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1巻

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   プロローグ


「こんなにがいものたべられないよ!」

 僕が食べられないものを出すなんて、意地の悪い料理長はクビだ!

「いったぁい。なんでこんなとこにつくえがおいてあるの? へ? まえから? ルゥうるさい、ぼくにくちごたえするな!」

 立場をわきまえない執事はもうクビ!

「……またべんきょうだって?」

 とんでもないことを言い出す家庭教師はクビクビ! 
 お前らの代わりはいくらでもいる。対して僕は唯一無二の存在だから、何をしたって許される。公爵家の長男として生まれた僕の代わりなんて存在しない。
 そんな僕の世界をおびやかす存在が現れるなんて、考えたこともなかった。
 けれど、何もかもが崩れ去るのは一瞬だった。

「キルナ様。そろそろあなたもお兄様になるのですよ。我儘わがままばかりおっしゃらず、落ち着いてくださいませ」

 僕の専属執事のルゥは、いっつもうるさいから普段はスルーするようにしているんだけど、今日は聞き慣れない単語に思わず反応してしまった。

「おにいさま? なにそれ」
「何度も侍女がお話ししていたでしょう。弟君か妹君がお生まれになるのですよ。医者の見立てでは、今日明日でもおかしくないと」
「ふーん……」
(そうなんだ。僕はお兄様になるのか)

 だからなんだというのだろう。僕にはそれがどんなことなのか、よくわからない。お母様のお腹が大きくなっていくのは、たまにお見かけした時に気づいていた。でも、お母様は僕のところになんて来ない。お腹が大きくても小さくても。
 ──赤ちゃんが生まれても生まれなくても僕のところには来ない。

「ぼくはおかあさまもきょうだいもきらい」
「そのようにおっしゃってはなりません」
「なんで? みんなだってぼくのこときらいでしょ」

 その時だった。大きな泣き声が広い公爵邸に響き渡ったのは。
 そして大量の情報が頭の中に、大きな波みたいになだれ込んできたのは。

「キルナ様!?」

 僕はあまりの頭痛に、目の前が真っ黒に染まるのを感じた。


   * * *


『ねえ七海ななみ、このキャラ格好よくない? 超好みなんだけど』

 さらっさらの金髪に碧眼の美形を指差してはしゃぐのは、学校から帰ってきた弟の優斗ゆうと。中学校の重たい鞄をボスンと床に落として僕のベッドに座ると、何やらゲームのパッケージを見せてくる。
 それは最近優斗がハマっているゲームだ。昨日も夜遅くまでプレイしていて、お母さんに早く寝なさいと怒られていた。

『うーん。まあイケメンだけどさ。わかるけどさ。こうなるのはちょっと難しいかもなぁ』

 僕の弟は何を目指しているんだ? といぶかしく思いつつも、できるだけ悲しませないような言葉を選ぶ。

『ちっがーう。そういう観点で見るんじゃないのー。これはBLゲーだから、イケメンたちに愛をささやかれて、癒されるのが目的なんだよ。七海にはわかんないかなぁ、このよさが! 特にクライス王子と主人公のユジンの絡みは最高でね……』

 BLゲーの世界観にはついていけないけれど、一生懸命しゃべる優斗は可愛い。もちろん変な意味でじゃなく、弟としてだよ?
 僕は中学三年生だけど、そうは見えないくらい小さく、手足も細い。先天性の病を抱えていて、薬の副作用のせいでたくさん食べると吐いてしまうのだ。学校にはほとんど行けておらず、今日も熱があってベッドの住人と化している。

『本当に面白いんだよ、これ。七海もやってみてよ』

 テレビ画面を見ていると、すぐに目が疲れて頭が痛くなってくるから、クリアするのは無理だろうなと思いながらも、そのゲームを受け取った。『虹の海』というタイトルに目が行く。

