1 / 1
「幸せ」の計り売り
しおりを挟む
暗闇の中、私はデジタルの迷路を彷徨っていた。ネットの世界は無限のデータストリームで満ち溢れ、コードと光の輝きが虚空を舞い踊る。身体はもはや肉体ではなく、意識が電子の波に乗り、情報の海を漂流している。
情報の裏側、暗号化された通信の中、私は「幸せ屋」という名の店を探し求めていた。ダークウェブの路地裏には、金銭では買えない幸福が売られているという噂が広がっていた。
目的の路地裏に辿り着くと、ネオンサインが点滅する一軒の怪しげな店を見つけた。そこには「幸せ屋」と書かれている。間違いなく噂の店だ。
私は周りにいる浮浪者の間を通り抜けると、「幸せ屋」に入る。そこは表とは違い、明るく派手な装飾が施されていた。
「いらっしゃい。あなたは『幸せ』を求めてやって来た、それで間違いないか」
店主と思われる人物の顔は黒く塗りつぶされており、どんな人物か窺い知ることはできない。
「ああ、私は噂を聞きつけてやって来た。情報が正しければ『思い出』と引き換えと聞いているが……」
「その通りさ。そして、ここは『幸せ』を計り売りしている。『幸せ』に見合った量の『思い出』をいただくわけだ」
店主は不気味な声で告げると、店内にいる客と思しき人物を指す。
「そこのお客さんは、お金持ちになるという幸せと引き換えに、彼女との思い出を代金として支払った。これから奴は金持ちになるわけだ」
なるほど、計り売りというだけあって、幸せの大きさによっては、かなりの思い出を求められるのか。
「あんたはどうする? どんな幸せでも売ってやるよ?」
「今回はお試しで。じゃあ、今日一日、心が平穏でいられるようにしてもらおうか」
「ふん、面白くない。それなら家族との夏休みの一日の思い出と引き換えだ」
どの一日か分からないが、安いものだ。
「それでいい。取り引き成立だ」
私は心が平穏であるならば、どんな苦行でも出来ると考え、自分の空間に戻ると仕事に取り掛かる。
不思議なことにいつもの不快感はなく、あっという間に仕事が終わった。この調子なら、今日のうちに全て仕上げるのがいいだろう。
「先輩、今日は調子がいいので、どんどん仕事くださいよ。代わりに今日の給料は高くつきますけどね」
冷たい朝の光が路地裏に差し込む中、私は再び「幸せ屋」の店舗が軒を連ねる場所へと足を踏み入れた。
「おお、昨日の兄ちゃんか。それでどうだった?」
「効果てきめんさ。どんな仕事をしても苦ではなかった。次は……そうだな、仕事で次のステップに上がりたい。諸事情あってお金が必要でね」
「今、兄ちゃんはどんなポジションかい?」
「一番下っぱさ。まだ、仕事を始めたばかりでね」
「それで、どのポジションまでお望みかな?」
「そうだな……課長までだ」
「なるほど、なるほど。では、彼女とのデート七日分だな」
「……釣り合っているか分からないが、そんなもんだろうな。買った」
「幸せ屋」に通い出してから、一ヶ月後、私は違和感を感じ始めた。昨日は仕事での成功を幸せとしてもらったのに、対価を思い出せない。もしかすると、「幸せ屋」に通った思い出というか記憶を失ったのか? そうだとしても影響はない。むしろ、「幸せ屋」で買った幸せで成功しているという記憶がなくなるのなら、罪悪感がなくなってありがたい。
週末の朝、デジタル端末に一通の未読メールの通知が光り始めた。送り主の名前に記憶はない。ただ、怪しげな勧誘メールではなさそうだ。私は中身にザッと目を通す。
「最近、会ってくれないのはどういうわけ? 彼女を放っておいて仕事に熱中するなんて、どうかしてるわ。あなたとはこれでお別れ。さよなら」
このメールが正しければ、私には彼女がいたことになる。しかし、そんな記憶はまったくない。間違いメールに違いない。あとで電子メールセンターに文句を言ってやるか。
ある日、私は「幸せ屋」に通じる路地裏で変な輩に絡まれた。明らかに怪しげで、関わっていけない雰囲気が漂う。
「兄ちゃん、『幸せ屋』に入り浸ってるな。俺は面白い店を知ってるぜ。『思い出屋』って言うんだ。今度寄ってみな」
男は私のデバイスにアドレス情報をねじ込む。
「あばよ」
