上 下
82 / 156
白衣の天使編

聞かなきゃ良かった 2

しおりを挟む
「うわぁー私のバカバカバカバカぁーもーやらかしたぁー」

 日勤業務が終わったのは定時を大幅に過ぎた午後七時だった。雛子は誰もいないのをいい事に、休憩室のソファで駄々っ子のように足をじたばたとさせた。

(篠原さんが止めてくれたのに……何で声掛けちゃったんだろ……)

 不意に口をついた『誕生日』の言葉に、恭平の顔がすっと冷たくなったのを思い出す。

 それ以上その話題に触れるなとばかりに早足で去ってしまった恭平に、謝るタイミングも逃してしまった。

 胃がキリキリと痛む。

「……帰ろ」

 ここで項垂れていても仕方がない。

 雛子はソファから起き上がり、荷物を肩にかけ休憩室のドアを開けようとする。

「うぁっ……と、お疲れ様です」

「あら……まだ残ってたの?」

 雛子が開けるよりひと足早く、向こうからドアを開けたのは真理亜だった。

「ちょっと忘れ物しちゃって……取りに来たのよ」

 そう言って、真理亜は自分のロッカーから荷物を取り出す。困ったように笑う彼女に、雛子は少しだけ違和感を覚える。

「真理亜さん……何かありました?」

 何故か彼女の顔が、泣くのを我慢しているように見えたからだ。

「ちょっとね。何か気が抜けちゃったのかなぁ……」

 要領を得ないその返答に、何と返していいか分からず雛子は押し黙る。

「雛子ちゃん、仕事終わったのよね? 一緒に帰りましょうか?」








 雛子が着替えるのを待ってもらい、一緒に寮までの短い距離を歩く。秋も深まってきたこの頃は、日が落ちると足元から寒さを感じる。

「雛子ちゃんは? 今日は様子が変だったけど、どうしたの?」

 雛子としては真理亜に悩みがあるのならばせめて聞くだけでもと思っていたが、逆に質問されて‪僅かにたじろぐ。

「あの……実は、桜井さんに誕生日の話題を振ってしまって……」

「ああ……」

 合点がいったのか、真理亜はまた困ったように笑った。

「皆さんから色々と噂は聞いていたんです。篠原さんからもやめとけって……。でも、つい……」

 甘い雰囲気に乗じて、つい余計なことを口走った自分に心底嫌気がさす。雛子はマフラーの中に口元を埋めモゴモゴと口篭る。

「仕方ないなぁ……恭平は……」

 そう言って寒空を仰いだ真理亜は、何かを吹っ切るかのような顔をしていた。

「恭平の誕生日はね。今年は特別、一緒にケーキ食べる約束してるんだ」

「っ……」

 やはり二人は付き合っているのだろうか? 雛子の頭に、家に泊まったというあの日の事が思い出される。

 隣の真理亜からは、相変わらず甘ったるい香りが漂っていた。



「……命日なんだ。私の妹の」



 暗い空にぽっかりと浮かんだ白い月を見ながら、真理亜が呟く。



「恭平の、彼女の」



 冷たい風が、二人の間を通り抜けた。



「え……?」


 雛子の大きな瞳が、不安そうに揺れた。






 
 








「そう……だったんですか……」


 真理亜の話を聞き、恭平の態度が腑に落ちた。それと共に、プライベートなことまで踏み込みすぎて拒絶されたのだということも同時に思い知る。


 そこに自分は、入れてもらう事は出来ない。



『その日はどうやって過ごしてるの?って聞いてみたら、ケーキ買って一人で食ってる、ですって』


『毎年誕生日と命日にはここのケーキ買って墓参り行くんだよ』



「あ……」


 今更になって、言葉の意味を理解する。勘の悪さに嫌気がさす。


あの子はね、ふわふわしてて、いつでも一生懸命で……そう、雛子ちゃんにそっくりだった」

「私に?」

 その言葉に、雛子は面食らう。

「だから、恭平も雛子ちゃんの事放っておけないんだろうな……」

「真理亜さん……」


 だから、つい意地悪したくなっちゃった。


 その呟きは、雛子の耳には届かなかった。


(そっか……だから桜井さん、私の頭撫でたりするのかな……)