『この虹の海ってタイトルが好きなんだ。だって、七色の海って、七海のことだろ?』

 そう言って笑う優斗を見て、僕も笑った。

『ごほっ』

 急に咳が出始め、止まらなくなった。
 胸がぜぇぜぇする。痛いな……

『な、七海っ!? 血が……』

 血が……口から……


   * * *


「……さま。キルナ様! お目覚めですか!? すぐに医者を呼んで参ります」

 視界に映るのは見慣れた木目の天井、ではなくて、複雑な模様が描かれた西洋風の豪華な天井だった。

(ああ、ここは、この世界の僕の部屋だ)

 目を開いた僕を見て「よかった」と安堵の息を吐いているのは、口うるさい執事のルゥと、いつも嫌いな食べ物を食事に混ぜてくる意地悪な料理長ベンスと、鬼の家庭教師セントラ。
 男ばっかりに囲まれながら、うぅ、そりゃそうか……なんせここはBLゲーム『虹の海』の世界だもんね、と考える。そう、前世の記憶のようなものがさっき大量に流れ込んできたおかげで、この世界が何で、自分が何者なのかを、僕ははっきりと思い出した。

「ぼく、あくやくれいそくだ」

 ぽつりとこぼれた言葉にみんなが固まる。

「何をおっしゃっているのですか? 急に反省するのはおやめください。びっくりするじゃないですか。体調を崩して気が弱くなっておられるのですか?」

 お医者様を連れて戻ってきたルゥが、綺麗な形の眉を寄せながら僕の目を覗き込んできた。長く伸ばした銀髪なんて日本人なら考えられない髪型だけど、これだけイケメンなら似合うんだなぁ。
 執事の美貌に感心していると、横からテノールの声が響く。

「坊ちゃんの好きな生クリームたっぷりのふわふわシフォンケーキを作りますから、元気出してください!」

 料理長のくせに、騎士か? ってくらいガタイのいいベンスは頼り甲斐のある性格な上に、腕も確かで、弟子たちの憧れの的だという。鼻も高くて男前だし羨ましい。

「残念ですが、今日のお勉強はお休みですね。ゆっくり体調を整えてください」

 そう言いながら微笑んでいるのは、家庭教師のセントラ。鬼畜な性格とこの甘い顔立ちとのギャップに、僕は今まで散々苦しめられてきたものだけど、さすがに今日は優しいみたい。……と思ったのも束の間、枕元に分厚い本がどんどん積み上げられていく。

「んぇ? なにこれ……」
「一日中ベッドの上では退屈でしょうから、よさそうな本を見繕ってきました」
(ちょっと! 重い物体が置かれたせいで、高級マットレスが沈み込んでいるよ)

『魔法学基礎』『初めての社交界』『実践魔法理論』エトセトラ……ずらっと並ぶ題名に頭痛が戻ってきたようだ。

「うぅっセントラのおにぃ……う、けほっ」

 長いこと寝ていたせいか、カラカラに渇いた喉から咳が出始めた。

「けほけほっ、ごほっ」

 大きく咳き込むと、喉の奥から血があふれてくる気がして、息がしづらくなる。手にもべったりと血がついている……?

「ああ、ちだ、ちがとまらないよぉ。たすけて! たすけてよ、だれか!!」
「キルナ様、落ち着いてください。血など出ていません。息を吸いすぎです。吐いて。そう、ゆっくり吐いた息を吸うんです」

 涙がにじんで前が見えないまま、横から聞こえるお医者様の指示に従って、ゆっくりと息を吐く、吐いてから吸う、もう一度ゆっくり吐くことを繰り返す。

「はぁ、すぅ、はぁ」

 何度もそれを繰り返すうちに呼吸が落ち着いて楽になり、視界も鮮明になってきた。再び自分の手のひらを見ると、そこには何もついていない。

「ちぃなんてついてない、だいじょうぶ、だいじょうぶっ」

 自分に言い聞かせるように呟く。
 大丈夫? 本当に? 僕はどうなったの? 思い出せない。血が出てそれからどうなったのだっけ? あの日、家には僕と弟の優斗しかいなかった。僕はあのまま死んだのかしら……
 そうだ、とベッドに横になったまま尋ねた。