「思い出屋」か。「幸せ屋」とは真逆だな。思い出を売り物にするなんて。幸いにも明日は暇だ。寄ってみるのも面白いだろう。
翌朝、男から受け取ったアドレスを頼りに「思い出屋」を探す。どうやら、別の路地裏にあるらしい。こういった店はダークサイトにあるのが常だ。驚くことはない。
目的地に着くと、店内は「幸せ屋」と同じく、ネオンで煌びやかな装飾が施されている。
「いらっしゃい」
店主らしい人物はやはり、身元を隠すためか、アバターの顔を塗りつぶしている。
「ここでは思い出を売っていると聞いた。品を見せてもらおうか」
「もちろん。ゆっくりと見ていけ」
ほう、面白い。ペットとの思い出に家族との一日、そして彼女とのデートの思い出。しかし、他人の思い出を買う客の気持ちが分からない。しょせん、他人の思い出だ、現実ではない。
「それで、思い出を買うのに何が対価なんだ? ものによっては試しに一つ購入してみたい」
「見合った量の『不幸』さ」
なんと面白いことだろうか。「幸せ屋」とは真逆だ。
「じゃあ、これをもらおうか」
それは彼女とのデートの思い出だった。
「そうだな、代金は……親友に裏切られる、でどうだ?」
私に親友はいない。迷うことなく「オーケー」と返事をした。
自分の空間に戻ると、買ったばかりの思い出をインストールする。どうやら、持ち主は相当恵まれていたらしい。思い出の中の彼女と楽しげにショッピングしている。待てよ、この思い出、何か引っ掛かる。どこかで見たような……。そんなはずはない。これは他人の記憶なのだから。
私は「幸せ屋」と「思い出屋」を行き来するようになった。片方で幸せの代わりに思い出を売り、片方で思い出の対価として不幸になる。この繰り返しなら、次々と新たな体験をすることができる。すでに薄れている思い出を売るのだから、何も問題はない。不幸を幸せで帳消しにすればいいのだ。
「あんた、本当にいいのか? これが最後の思い出でなんだろう」
「問題ないさ。すでにどれが自分の思い出か分からないのだから」
私は最後の思い出を売ると、幸せを手に入れた。
取引後、しばらくは幸福感に包まれていたが、突然虚無が襲ってきた。
最後の思い出を失った私は自分が誰か分からなくなってきた。どれが本物の思い出で、どれが偽物なのか。そもそも、私は本当に実在するのか?
情報の裏側、暗号化された通信の中、私は「幸せ屋」という名の店を探し求めていた。ダークウェブの路地裏には、金銭では買えない幸福が売られているという噂が広がっていた。
目的の路地裏に辿り着くと、ネオンサインが点滅する一軒の怪しげな店を見つけた。そこには「幸せ屋」と書かれている。間違いなく噂の店だ。
私は周りにいる浮浪者の間を通り抜けると、「幸せ屋」に入る。そこは表とは違い、明るく派手な装飾が施されていた。
「いらっしゃい。あなたは『幸せ』を求めてやって来た、それで間違いないか」
店主と思われる人物の顔は黒く塗りつぶされており、どんな人物か窺い知ることはできない。
「ああ、私は噂を聞きつけてやって来た。情報が正しければ『思い出』と引き換えと聞いているが……」
「その通りさ。そして、ここは『幸せ』を計り売りしている。『幸せ』に見合った量の『思い出』をいただくわけだ」
店主は不気味な声で告げると、店内にいる客と思しき人物を指す。
「そこのお客さんは、お金持ちになるという幸せと引き換えに、彼女との思い出を代金として支払った。これから奴は金持ちになるわけだ」
なるほど、計り売りというだけあって、幸せの大きさによっては、かなりの思い出を求められるのか。
「あんたはどうする? どんな幸せでも売ってやるよ?」
「今回はお試しで。じゃあ、今日一日、心が平穏でいられるようにしてもらおうか」
「ふん、面白くない。それなら家族との夏休みの一日の思い出と引き換えだ」
どの一日か分からないが、安いものだ。
「それでいい。取り引き成立だ」
私は心が平穏であるならば、どんな苦行でも出来ると考え、自分の空間に戻ると仕事に取り掛かる。
不思議なことにいつもの不快感はなく、あっという間に仕事が終わった。この調子なら、今日のうちに全て仕上げるのがいいだろう。
「先輩、今日は調子がいいので、どんどん仕事くださいよ。代わりに今日の給料は高くつきますけどね」
