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 「あの時、私を食べ損なったから」
 そう言ったレオナードに、エルレーンは悲し気な目を向けると
「そうよ。私のヨハンがお腹を空かせていたのに、あなたは逃げてしまうのだもの」
 ジリッとにじりよるエルレーンの得体のしれない狂気にレオナードは後ずさった。
「あの妖物はあなたですか、エルレーン・・・それともあなたの子供の形をした人形ですか」
 レオナードの言葉でエルレーンの顔が怒りの形相に変わった。
「ヨハンは人形じゃないわ!私の子供よ」
「あなたの子供は、ヨハンは死んだんです。あなたがヨハンと呼ぶのは人形です」
 エルレーンに説得は無理だとレオナードは思っていた。それでも、できることなら正気になって欲しかった。
「ヨハンは生き返ったのよ。生き返らせてくれたの。魔法使いが」
「まさか」とフランの後ろで女王が声を上げた。
「そんなはずはないわ。魔法国の法律で人間を蘇生する魔法は禁じられているもの。魔法使いが法を破るなんてありえない」
 エルレーンは狂気に満ちた目で女王を凝視すると
「魔法国に存在しない魔法使いもいるのよ。その魔法使いは私の望みを叶えてくれた。報酬は私の片目だったわ。安いものでしょ。ヨハンを生き返らせてくれたんだから」
 女王の顔が苦悶で曇り、悲し気な声が洩れた。
「生き返らないわ。死者は決して蘇らない。それがことわりよ」
「生き返るわ。魔法使いは言ったもの。たくさんの人間の生命を取り込めば、私のヨハンは元に戻れるって。今は形が違うけど、ちゃんと人間の体に戻れるって」
 だから
「ここにいる皆の生命をちょうだい」
 エルレーンの金色の片目が怪しげな光を放つと、エルレーンの背後に巨大な黒いナメクジのような妖物が悪夢のように現れ、講堂の中はパニックに陥った女性たちで騒然となった。
「エルレーン・・・」
 レオナードは落胆で崩れ落ちそうな身体を支えた。
 そうじゃないかと、思っていたことが当たってしまった。
 エルレーンは講堂にくるだろう。講堂の中は妊婦でいっぱいだ。妊婦は自身と赤ん坊の二つの命を持っている。効率よく、多くの生命を奪うことができる。講堂の扉を塞げば中の人間は逃げることもできない。
 あの森の中で妖物に襲われた時に、妖物は確実にレオナードを狙って現れた。そこにレオナードがいると分かっているのはエルレーンしかいない。そして、エルレーンの別れ際の言葉『子供の食事の支度をする』
 子供のご飯とは自分のことではないか、とレオナードは思ったのだ。 
 そう思えるほどに、人形は奇怪だったのだ。
 妖物が獲物を捕らえるために無数の触手を伸ばし始めた。
 その異様な姿を見ても女王は落ち着いていて、恐怖に怯える女性たちに「大丈夫よ。あなたたちには傷一つ付けさせません」と微笑みかけた。
 ローマリウス国の女王の言葉は絶対だ。女王が「大丈夫」と言うなら大丈夫なのだ、女性たちは安堵の息を吐いて、妖物と対峙する一人の侍従を見守った。
 元はローマリウスの民ではないフランには女王の落ち着きが理解できなかった。根拠のない「大丈夫」も信じられない。エルレーンと妖物の前にはレオナードがいる。このままだと、彼が取り込まれてしまう。
「レオナードさん、逃げて」
 思わず叫んでしまったフランにレオナードは振り返ると、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ、フランさん」
「レオナード・・・今度はちゃんと取り込んであげるわね。私の子供の命になってちょうだい」
 エルレーンの右の目が妖しい光を増すと、妖物の触手が素早い動きでレオナードの腕に絡みついた。
「エルレーン。あなたは間違っています。大切な人を亡くした悲しみは計り知れない。だからと言って、他の生命や幸せを奪っていいことにはならない」
 じりじりと妖物に引き寄せられながらレオナードはエルレーンに語りかける。エルレーンに声が届くなら、届いて欲しいと願いながら。
「ああ、早くしないと、ヨハンがお腹を空かせているわ。可哀そうに・・・ずっと何も食べていないのよ」
 エルレーンの言葉は空虚で、レオナードの声は聞こえていない。
「レオナードさん!」
 フランが脱兎のごとく駆けだして、エルレーンにつかみかかった。
「このっ・・・レオナードさんを離して!あなたの子供ために、レオナードさんを殺させない」
「いたっ、何をするのよ。所魔しないで!」
 顔をフランに叩かれたエルレーンが反撃に叩き返した。
「フランさん・・・」
 レオナードはこの緊迫の状況でも口を開けて呆けてしまいそうになる自分を感じた。自制心で口は開けなかったが、予測不能なフランの行動に思考は混乱していた。なぜ大人しくしてくれていない。そこでなぜ女同士の取っ組み合いが始まるんだ。
 あらあら、と女王が目を丸くして女同士のバトルを見ている。
 レオナードは我に返り、咳払いをしてからフランを諫めた。
「フランさん、はしたないですよ。侍女たるものが女王陛下の御前で醜態をさらすなどあってはなりません」
 なんでこんな場面で侍女の心得などを説かねばならないのだと、レオナードは心の中で盛大な溜息をついた。
 せっかく今朝きれいにまとめ上げた髪もぐしゃぐしゃだ。
 ううっと口惜しそうな声を洩らしてフランが掴んでいたエルレーンの髪から手を離した。
 エルレーンも燃えるような憎しみの目をフランに向けながら、あざけるように声を上げた。
「邪魔はさせない。みんな、みんな、その命を私のヨハンに・・・」
 エルレーンが呪いの言葉を吐き終えないうちに妖物に変化が起こった。
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