「おとうと……おとうとはうまれたの?」
「はい、無事お生まれになりましたよ。元気な男の子です」

 お医者様が、僕の涙やら額の汗やらを丁寧にハンカチでぬぐいながら答える。

「ですが、どうして弟君だとおわかりになったのですか?」

 不思議そうに首を傾げる彼に、僕は笑った。記憶を思い出してから初めて笑った。

「そりゃわかるよ。だって」

 ここは『虹の海』の世界。僕は悪役令息で、今日生まれた弟は主人公のユジンなんだから。



   第一章  悪役令息キルナ


 BLゲーム『虹の海』の舞台であり僕たちが暮らしているアステリア王国は、大陸の西の端に位置する大国で、この国の人たちは魔法を使うことができる。魔力の量は高位貴族ほど多く、その魔力は、光、火、風、水、氷、土、闇という七つの属性に分かれている。
 属性にはそれぞれ色があって、火は赤、水は青、闇は黒というふうに髪の毛や瞳の色に反映されるから、見た目でもなんとなく判別できるようになっているんだけど、この国にはなぜか昔から『黒』を嫌う風潮があるせいで、闇属性はみ嫌われている。逆に光属性は、王族かそれに近しい貴族にしか現れない希少な属性としてたっとばれているという。
 そんなファンタジックな世界の主人公は、僕の弟のユジン=フェルライト。公爵家の次男として生まれた彼は、光・火の二属性持ちで光という貴重な属性を備えている上に、魔力の量が非常に多い。
 一方、主人公の兄で悪役令息である僕、キルナ=フェルライトも同じく二属性持ちだけど、闇と水という、まぁ典型的な悪役属性だ。しかも、魔力はなんとほぼゼロに近い。闇属性ってだけでも縁起が悪いと煙たがられるというのに、なんてこと!
 それが判明した時から、お母様は汚物でも見るかのような目で僕を遠ざけた。お父様はヒステリックになった妻やその原因である僕を避けるべく、今まで以上に王宮での宰相業務に没頭し、家にはほとんど帰らなくなった。
 そんなこんなで五年間一人放置状態だった僕は、我儘わがまま放題のお坊ちゃんに育ち、悪役街道まっしぐら。←今ココという感じだ。
 おまけにユジンという非常に有望な弟が生まれたことで、一人息子というだけでなんとか価値を保っていた僕の立場は一気に弱くなってしまった。もう今までのように我儘わがまま放題でいるわけにはいかないはず、なんだけど! やっぱりそう簡単に性格は変えられないんだよね。
 せっかく七海の記憶があるのだから、それを活かして大人びた振る舞いをしたいところなのだけど、どうやらそうもいかないみたい。体が五歳のキルナのせいか、僕の思考もそれに引きずられて、すぐに「ぐわあああああ」って感情的になってしまうの。
 今だって、具だくさんスープに野菜の肉巻きみたいな……高級料理の名前はちょっとわからないけれど、今世の僕が苦手な野菜がふんだんに入っているお皿を前にして、僕はわめいていた。

「だからぁ、おひるごはんはシフォンケーキがいいっていったでしょっ!」

 前世では健康重視の食生活で、インスタントやレトルト食品はもちろん、大好きな甘いものもほんの少ししか食べられなかった。今は健康だからなんでも食べられるのに……甘いお菓子をお腹いっぱい食べたいよぅ。 

「なりません。お体のためにきちんとした食事をとっていただかなくては」
「ぼくはおかしだけたべたいの。からだなんてどうなったっていいの!」
「いけません!」

 かたくなに栄養バランスばっちりのランチプレートを食べさせようとするルゥの必死な姿に、さすがの僕も渋々鶏肉っぽいお肉をナイフで小さく切って口に運んだ。
 別にいいのに。僕は悪役令息で、二十三歳になったら断罪されてギロチンかなんかで死ぬんだから。今五歳ってことは、あと十八年くらいでしょ。ご飯なんて食べてる場合じゃない、はずなのに……

(あ、意外とおいしい、もぐもぐ。あ、この甘辛いタレ、焼き鳥のタレに似ていて食べやすい。あ、こっちのスープはほんのり甘くて優しいお味)

 なんて思っているうちに、うっかり完食してしまった。

「ああっ、ぜんぶたべちゃった! むぅ、ごはんなんかたべたくなかったのにぃ~」

 悲痛な叫びを合図に、ベンスが生クリームたっぷりのシフォンケーキと野苺っぽい果物の香りがする紅茶をテーブルに並べる。

(うわぁ、僕の好きなプライマーの紅茶、おぉいしいぃ。生クリームは甘すぎず、好みの味! シフォンケーキは舌に載せた瞬間に溶けちゃう! ふんわぁり、しゅわしゅわ。ムグムグ、んぅおいしっ)
「しあわせぇ」

 思わず口から本音がれた。

(あ、だめ。今の悪役令息っぽくない)

 軌道修正するために、僕の食べっぷりを見ながらニコニコしているベンスに向かって、怖い声で言ってやる。

「いまのなしね。もぐもぐ。つぎはこれだけもってこないと、クビなんだからね。べンスがいくらりょうりじょうずで、ぼくのこのみをじゅくちしてたとしてもクビだよ、クビ! ごくごく」

 ああ、鼻から抜ける甘酸っぱい香りがたまらない!

「こうちゃおかわりぃ」


「この後はどうされますか?」

 平日は午前中にお勉強、午後にダンスやマナーの練習をすることになっている。午後のレッスンは十五時からだから、それまでは好きなことをする時間。やりたいことはたくさんあるから何をしようか悩ましいところだけれど……

「きょうは、おにわのたんけんをしようかな」

 それを聞いてルゥがふふっと笑う。ユジンが生まれてからというもの、僕は公爵家のお庭探検を日課にしていた。探検と言ってもあちこち動き回るわけではなく同じ場所で過ごすだけだから、彼にはもう僕の目的がバレているのかもしれない。

「今日も、お庭ですね。承知いたしました。では動きやすい服に着替えましょう」

 僕はひらひらした布やキラキラしたボタンのついた服よりも、このシンプルなシャツに何の変哲もないズボン、軽いブーツという装備の方が好き。なのに、ルゥはなぜかやたらと僕を飾りつけたがるから、いつも嫌だ嫌だと駄々をねながら着替えている。
 もし断罪の内容が公爵家から追放されて平民堕ちとかに落ち着いたら、毎日シンプルな動きやすい服を着て過ごしたいなぁと思う。でも――

(僕って結局、断罪後はどうなるのだろう)

 実はゲームは借りたものの、やった記憶がない。やっぱりすぐに頭が痛くなるからやらなかったのかもしれない。だから悪役令息キルナがどんな最期を迎えるのか、肝心なところがわからない。
 死刑なのか、追放なのか……優斗はなんて言ってたかなぁ。ゲームの話は耳にタコができるくらい聞いたのに、不明なワードが多すぎて聞き流していたのがあだとなっている。
 そんなことをつらつらと考えながら青い芝生を歩き、ようやく目的の場所に辿り着いた。
 お庭にある噴水横のベンチ。ここに立てば、弟の部屋の窓がちょっとだけ見えるの。中までは見えないけれど、耳を澄ますと、ほら、声だって少し聞こえる。

「ユジン様、ミルクのお時間ですよ」
「ふぇええん…………」

 可愛らしい赤ちゃんの泣き声が……止まった。ああ、多分今ミルクを飲んでいるんだ。

(見たいな。見えないかな?)

 ベンチの上で背伸びをしてみるも、全然届きそうにない。何かもっといい方法はないかと周囲を見回すと、噴水のふちがいい感じに高いことに気がついた。
 フェルライト家の噴水はその辺のものとは違う。その大きさたるや五十メートルプールが入っちゃうほどで、水の色も魔法で七色に変わるんだ。パーティーの時にはショーの演出もしているみたい。今まではこんな豪華な噴水、個人宅に必要ないよねって思っていたけれど、今初めて必要だと感じた。だって、こっちの方がベンチより高い!!
 さっそく鞄を地面に置いて身軽になり、でこぼこをうまいこと利用しながら噴水の石壁を登り始めた。顔や背中に水の飛沫しぶきが思ったよりもかかるけど、僕は水属性で水とはかなり相性がいいから、なんてことはない。魔力はショボショボだから、水魔法は未だに初級を練習中だけども。