冷たい朝の光が路地裏に差し込む中、私は再び「幸せ屋」の店舗が軒を連ねる場所へと足を踏み入れた。
「おお、昨日の兄ちゃんか。それでどうだった?」
「効果てきめんさ。どんな仕事をしても苦ではなかった。次は……そうだな、仕事で次のステップに上がりたい。諸事情あってお金が必要でね」
「今、兄ちゃんはどんなポジションかい?」
「一番下っぱさ。まだ、仕事を始めたばかりでね」
「それで、どのポジションまでお望みかな?」
「そうだな……課長までだ」
「なるほど、なるほど。では、彼女とのデート七日分だな」
「……釣り合っているか分からないが、そんなもんだろうな。買った」
「幸せ屋」に通い出してから、一ヶ月後、私は違和感を感じ始めた。昨日は仕事での成功を幸せとしてもらったのに、対価を思い出せない。もしかすると、「幸せ屋」に通った思い出というか記憶を失ったのか? そうだとしても影響はない。むしろ、「幸せ屋」で買った幸せで成功しているという記憶がなくなるのなら、罪悪感がなくなってありがたい。
週末の朝、デジタル端末に一通の未読メールの通知が光り始めた。送り主の名前に記憶はない。ただ、怪しげな勧誘メールではなさそうだ。私は中身にザッと目を通す。
「最近、会ってくれないのはどういうわけ? 彼女を放っておいて仕事に熱中するなんて、どうかしてるわ。あなたとはこれでお別れ。さよなら」
このメールが正しければ、私には彼女がいたことになる。しかし、そんな記憶はまったくない。間違いメールに違いない。あとで電子メールセンターに文句を言ってやるか。
ある日、私は「幸せ屋」に通じる路地裏で変な輩に絡まれた。明らかに怪しげで、関わっていけない雰囲気が漂う。
「兄ちゃん、『幸せ屋』に入り浸ってるな。俺は面白い店を知ってるぜ。『思い出屋』って言うんだ。今度寄ってみな」
男は私のデバイスにアドレス情報をねじ込む。
「あばよ」
「思い出屋」か。「幸せ屋」とは真逆だな。思い出を売り物にするなんて。幸いにも明日は暇だ。寄ってみるのも面白いだろう。
翌朝、男から受け取ったアドレスを頼りに「思い出屋」を探す。どうやら、別の路地裏にあるらしい。こういった店はダークサイトにあるのが常だ。驚くことはない。
目的地に着くと、店内は「幸せ屋」と同じく、ネオンで煌びやかな装飾が施されている。
「いらっしゃい」
店主らしい人物はやはり、身元を隠すためか、アバターの顔を塗りつぶしている。
「ここでは思い出を売っていると聞いた。品を見せてもらおうか」
「もちろん。ゆっくりと見ていけ」
ほう、面白い。ペットとの思い出に家族との一日、そして彼女とのデートの思い出。しかし、他人の思い出を買う客の気持ちが分からない。しょせん、他人の思い出だ、現実ではない。
「それで、思い出を買うのに何が対価なんだ? ものによっては試しに一つ購入してみたい」
「見合った量の『不幸』さ」
なんと面白いことだろうか。「幸せ屋」とは真逆だ。
「じゃあ、これをもらおうか」
それは彼女とのデートの思い出だった。
「そうだな、代金は……親友に裏切られる、でどうだ?」
私に親友はいない。迷うことなく「オーケー」と返事をした。
自分の空間に戻ると、買ったばかりの思い出をインストールする。どうやら、持ち主は相当恵まれていたらしい。思い出の中の彼女と楽しげにショッピングしている。待てよ、この思い出、何か引っ掛かる。どこかで見たような……。そんなはずはない。これは他人の記憶なのだから。
私は「幸せ屋」と「思い出屋」を行き来するようになった。片方で幸せの代わりに思い出を売り、片方で思い出の対価として不幸になる。この繰り返しなら、次々と新たな体験をすることができる。すでに薄れている思い出を売るのだから、何も問題はない。不幸を幸せで帳消しにすればいいのだ。
「あんた、本当にいいのか? これが最後の思い出でなんだろう」
「問題ないさ。すでにどれが自分の思い出か分からないのだから」
私は最後の思い出を売ると、幸せを手に入れた。
取引後、しばらくは幸福感に包まれていたが、突然虚無が襲ってきた。
最後の思い出を失った私は自分が誰か分からなくなってきた。どれが本物の思い出で、どれが偽物なのか。そもそも、私は本当に実在するのか?
