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桜慕
しおりを挟む「アリーシア」
私は初めて自分から彼女を誘った。
「お前は昼の桜を美しいと褒めてくれるが、真に私が美しいのは夜なのだよ」
屋敷を抜け出して、夜に会えないか、と私は誘った。
アリーシアに真に美しい私の姿を見せてあげたいと思ったのだ。
彼女は一瞬、目を見張って、それからいたずらっぽく微笑むと
「夜に侍女が私の毛布を掛けにくるの。それからなら朝まで誰も来ないから、窓から抜け出せるわ」
瞳がキラキラと輝いていて、頬が少し高揚しているのを見て、私はもっと早くに誘えばよかったと、わずかに後悔しながら頷き
「では、今宵待っている」
私の実態のない胸が高鳴った。
今宵は雲などなければいいが、と私の危惧は杞憂になり、美しい月明かりの晩になった。
これほど明るければ灯りなどなくてもアリーシアは私の元にたどり着けるだろう。いや、でも、夜は得体のしれないモノが闇に潜む。
屋敷までアリーシアを迎えに行ったほうがよいかも知れない。
人間のように心配しながら、私は風にのる花びらのようにアリーシアの部屋の窓辺に降り立って部屋を覗いてみた。
部屋には重くカーテンがかけられ、中を覗くことができなかった。
私はそのカーテンが開けられて、アリーシアが顔を見せるのを待った。
しかし、空が白々と明るくなっても、その重いカーテンは開かれることはなかった。
いったいどうしたのだろう。
アリーシアが今まで約束を破ったことなどなかったのに。
朝になっても、昼になっても、そしてまた夜が来ても、その窓が開けられることも、アリーシアが顔を覗かせることもなかった。
幾日も私は窓辺で待ち続けた。
私の花びらが散ってしまって、もう夜の美しい私を見せてあげられなくなってしまっても、私は待ち続けた。
アリーシアが庭を駆け抜けて「ねえ、聞いて、オウキ」と言ってくれるのを待ち続けた。
そして、待ちながら私は考えた。
いったい何があったのだろう。
アリーシアはまさか、病なのか。もしかしたら、死に至る病なのか。
人間の生命が脆く儚いことを知っている。
アリーシアが、いなくなる。消えてしまう。
そう思うだけで、私の木は全身が震え、花びらをすっかり落とし、まるで枯れ木のようなみすぼらしい姿になった。
アリーシアに何があったのか、知るすべもない。
私がもし人間なら、屋敷の中に駆けていき、探して尋ねるものを。
人間だったらよかったのに。
人間になりたい。
人間になりたい。
わずかな時間でいいから。
私は、祈っていた。神に。そして、理解した。
人間が神に祈るのは、自分ではどうしようもないことを願うからだ。現実にはならないことを願うために神に祈るのだ。 そして、祈りが叶えられることはないとわかっている。
けれども、もし、神というものがいるとしたら、願いを聞き届けて欲しいと祈るのだ。
「オウキ!」
私を眠りから覚ました声。
私はいつの間にか眠ってしまったらしい。身体が気怠く重い。
「オウキ、ごめんなさい。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
ああ、アリーシアだ。
アリーシアの泣き顔を見るのは何年ぶりだろう。
私を見つめる琥珀色の瞳が涙で潤んでいる。
「何を泣いている?」
初めて会ったときも同じことを聞いたな、と私は思い出した。
「ごめんなさい。私・・・もう、これからオウキに会えないの。夜にオウキに会う約束をしたあの日、お父さまとお母さまが私を呼んでおっしゃったの。私はローマリウス国の王に嫁がなければならないのだって」
会えない?もう・・・会えないと、アリーシアは言ったのか?
「それで、私は初めてお父さまに逆らったの。お会いしたこともないような方に嫁ぐなんて嫌ですって。そうしたら、お部屋に監禁されて、見張りをつけられて・・・私が結婚を了承するまで、お部屋からは出さないって」
ああ・・・だから・・・会いにこれなかったのか。
いや、だったら、今、こうして会ってるのは
「ごめんなさい。オウキ、私にあなたにどうしても会って、約束を破ったことを謝りたくて。あなたに会いたくて」
だから・・・
私と会うために、アリーシアは、嫁ぐという約束をしたのか。
私の体が戦慄のために震えた。
「ごめんなさい。オウキ・・・私は、どうしてもあなたに会いたかったの」
まるで雨の粒が葉から零れ落ちるようにアリーシアの頬を涙が伝う。
哀れを誘い、胸が痛いほどに切なくなり、私は手を伸ばしてアリーシアの頬に触れた。
涙が私の手を濡らした。
私は自分の手を見つめた。確かに、そこにはアリーシアの涙の水滴が光っていた。
私は気がついた。
風のように軽かった自分の身体が重く苦しい。重い、などと今まで感じたことはなかったのに。
私の異変にアリーシアも気づき、躊躇うように手を伸ばして私の頬に触れた。そう、触れたのだった。
「オウキ・・・あなた、身体が」
アリーシアは言葉を詰まらせて、困惑した顔で私を見つめた。
ああ、神は私の願いを聞いてくれたのだ。それは私の生命と引き換えの最後の願いなのだろう。
「アリーシア・・・私は、もし人間になれたら・・・」
したかったことがある、と言いかけた私の唇にアリーシアの唇が触れた。
「ごめんなさい。オウキ、もしあなたが人間だったら、したかったの。無理な願いだったから、ずっと、切なくて言えなかったけど」
恥じらうように目を伏せるアリーシアを、愛おしいと感じた。思ったのではなくて感じたのだった。
力の加減が分からずに私は緩くアリーシアを抱きしめた。
彼女は力を抜いて私の動きに身をゆだねている。
樹液とは違う熱い液体が自分の身体を駆け巡り、アリーシアの身体と一つになりたいと切望した。
森の茂みで見た、女の白い艶めかしい足を思い出した。
あんなふうに、アリーシアの足を私の腰に絡みつかせたいと、思った。
私はアリーシアを桜の木にもたれさせ、花びらのような唇を吸った。
他の獣は交尾をするとき、こんなことはしない。唇を合わせるのは人間だけだ。それがずっと不思議でならなかった。けれど、今なら理解できる。アリーシアの唇は柔らかく潤んで、まるで蜜を湛えた花芯のようだ。私の舌は蜜を求めアリーシアの舌に絡む。
唇同士のまぐわいはさらに私の身体を熱くした。
これ以上は互いの着ているものを脱がなくていけないと気づき、そうアリーシアに告げると、彼女は顔を赤くした。目に恐怖の色が浮かんでいるのが見え、私は躊躇った。
「私のしたいことを、お前がしたくないというなら、無理強いはしない」
「そうじゃ・・・ないの・・・」
アリーシアは泣くような細い声でそう言うと、硬い仕草で彼女を包んでいた服を脱ぎ、足元に落とした。
まるで1枚の桜の花びらのような白い肌に私は目を見張った。桜の木にも女性の精霊がいるとしたら、きっとアリーシアのようだろう。
私の裸体から目を背け、白い肩を震わすアリーシアの首筋にゆっくりと舌を這わせた。人間がしているのを真似ただけだったが、アリーシアから熱い吐息のような声が洩れると自分の身体にも痺れるような感覚が沸き上がった。
手のひらに吸い付くような彼女の肌を存分に味わうと、私はアリーシアを柔らかい草の上に寝かせた。
「アリーシア、私はお前を愛している。だから、こうしたい」
そう告げる私に、アリーシアは堅く閉じていた唇を開いて「私も」と小さく囁いた。
私を受け入れる彼女の場所を探し当て、ゆっくりと差し入れると、すべての感覚がそこに集まったような快楽と共に私の心はアリーシアと一つになった悦びに満ちた。
アリーシアの真っ白で艶めかしい足が私の動きと同調する。彼女の口から洩れるのは今まで聞いたこともない熱い喘ぎの声だった。その声を聞くと私の身体が昂り、もっと聞きたいという欲が溢れた。
私はアリーシアの可憐な胸の膨らみを愛撫し、彼女の唇に舌を這わせた。アリーシアは私の舌を吸い、高い声を上げると、思わぬ力で私を締め付けた。
私はアリーシアの中でこみ上げる何かに耐えられなくなり、放った。
まるで生命のすべてを彼女の中に注ぎ込むように。
アリーシアが力尽きた私の背中を抱きしめて
「愛しているわ」と、優しい声で囁いた。
今この瞬間に生命を無くしてもいいほどの満ち足りた気持ちの中で私はアリーシアに永遠の愛を誓った。
それからひと月もたたぬうちに、アリーシアはローマリウス国の王に嫁ぐために旅立った。
神も私と同じように、気まぐれを起こしたのだろう。
私を人間にしたのはほんの気まぐれだったのだろう。
私はまた、桜の木の精霊として実体のない身体で、アリーシアを待っている。
最後にアリーシアは私に会いに来て、言ったのだ。
微笑みをたたえて。
「私が死んだら、あなたの根元に埋めてもらうわ」
私の根は私の腕。その時こそ、真にアリーシアを抱き包み同体になるのだ。
私はその時を待っている。
空蝉の身体で。
完
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