「キルナ様、そんなところに登られては危のうございます。今私がそちらに参りますから、そのまま動かずお待ちください」

 慌てて走り寄ってきたルゥが、僕を止めようとするけど無視しちゃう。

「きちゃだめ。はぁ、はぁ、もぅちょっとでのぼれるから」

 右手がふち天辺てっぺんに届き、あと少しであることを確信する。腕にありったけの力を込めて、なんとか体を持ち上げると、どうだろう。見事噴水のふちに座ることに成功した。
 ふちが丸みを帯びていて座りにくいのが難点ではあるものの、さわやかな風が体を吹き抜け、きりのような細かい水が体を濡らすのが心地いい。ここで立ち上がればふちの高さに僕の身長が加わって、部屋の中が見える……はず……

(あっ、赤ちゃんが見えた! あれが僕の弟)

 初めて見る弟は、小さくて色白で目がくりくりしていて、天使みたいだった。光と火の色が混ざったピンクゴールドの髪の毛は、少し癖っ毛なのか、ふわふわと波打っている。
 僕の真っ直ぐで真っ黒な髪とは全然違う。僕の属性は闇と水だから黒と青が合わさってダークブルーとかになればカッコよかったのだけど、混ぜたらなんと青い色はどこかに消え去って、真っ黒になっちゃったらしい。せっかく異世界なのに黒髪なんてつまらないよね。しかもこの国の人にとって黒は不吉に映るらしく、悪口を言われることもしばしば……
 ともあれユジンはゲームの通り、尊い属性を持っているようだし、優しい侍女たちに囲まれて幸せそう。よかったよかった。無事弟の姿を確認できたし、そろそろ降りよう。って、あれ? ここってこんなに高かったっけ?
 想像以上に地面が遠くて、登ってきた時よりも怖い気がする。どうやって降りるか悩んでいると、光沢のあるゴールドのドレスを着た女性が部屋に入ってきて、ミルクを飲み終えたユジンを乳母から受け取り抱き上げるのが見えた。 

(あ、あれはお母様だ……)

 柔らかなユジンの髪を撫でる白い手を見ていると、なんだかちくっとお腹が痛む。この痛みはなんだろう。そう思った時、つぶらなピンクの瞳とぱっちり目が合った。ユジンがキャッキャと笑みを向けてくれ、その愛らしさに悶絶もんぜつする。あぁ、なんてこと……弟が可愛すぎる。

「あら? ユジン、何を見ているの? お外に何かあるの?」

 そう言ってお母様が美しいお顔をこちらに向けた。みるみるうちにその顔が強張っていくのがわかり、僕は慌てて体を伏せようとして、失敗した。
 どぼーん!
 そんな感じの効果音だったと思う。気づいた時には虹色に輝く水の底に沈んでいた。
 水の中で目を開けると、キラキラと水面みなもがきらめいていた。自分の口から、服から、泡が上っていき、表面に到達するのを見送る。

(どうしよぅ……)

 前世は体が弱くてプールの授業は見学していたし、今世は泳ぐ練習をしていない。困ったことに、僕は泳げないのだ。練習、逃げ回ってないで少しはやっておけばよかったかな? 口うるさく泳ぐ練習をしろと言っていたルゥやセントラの顔を思い浮かべる。
 手足を動かし浮き上がろうと試みるも、こんなに服が重たいと無理。泳げる人だってこれは無理だと思う。じゃあ、泳げても意味ないね。やっぱり泳ぐ練習なんてしない。

(うぅ、ゴボッ。やばい。息が……苦しくなってきた)

 もう駄目だと思って目を閉じたら、すごい力で体が持ち上げられるのを感じた。誰かに抱きかかえられて水から出られたようだ。地面に広げた布の上にうつ伏せの姿勢で下ろされ、背中を叩かれる。

「ガハッ、ゴホッ、うぅ」

 うえぇ、水をいっぱい飲んじゃった。しばらく咳き込んで、飲んだ水を吐き出してから見上げると、ハイパーイケメンボーイがそこにいた。この世界は美形揃いとはいえ、子どもながらに彼は群を抜いて整った顔をしている。