0
お気に入りに追加
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
No One's Glory -もうひとりの物語-
はっくまん2XL
SF
異世界転生も転移もしない異世界物語……(. . `)
よろしくお願い申し上げます
男は過眠症で日々の生活に空白を持っていた。
医師の診断では、睡眠無呼吸から来る睡眠障害とのことであったが、男には疑いがあった。
男は常に、同じ世界、同じ人物の夢を見ていたのだ。それも、非常に生々しく……
手触り感すらあるその世界で、男は別人格として、「採掘師」という仕事を生業としていた。
採掘師とは、遺跡に眠るストレージから、マップや暗号鍵、設計図などの有用な情報を発掘し、マーケットに流す仕事である。
各地に点在する遺跡を巡り、時折マーケットのある都市、集落に訪れる生活の中で、時折感じる自身の中の他者の魂が幻でないと気づいた時、彼らの旅は混迷を増した……
申し訳ございませんm(_ _)m
不定期投稿になります。
本業多忙のため、しばらく連載休止します。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
鉄錆の女王機兵
荻原数馬
SF
戦車と一体化した四肢無き女王と、荒野に生きる鉄騎士の物語。
荒廃した世界。
暴走したDNA、ミュータントの跳梁跋扈する荒野。
恐るべき異形の化け物の前に、命は無残に散る。
ミュータントに攫われた少女は
闇の中で、赤く光る無数の目に囲まれ
絶望の中で食われ死ぬ定めにあった。
奇跡か、あるいはさらなる絶望の罠か。
死に場所を求めた男によって助け出されたが
美しき四肢は無残に食いちぎられた後である。
慈悲無き世界で二人に迫る、甘美なる死の誘惑。
その先に求めた生、災厄の箱に残ったものは
戦車と一体化し、戦い続ける宿命。
愛だけが、か細い未来を照らし出す。
美少女アンドロイドが空から落ちてきたので家族になりました。
きのせ
SF
通学の途中で、空から落ちて来た美少女。彼女は、宇宙人に作られたアンドロイドだった。そんな彼女と一つ屋根の下で暮らすことになったから、さあ大変。様々な事件に巻き込まれていく事に。最悪のアンドロイド・バトルが開幕する
我ら新興文明保護艦隊
ビーデシオン
SF
もしも道行く野良猫が、百戦錬磨の獣戦士だったら?
もしも冴えないサラリーマンが、戦争上がりのアンドロイドだったら?
これは、実際にそんな空想めいた素性をもって、陰ながら地球を守っているエージェントたちのお話。
※表紙絵はひのたけきょー(@HinotakeDaYo)様より頂きました!

十年前の片思い。時を越えて、再び。
赤木さなぎ
SF
キミは二六歳のしがない小説書きだ。
いつか自分の書いた小説が日の目を浴びる事を夢見て、日々をアルバイトで食い繋ぎ、休日や空き時間は頭の中に広がる混沌とした世界を文字に起こし、紡いでいく事に没頭していた。
キミには淡く苦い失恋の思い出がある。
十年前、キミがまだ高校一年生だった頃。一目惚れした相手は、通い詰めていた図書室で出会った、三年の“高橋先輩”だ。
しかし、当時のキミは大したアプローチを掛けることも出来ず、関係の進展も無く、それは片思いの苦い記憶として残っている。
そして、キミはその片思いを十年経った今でも引きずっていた。
ある日の事だ。
いつもと同じ様にバイトを上がり、安アパートの自室へと帰ると、部屋の灯りが点いたままだった。
家を出る際に消灯し忘れたのだろうと思いつつも扉を開けると、そこには居るはずの無い、学生服に身を包む女の姿。
キミは、その女を知っている。
「ホームズ君、久しぶりね」
その声音は、記憶の中の高橋先輩と同じ物だった。
顔も、声も、その姿は十年前の高橋先輩と相違ない。しかし、その女の浮かべる表情だけは、どれもキミの知らない物だった。
――キミは夢を捨てて、名声を捨てて、富を捨てて、その輝かしい未来を捨てて、それでも、わたしを選んでくれるかしら?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる