「幸せ」の計り売り

雨宮 徹

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「幸せ」の計り売り

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 暗闇の中、私はデジタルの迷路を彷徨っていた。ネットの世界は無限のデータストリームで満ち溢れ、コードと光の輝きが虚空を舞い踊る。身体はもはや肉体ではなく、意識が電子の波に乗り、情報の海を漂流している。


 情報の裏側、暗号化された通信の中、私は「幸せ屋」という名の店を探し求めていた。ダークウェブの路地裏には、金銭では買えない幸福が売られているという噂が広がっていた。


 目的の路地裏に辿り着くと、ネオンサインが点滅する一軒の怪しげな店を見つけた。そこには「幸せ屋」と書かれている。間違いなく噂の店だ。


 私は周りにいる浮浪者の間を通り抜けると、「幸せ屋」に入る。そこは表とは違い、明るく派手な装飾が施されていた。


「いらっしゃい。あなたは『幸せ』を求めてやって来た、それで間違いないか」


 店主と思われる人物の顔は黒く塗りつぶされており、どんな人物か窺い知ることはできない。

「ああ、私は噂を聞きつけてやって来た。情報が正しければ『思い出』と引き換えと聞いているが……」


「その通りさ。そして、ここは『幸せ』を計り売りしている。『幸せ』に見合った量の『思い出』をいただくわけだ」


 店主は不気味な声で告げると、店内にいる客と思しき人物を指す。


「そこのお客さんは、お金持ちになるという幸せと引き換えに、彼女との思い出を代金として支払った。これから奴は金持ちになるわけだ」


 なるほど、計り売りというだけあって、幸せの大きさによっては、かなりの思い出を求められるのか。


「あんたはどうする? どんな幸せでも売ってやるよ?」


「今回はお試しで。じゃあ、今日一日、心が平穏でいられるようにしてもらおうか」


「ふん、面白くない。それなら家族との夏休みの一日の思い出と引き換えだ」


 どの一日か分からないが、安いものだ。


「それでいい。取り引き成立だ」





 私は心が平穏であるならば、どんな苦行でも出来ると考え、自分の空間に戻ると仕事に取り掛かる。


 不思議なことにいつもの不快感はなく、あっという間に仕事が終わった。この調子なら、今日のうちに全て仕上げるのがいいだろう。


「先輩、今日は調子がいいので、どんどん仕事くださいよ。代わりに今日の給料は高くつきますけどね」





 冷たい朝の光が路地裏に差し込む中、私は再び「幸せ屋」の店舗が軒を連ねる場所へと足を踏み入れた。


「おお、昨日の兄ちゃんか。それでどうだった?」


「効果てきめんさ。どんな仕事をしても苦ではなかった。次は……そうだな、仕事で次のステップに上がりたい。諸事情あってお金が必要でね」


「今、兄ちゃんはどんなポジションかい?」


「一番下っぱさ。まだ、仕事を始めたばかりでね」


「それで、どのポジションまでお望みかな?」


「そうだな……課長までだ」


「なるほど、なるほど。では、彼女とのデート七日分だな」


「……釣り合っているか分からないが、そんなもんだろうな。買った」





 「幸せ屋」に通い出してから、一ヶ月後、私は違和感を感じ始めた。昨日は仕事での成功を幸せとしてもらったのに、対価を思い出せない。もしかすると、「幸せ屋」に通った思い出というか記憶を失ったのか? そうだとしても影響はない。むしろ、「幸せ屋」で買った幸せで成功しているという記憶がなくなるのなら、罪悪感がなくなってありがたい。





 週末の朝、デジタル端末に一通の未読メールの通知が光り始めた。送り主の名前に記憶はない。ただ、怪しげな勧誘メールではなさそうだ。私は中身にザッと目を通す。


「最近、会ってくれないのはどういうわけ? 彼女を放っておいて仕事に熱中するなんて、どうかしてるわ。あなたとはこれでお別れ。さよなら」


 このメールが正しければ、私には彼女がいたことになる。しかし、そんな記憶はまったくない。間違いメールに違いない。あとで電子メールセンターに文句を言ってやるか。





 ある日、私は「幸せ屋」に通じる路地裏で変な輩に絡まれた。明らかに怪しげで、関わっていけない雰囲気が漂う。


「兄ちゃん、『幸せ屋』に入り浸ってるな。俺は面白い店を知ってるぜ。『思い出屋』って言うんだ。今度寄ってみな」


 男は私のデバイスにアドレス情報をねじ込む。


「あばよ」


 「思い出屋」か。「幸せ屋」とは真逆だな。思い出を売り物にするなんて。幸いにも明日は暇だ。寄ってみるのも面白いだろう。






 翌朝、男から受け取ったアドレスを頼りに「思い出屋」を探す。どうやら、別の路地裏にあるらしい。こういった店はダークサイトにあるのが常だ。驚くことはない。




 目的地に着くと、店内は「幸せ屋」と同じく、ネオンで煌びやかな装飾が施されている。


「いらっしゃい」


 店主らしい人物はやはり、身元を隠すためか、アバターの顔を塗りつぶしている。


「ここでは思い出を売っていると聞いた。品を見せてもらおうか」


「もちろん。ゆっくりと見ていけ」


 ほう、面白い。ペットとの思い出に家族との一日、そして彼女とのデートの思い出。しかし、他人の思い出を買う客の気持ちが分からない。しょせん、他人の思い出だ、現実ではない。


「それで、思い出を買うのに何が対価なんだ? ものによっては試しに一つ購入してみたい」


「見合った量の『不幸』さ」


 なんと面白いことだろうか。「幸せ屋」とは真逆だ。


「じゃあ、これをもらおうか」


 それは彼女とのデートの思い出だった。


「そうだな、代金は……親友に裏切られる、でどうだ?」


 私に親友はいない。迷うことなく「オーケー」と返事をした。





 自分の空間に戻ると、買ったばかりの思い出をインストールする。どうやら、持ち主は相当恵まれていたらしい。思い出の中の彼女と楽しげにショッピングしている。待てよ、この思い出、何か引っ掛かる。どこかで見たような……。そんなはずはない。これは他人の記憶なのだから。





 私は「幸せ屋」と「思い出屋」を行き来するようになった。片方で幸せの代わりに思い出を売り、片方で思い出の対価として不幸になる。この繰り返しなら、次々と新たな体験をすることができる。すでに薄れている思い出を売るのだから、何も問題はない。不幸を幸せで帳消しにすればいいのだ。




「あんた、本当にいいのか? これが最後の思い出でなんだろう」


「問題ないさ。すでにどれが自分の思い出か分からないのだから」


 私は最後の思い出を売ると、幸せを手に入れた。


 取引後、しばらくは幸福感に包まれていたが、突然虚無が襲ってきた。


 最後の思い出を失った私は自分が誰か分からなくなってきた。どれが本物の思い出で、どれが偽物なのか。そもそも、私は本当に実在するのか?
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