(僕、この人知ってる)

 ユジンよりも明るい金の髪は、光魔法に特化した王族の色。これは優斗が好きだと言っていたあの王子様の色だ。でも残念、名前を忘れた。

「んっ、たすけるのが、おそい! だれっ?」

 悪役令息の僕はこんな時でも高飛車に問いかける。へへん、相手が実は王子様ってわかっているけど、高飛車。僕ってすごく悪い子。なんせ悪役なんで、不敬罪上等!

「クライスだ。こんなところで水泳か? ああ、違うな。沈んでたもんな」
(くそっ。なんなのこいつ。僕が泳げないことに文句あるわけ?)

 ニヤニヤしながら濡れた髪を掻き上げる姿が、絵になるくらいカッコいいのが余計にムカつく!

「クライス、ね。ぼくのいえになにかよう?」

 子ども相手に敬語なんて使ってやらない。あ、大人にも使ったことなかったか。でもクライスだって、王子って名乗らなかったからお互い様だよね。

「父様に急に婚約しろと言われたから、相手を見に来たんだ。面倒臭いと思ったが、こんなに面白いものが見られるなんてな。自分の家の噴水で溺れているとか、ふはっ、はははっ」

 お腹を抱えていよいよ本格的に笑い出したクライスに、僕は一生懸命弁解する。

「わ、わざとだよ。びっくりさせようとおもってもぐってたの。みずぞくせいのぼくがおぼれるわけないでしょ。もうちょっとしたらうかぶつもりだったのに、じゃましないでよ!」
「ははっ、あ~そうだったのか。わかったわかった」

 全然わかってなさそうなクライスを睨みつける。くそぅ、こんなやつ、王子じゃなかったらぐっちゃぐちゃに叩きのめしてやるのに!

「で、俺の婚約相手、キルナ=フェルライトというのはお前か?」
「ん、そう……だけど」

 婚約相手ってなんのこと? と訊き返す前に、あっ確かそういう設定だったなと思い出した。アステリア王国第一王子のクライスと公爵家嫡男の僕が婚約して、それは学園の卒業パーティーで破棄されるんだった。

「こんなびしょ濡れのちんちくりんが俺の婚約者か。俺と同い年だっていうのに体はやたらと細くて小さいし、魔力だって全然感じられない。髪は真っ黒で目は、金色? へぇ、顔は……悪くないな。つまらないお嬢様とかより断然いいか。むしろ……まぁ長い付き合いになる。よろしく」

 失礼極まりない挨拶にわなわなと拳を震わせながらも、精一杯笑顔を作ってよろしく、と返した。
 我慢我慢。だってストーリーを壊さないためには、婚約はしなくちゃいけない。こいつがどんなに嫌なやつだったとしても。
 ──それが弟の、ユジンの幸せのためだから。


 怒りに震えていたのを水に濡れた寒さのせいだと勘違いしたルゥが、大きなバスタオルごと僕を抱えて屋敷のお風呂へと走った。王子もびしょ濡れになっていたので、バスタオルで体を拭きながらついてきていた(っていうかルゥ、ここは僕じゃなくて王子様をお運びするべきところなんじゃ?)。
 正直お風呂は大好きなので入浴できるのはうれしい。公爵家のお風呂は前世の自室がすっぽり入るほど大きいから、泳ぎたい放題だ。まぁ泳げないのだけども。

「キルナ様、体の芯まで冷たくなっておられます。今日は私にお手伝いさせてください」

 ルゥが切れ長の美しい目をうるうるさせながら懇願こんがんしてきた。しかしそれは断固として断る。前世の記憶を思い出してからというもの、人に裸を見られるのが恥ずかしくて仕方がない。それまでは大切なナニ? が見えていようと、平気でお世話させていたのに。

「だめ」

 僕はかじかむ手でボタンを外そうとしては失敗し、ルゥは横でハラハラしつつそれを見守っている。あ、また失敗。このボタン硬いんだよね。ベルトの外し方も難しいし、濡れているから余計にやりにくい。
 手こずっていると、「貸せ」と横から伸びてきた手にプチプチとボタンが外されていく。

「ああ、さわっちゃダメなのにぃ。じぶんでやるってば!」

 その手の主、クライスを睨みつけるが、なんのその。僕の服をあっという間に全部脱がしてしまった。さらに自分の服も脱いじゃったよ、この人。えっどういうこと?