 勤務終わりでお世辞にも整っているとは言えない髪を、自分でそっと撫でながら雛子は思う。

 少なからず、重ねられているらしい事がショックだった。



「実はね、十一月一杯で退職しようと思うの」

「えっ!? 真理亜さん、何でっ……」

 突然の告白に、雛子は一気に現実に引き戻された。真理亜は動じる事なく、エントランスでオートロックを解除するとさっさと入っていく。

 雛子も慌ててそれに従う。

「理由は色々あるんだけど……ほら、年末って言ったら、ボーナス泥棒みたいで心象悪いじゃない?」

「そうじゃなくてっ……」

 また人の事情に踏み込み過ぎだろうか。そんな思いもあり、それ以上立ち入るのは止めた。

「……せめて、年度末でも良いじゃないですか。何で急に……」

 突然の退職宣言に、雛子は狼狽える。

 今までここの病棟で頑張ってこられたのは、真理亜のおかげでもある。恭平とはまた違い、いつも優しく支えてくれた彼女の存在は大きかった。

「早い方が良いのよ」

 その言葉は、まるで何かを決意するようにきっぱりとしていた。

 誰も犠牲者が出ないうちに。そう真理亜が心で付け加えた事を雛子は知らない。


「……私自身、向き合わないといけないから。妹の死で目を背けていた事、蔑ろにしていた事……。恭平にもきっと同じように、進めなくなっている何かがあって……でも、今彼は少しずつ変わっていっている。誕生日をお祝いしてあげるのは、その時までどうか待ってあげて」

 エレベーターに乗り、お互いの階でそれぞれ降りて二人は分かれた。

 一人部屋に帰った雛子は、頭の整理が追いつかずにヘタリと玄関に座り込んだ。



「真理亜さんの妹さんと付き合ってて……それで、桜井さんのお誕生日に亡くなって……真理亜さんが、仕事を辞める?」

 復唱するだけで、頭がパンクしそうだ。

「あれ……でも……今は、真理亜さんと付き合ってる、のかな?」

 情報量が多過ぎて失念していたが、結局そこは分からずじまいだ。

「全然……分かんないや……」

 雛子はショートしそうな頭を冷やすかのように、冷たいフローリングに靴も脱がず寝そべった。
















 スタッフの面談期間が終わってすぐに、真理亜が退職するらしいという噂が病棟内に飛び交った。

 中途半端な時期の突然の退職に皆首を傾げながらも、真理亜という大きな穴が空く事を予期してかどことなく忙しない雰囲気が漂っていた。

「何で急に辞めるんだろうね?」

 同僚達にそんな話題を振られても、雛子は曖昧に笑って同じように首を傾げて見せた。






「ほら見て桜井さん。いつの間にかいつも通り」

 一学年先輩の原と水嶋が、雛子をつつきながら恭平を見遣り飽きれている。

 誕生日を過ぎてからというもの、恭平は平素の様子へとすっかり戻っていた。

「……」

 しかし誕生日翌日の出勤で、あの日以来久しぶりに甘い匂いをさせてやってきた事を知っているのは雛子だけかもしれない。

 すなわち、その日も二人は真理亜の部屋で朝まで一緒に過ごしたという事になる。

(何もないわけ……ないよね……)

 もちろん職場で恋人らしい雰囲気など出すはずもないが、いくら同期とはいえ男女二人きりで泊まって何もないはずがない。

(もし私が悠貴と二人きりで泊まることになったら……)

 雛子は想像する。

「いや……何もない、な……?」

 自分に置き換えてみるものの、相手が悠貴ではイマイチ色っぽいハプニングは有り得そうにない。

 そうなると恭平と真理亜も一概に怪しいとは言えず、雛子の頭の中では疑惑が堂々巡りしていた。

 幸い、あの一件以来恭平とは勤務がすれ違っていたし、勤務交代時に出会ってもお互い何となく気まずくて話もしていなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

