も履いたままベッドに上がっていたのだ。

またしても稲光が閃き、今度は暗い色のカーテンの向こう側に、大きな人影を写し出した。

「そこか!」

グランが剣でカーテンを突き刺した時、バリバリバリーッと遅れて雷鳴が轟いた。
異常を察知したのか数人の人が駆けてくる足音が聞こえる。

「殿下!」
「グラン殿下、ご無事ですか!?」
「侵入者だ!窓を破って入ったぞ!」
「な…っ!」
「ど、どこに…!?」

騒然とし始めた寝室に全裸で転がされたままの俺は、ただ呆然と事態を眺めていた。

「ひ…っ!」

近くにいた騎士の一人が悲鳴を上げる。
俺が転がっていたベッドの足元に、バサリと大きな黒い物体が落ちて、ニョキリと背を伸ばした。

それは、人だった。

黒づくめの服と帽子、黒いマントに身を包み、銀髪を結わえて背に垂らした大きな男だ。

振り向いたその男と目が合った瞬間に、俺はなぜかシバに似ていると思った。人の良さそうな笑みも腰の低い態度もまるで正反対だったが、その身にまとう空気が似ていると感じさせた。

「貴様、何者だ!ここをエストバール城グラン王太子殿下の居室と知っての暴挙か!!」

屈強な騎士の一人が誰何し、他の一人が後ろから密かに近寄り斬りかかろうとした。

「ぁ…っ」

危ない、と言おうとして、やはり声が掠れて出ないことに気がついた。

黒マントの男は、大きな銀の杖をベッドに突き刺し、反対側の手をかざすと、ボソリと低い声で呟いた。

「『風よ吹け』」

男が手から何かを出した気がした瞬間、ゴウッと暴風が男を中心に吹き荒れた。
部屋の中にいた騎士やグランが家具もろともに吹き飛ばされて、壁に激突して床に落ちる。

魔法だ。

「どあっ!?」
「ぐぅっ!」
「げほっ、ごほっ…」

壁際に転がり呻く騎士たちを眺めて、黒衣の男はベッドに立ったまま、低い声を張り上げた。

「俺はロスディア魔導士会特務管理部管理官のアークだ!貴様らこそ、この子どもを魔導士と知っての暴挙だろうな?…強欲で蒙昧な国王を今すぐここに呼べ!!協定違反の罰則を言い渡す!!さもなくば次はこの城ごと、木っ端微塵に吹き飛ばすぞ!!」

黒づくめの男の剣幕に、騎士たちは顔を青くした。その内の何人かが外れたドアを踏みつけながら、慌てて部屋を出て行く。
ベッドも天蓋の柱ごと吹き飛んでしまったのに、どういうわけかすぐ近くにいた俺は吹き飛ばされずに済んだ。

そして何かをパサリとかけられる。確認すると、すぐ傍にあったシーツのようだった。

「どこまでされた」

低い声で尋ねているが、それが俺にかけられたものなのか、何を意味するのか、すぐには理解できなかった。

「ぇ…」

俺が驚いてぼんやりと見つめ返していると、ちっ、と舌打ちをして、どこからか手品のように銀の器を取り出した。

「『水よ杯を満たせ』」

微かにキラキラと輝くものが見え、男の持つ器に集まった。
男は屈み込むとそれを俺の口にあてがう。

「飲め」
「ん…っ、ぐ…」

頭を持ち上げられて半ば無理やり水を飲まされる。
ゴクリと水を飲み下すと、ヒリヒリと痺れていたようだった喉がいくらかマシになって、俺は小さく息を吐いた。

男は急かすように俺の頭を支えたまま顔を見合わせてきた。
その瞳が、空のように青い。

「…話せるな?どこまでされた?あの王子か?」
「あ…、の…か、からだ…さわられ、ました…?」
「それだけか?中には挿れられていないな?」
「な…か…っ?」

その言葉に俺は先ほどまで追い詰められていた不快さと恐怖を思い出し、ブルブルと震えながら首を振った。

「むね、を…か、かまれ、て…、こ、ここを…にぎ、にぎられ、し、しに、たい、て…」

俺がそう声をひねりだすと、男はため息をついて俺の頭を撫でた。

「はあ…死ぬな。だがお前の魔力はかなり強い。こう漏れ出ていては、只人は正気でいられまい」
「え…?」

その一言で最悪だった気分がもっと酷くなった。
それでは父や兄は。
周囲の態度が変わってしまったのは、俺の体から漏れ出ていたという魔力のせいなのだろうか。

「そんな顔をするな…すぐにお前を魔導士会に引き渡さなかった、お前の保護者や国王の責任だ」

ショックを受けたのが顔に出ていたのか、男はそんな気遣う言葉をかけてくれた。

そういえばギルドや魔導士会といった単語を最近よく耳にする。男は俺を引き渡すのが当然だというような口ぶりだが、そうなのだろうか。
家にあったどんな本や教科書にも、ギルドや魔導士会といった言葉は出てこなかった。