「寒い。もたもたするな」

 背中を押されて暖かいお風呂場に入れられる。

「ちょおっと、なんでいっしょにおふろにはいるながれになってるの?」
「婚約者なんだからいいだろ」

 飄々ひょうひょうと答えながら、彼はがっちりと僕の腕を掴んだまま湯船へと向かった。

「あぁ、まってよ」
(僕はお湯に入る前に体を洗う派なのにっ)

 ちゃぽん! 結局抵抗できずに一緒に入ってしまった。入る直前までは横暴な王子様にしこたま文句を言ってやろうと思っていたのに、一度湯船にかると自然と体から力が抜けて、気分も落ち着いた。思った以上に冷えていたらしい。

(まぁいいか。もし風邪なんか引いて、薬を飲めって言われたら嫌だし。とりあえず今はお風呂を満喫しよう)
「ふはぁ、いいきもち~」

 お湯の表面にぷかぷか浮かんだ白い花びら。その甘い香りに癒される。
 ぶくぶくぶく。顔を半分沈めて口から少しずつ空気を出す。これって特に意味はないけど楽しいんだよね。ああ、もっと頭の天辺てっぺんまで温かくなりたいな。ぶくぶくぶく……ぶく。どんどん頭を沈めていくと、白いお湯で何も見えなくなった。

「…………」
「ちょ、おい! お前また沈んでるのか!?」

 慌てたクライスが近づいてくる。へへっ、悪戯いたずらしちゃえ。
 近づいてきた彼の頭をがしっと両腕で掴まえて、お湯の中に引っ張り込んでみた。でも――

(ぶくぶく、どうだ。びっくりしたでしょ!)

 なんて遊んでいたのがいけなかったのかな……
 入浴剤でぬめる床を滑って、お湯の中でクライスの下敷きになってしまった。掴まえていたクライスの顔がちょうど僕の目の前で向かい合うような形になっている。体勢が崩れて身動きが取れない。クライスが乗っかっているせいで上に行けない。ガボガボッ。まずい。空気が……

「プハッ、はぁ、はぁ」
「大丈夫か!?」

 またもやクライスが抱き上げて救出してくれたらしい。危なかった、今度こそ死ぬとこだった……と思いながら息を整える。

「……あの、クライス……たすけてくれて、ありがと」

 湯船に立って抱き合ったまま自分より背の高い彼を見上げ、この短期間のうちに二回も助けてもらったお礼を言う。次の瞬間、唇に柔らかなものが触れる感覚に目を見開いた。

(え??? なにこれ)

 ちゅっと恥ずかしい音を鳴らして離れていったのは、クライスの形のいい唇だった。

「な、な、なにするの! やめてよ」

 僕は火照ほてった顔を手でおおい隠しつつ抗議した。熱くなりすぎて頭がクラクラする。クラクラしながらも、僕は目一杯怒る。

「ファーストキスだったのに!」
「どうせ結婚するんだからいいだろ。潤んだ目でお礼とか可愛すぎるし……大体お前が変な悪戯いたずらするから……って、おい、泣くなよ。悪かった、謝るから」

 ふらついた僕の体を支えようと、クライスが差し伸べてきた手を振り払う。

「ひっく、なんでこんなことしたの? えぐっ、ぼくたちはけっこんなんてしない。きみは、えぐえぐっ、ユジンとけっこんするのにぃ」

 そんなことを言いながらぶっ倒れた。のぼせてしまったらしい。
 急いで駆けつけたルゥやお医者様に結局裸は見られたし、ファーストキスはクライスに奪われたしで、もう踏んだり蹴ったり。
 それに僕、クライスに大切な秘密をバラしちゃったような……


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