二十歳の同人女子と十七歳の女装男子

クナリ
恋愛
同人誌でマンガを描いている三織は、二十歳の大学生。 ある日、一人の男子高校生と出会い、危ないところを助けられる。 後日、友人と一緒にある女装コンカフェに行ってみると、そこにはあの男子高校生、壮弥が女装して働いていた。 しかも彼は、三織のマンガのファンだという。 思わぬ出会いをした同人作家と読者だったが、三織を大切にしながら世話を焼いてくれる壮弥に、「女装していても男は男。安全のため、警戒を緩めてはいけません」と忠告されつつも、だんだんと三織は心を惹かれていく。 自己評価の低い三織は、壮弥の迷惑になるからと具体的な行動まではなかなか起こせずにいたが、やがて二人の関係はただの作家と読者のものとは変わっていった。

嫁にするなら訳あり地味子に限る!

登夢
恋愛
ブランド好きの独身エリートの主人公にはほろ苦い恋愛の経験があった。ふとしたことがきっかけで地味な女子社員を部下にまわしてもらったが、地味子に惹かれた主人公は交際を申し込む。悲しい失恋をしたことのある地味子は躊躇するが、公私を分けてデートを休日に限る約束をして交際を受け入れる。主人公は一日一日を大切にしたいという地味子とデートをかさねてゆく。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

隣人はクールな同期でした。

氷萌
恋愛
それなりに有名な出版会社に入社して早6年。 30歳を前にして 未婚で恋人もいないけれど。 マンションの隣に住む同期の男と 酒を酌み交わす日々。 心許すアイツとは ”同期以上、恋人未満―――” 1度は愛した元カレと再会し心を搔き乱され 恋敵の幼馴染には刃を向けられる。 広報部所属 ●七星 セツナ●-Setuna Nanase-(29歳) 編集部所属 副編集長 ●煌月 ジン●-Jin Kouduki-(29歳) 本当に好きな人は…誰? 己の気持ちに向き合う最後の恋。 “ただの恋愛物語”ってだけじゃない 命と、人との 向き合うという事。 現実に、なさそうな だけどちょっとあり得るかもしれない 複雑に絡み合う人間模様を描いた 等身大のラブストーリー。

【R18】エリートビジネスマンの裏の顔

白波瀬 綾音
恋愛
御社のエース、危険人物すぎます​─​──​。 私、高瀬緋莉(27)は、思いを寄せていた業界最大手の同業他社勤務のエリート営業マン檜垣瑤太(30)に執着され、軟禁されてしまう。 同じチームの後輩、石橋蓮(25)が異変に気付くが…… この生活に果たして救いはあるのか。 ※完結済み、手直ししながら随時upしていきます ※サムネにAI生成画像を使用しています

ドSな上司は私の本命

水天使かくと
恋愛
ある会社の面接に遅刻しそうな時1人の男性が助けてくれた!面接に受かりやっと探しあてた男性は…ドSな部長でした! 叱られても怒鳴られても彼が好き…そんな女子社員にピンチが…! ドS上司と天然一途女子のちょっと不器用だけど思いやりハートフルオフィスラブ!ちょっとHな社長の動向にもご注目!外部サイトでは見れないここだけのドS上司とのHシーンが含まれるのでR-15作品です!

元カノと復縁する方法

なとみ
恋愛
「別れよっか」 同棲して1年ちょっとの榛名旭(はるな あさひ)に、ある日別れを告げられた無自覚男の瀬戸口颯(せとぐち そう)。 会社の同僚でもある二人の付き合いは、突然終わりを迎える。 自分の気持ちを振り返りながら、復縁に向けて頑張るお話。 表紙はまるぶち銀河様からの頂き物です。素敵です!

処理中です...