どういうことかと尋ねようとしたところで、ダカダカと大きな足音を響かせて、大人数の騎士が雪崩れ込んできた。
皆手に手に剣や弓や槍を持ち、入ってきた途端にベッドに向かって矢を射かけてくる。

黒い服の男はボソリと『風よ巻け』と唱え、左手を払うように動かした。
直前まで迫っていた矢は急に方向を変え、壁や騎士たちに刺さる。

「ぐあっ!?」
「なっ!」
「槍だ!槍で突け!」

そんな声の直後、ダダダと槍を持った騎士が突進してくる。

「煩わしい。全員死ね!!」
「や…っ、やめて!」
「何…っ?」

俺が咄嗟に男に抱きつくと、男は一瞬怯んだようだった。
俺はグワリと重力が回転したかのような感覚がして、いよいよ死んだかなと思った。

しかし恐る恐る目を開けると、男はなぜか片手で俺を抱き上げて、外のバルコニーの手すりの上に立っていた。

「何のつもりだ。そんなに死にたいのか?」
「あ…す、すみません…でも…殺すのは…」
「自分はあんなに殺してくれと叫んでいたくせにか」

なぜそのことを知っているのか。彼が魔法使いだからだろうか。
抱き上げられて間近で睨まれて、俺は涙が溢れてきた。

怖い。

なぜか懐かしいような気がしているのに、前世のどこかで強烈に誰かに叱られた時のような恐怖が立ち上ってきて、二の句が告げなくなった。

「う…っ、ヒック、ごめ、ごめんなさ…っ」
「うるさい。…泣くな」
「はぃ…」
「はあ…」

男はため息を吐き、おもむろに曲げた中指の後ろを咥えると、ピュウッ!と甲高い口笛を吹いた。
すると上空から、バサリバサリと羽根を羽ばたかせて、黒い竜が降りてきた。

男は俺を抱えたまま手すりから飛び降り、その竜に空中で跨る。
そしてあらゆるものが散乱した部屋の内部で呆然と立ち尽くしていた騎士たちに向かって、大音声で言い放った。

「エストバール王の意向は受け取った!!後日正式な書面によって、慰謝料を含めた違約金を請求する!!支払われない場合、魔界防衛協定の契約に基づいて、この城に国力の均等割り分の魔物の流入を許すことになる!!協定契約不履行の罰則は違約金支払期日をもって自動的に遂行される!隣国には前もって通達を行い、魔物の流出を防ぐため国境の完全なる封鎖を要請する!
…聞け、騎士ども!エストバールはすでに沈みゆく船だ!!自分の命が惜しい者は、愚昧な国王を弑し、愚かな王家に違約金を捻出させよ!!それすらできぬ安穏に飽いた者は、心して待つが良い!!故郷が地獄に侵食されてゆく時を!!」

この世界には魔物もいるらしい。
それをエストバールに解き放つと。

男はまるで地獄からの使者のようにそう宣うと、また何かの魔法を使ったのか、どこかでズドンと音がした。

轟音に戦慄する俺に、男は殺してはいないと鼻を鳴らした。
そして俺を股の間に座らせると、黒い竜の手綱を引いて飛び立った。




黒い竜はものすごい速度で王城から離れ、すぐ近くの城下町の一角へ墜落するように滑空し、大きめの建物の屋根に羽根を広げて降り立った。

男は俺を抱えて竜から飛び降りると、屋根の上を歩き、軽々と二階のバルコニーに着地する。そしてバルコニーから部屋に続く引き戸をノックした。
内側から扉を開いたのは、なんとあの家庭教師のシバだった。

「アーク管理官。いかがでし…わっ」

ぼんやりと驚いている俺を、シバは一瞥して小さく悲鳴を上げた。俺は被っていたシーツもいつの間にか取れて、全裸のままだったのだ。
シバは慌ててとにかく何か着るものをと言いながら、男を部屋の中に招き入れた。

「交渉などなかった。魔力の叫びで俺が見つけた時にはすでにこれが襲われていて、無茶苦茶な術式で自殺を図ろうとしていた。一刻を争うため、窓を破って拾った」
「じ、自殺を…っ!?ああ、セオ様、そんな…こんな、素晴らしい子が…」

俺は男にソファに座らされたが、もう意識を保っているのも限界だった。
グルグルと回る視界に酔っていると、男は隣に腰かけたらしい。自分の膝の上に俺を寝かせて、無愛想に命令した。

「寝ろ。後のことは心配するな」

そう言うと視界を黒いマントで包んでくれた。
マントに包まれると、微かに干したてのシーツのような匂いがした。

何となくここは安全な気がして、俺は久し振りに深い眠りに落ちていった。

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