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「やあ、初めまして、でいいのかな。俺は淳。遥香ちゃんとはこのあいだ会ったよね。美央とちがって控えめな感じが初々しかったよ」
「淳、何いっているのよ。遥香がびっくりするでしょ」
「あはは、何、焼きもち妬いてるのか。こんなに愛されてるのに、美央には困ったもんだな。早く抱いてあげないと」

 肩を抱き寄せ、二人は顔が近づくとチュッと音をたててキスをした。

 鏡で見る自分と似ても似つかない。甘い声をあげてもたれるように抱きつく女は、本当に自分なのだろうか。そして徹。まったくの別人だ。不敵に笑い挑戦するかのようにこちらを見つめてくる。それでいて美央を見つめる目線はどこまでも優しい。

 右手は肩から脇、腰へと上下にゆっくり撫でている。たまりかねた美央が淳の首に腕をまきつけ、濃厚なキスを始めた。大きく開けた口からお互いの舌が艶めかしく出し入れされる。唾液が顎を伝い落ちていくのを呆然と眺めた。

 二人は本当に恋仲のようだ。
 徹を見るとゴクリと生唾を飲み込んでいるところだった。瞳は見開かれ、手に汗をかいている。どちらの汗なのかもはやわからない。

「ということで、信じてもらえたかな。バレないようにしてたんだけど、美央がポカやって徹に電話しちゃったんだよね。発信記録も削除しとけばいいのにさ。まっ、俺も忘れちゃったんだけど。いつもはちゃんとやってたんだけどね。今まで徹は気がつかなかっただろ」
「だってぇ、めんどくさいじゃん」

 美央はズボラな性格のようだ。どうしてこんな人格が生まれてしまったのだろう。
 感情が不安定になると遥香は家中を掃除し、身体をすみずみまで洗った。きれいに、きれいに。汚れを落とせば、嫌なことはなかったことにできる。ブラウスについたケチャップのシミも落とせばきれいになる。そうすることで自分を保っていた。その反動がこの人格なのか。

「ここからが二人の提案です。その前に少しわたしの方から説明しましょう」

 精神科医は録画をストップさせ切り出した。
「この症状の治療法ですが、現在はとくに他の人格を消すということを積極的に行っておりません。統合、融合ともいいますが、それができればいいのですが、それには長い時間がかかります。また消そうという行為そのものが暴走を促進させてしまうこともあります。それによって新たな人格が生まれてしまうこともあります。

『24人のビリーミリガン』という話はご存じですか?一人の人間に24人の人格がいるのです。中には2500もの人格を持った女性もいますが。多ければ多いほど混乱すると思っていいでしょう。まあ、あまり多いとそのうち統率役ができるようですが」

 遥香は血の引くような思いだ。そんなに多くの人格がひとつの肉体を共有してしまうのか。

「あの、わたし達の中には、他にも誰かいるのでしょうか」
 徹が大丈夫、というように手をしっかり握ってくれた。

「前回は確認しなかったのですが、初めは警戒心もありますからね。今回確認したところ、お二人には他の人格はないそうです」
「そんなことがわかるのですか」
「主人格、ああ、お二人のことですが、主人格は別人格を認識していなくても、別人格は主人格を認識しています。また複数いる別人格どうしはお互いの存在がわかっているのがほとんどです。脳内の中で会話することもあるそうですから。それによると、他に見当たらないということでしたので、恐らく淳さんと美央さんだけじゃないでしょうか。まあ他の人格が、幼い頃に現れてそのまま深く眠っていたり、消滅したりということはあるかもしれませんが」

 遥香の顔に脂汗が浮かんできた。指先は蝋のように白くなり、動悸や眩暈がしてきた。
「大丈夫ですか?少し休みましょうか?暮林さんは今日初めていろいろ知るわけですから」医者が徹を見る。

「午後、そうですね。昼食をとってからまたこちらに伺ってもよろしいでしょうか」徹は遥香の顔をのぞきこむ。「それとも日を改める?」

 診療を打ち切ってこのまま家に帰ったところで、頭の中はぐるぐる考え続けているに決まっている。『二人の提案』とは?ずっとそればかりに囚われる。

「午後に、」声を振り絞った。
 徹が後を引き取った。「先生はどうでしょうか」

「ああ、かまいません。予約が入っているので、そうですね。16時以降なら」
 タイムスケジュールを確認した精神科医がニコリと微笑んだ。

 病院をでて駅に向かった。16時までだいぶ時間がある。昼食を取って‥‥食欲はわかなかった。一度帰るという選択肢もあるが、往復したところで家でじっくりくつろげるわけでもない。徹はどう考えているのだろう。

「お昼、何か食べたいモノありますか」
 気遣うような表情で問われた。

 この男は優しいような気がする。今までにつきあった男性は2人。一人は高校の時の友人の紹介。セックスはせずキスどまりだった。『他に好きな人ができた』と言われ、あっけなく終わった。

 2人目は以前務めていた会社の同僚で、初めてセックスをした相手だ。経験のない遥香をリードし、前戯にたっぷり時間をかけ挿入してきた。想像していたよりもすんなり男性を受け入れることができ、少々の違和感は感じていた。初めては痛いと聞いていたのに。
 美央として先に経験していたのだろうか。いったい、どこで誰と。

 初体験の遥香は相手の求めるままに応えていた。しばらく経ったある日、セックスの最中に記憶をなくした。翌朝の男の好色そうな笑顔を見て、とてつもない不安に襲われた。どうしてこんな表情ができるのだろう。性欲が剥き出しの獣のような顔。舌を突き出せば蛇のようにチョロチョロ伸びるのではないか。

「昨日は最高だったよ。遥香は大人しい女の子だと思っていたけど、だんだん感じるようになってきたんだね。乱れに乱れて、あんなに大きな声で喘いで、ほら、思い出したらまた勃ったよ」

 朝から肉体を求められ、どう振舞っていいかわからなかった。好きだから望むようにしてあげたいが、記憶にないことはできない。いつもよりよがってみたが、がっかりする顔しか見られなかった。

「昨日はお酒をけっこう飲んでたからね。エッチでエロい遥香はお酒の勢いがないとだめなのかな」
「そ、そんなに良かった?」
「もう、最高に気持ちよかった。焦らせば焦らすほど、言葉で攻めれば攻めるほど、あそこがびしゃびしゃに濡れてたよ。次のデートでもまたお酒を飲もうな。器具も使いたいっていってたから、俺、買っとくよ」

 無意識に顔を伏せた。嫌悪と羞恥心が複雑にからみあい、どんな顔をしていいかわからなかったのだ。

「恥ずかしがってるの?ええ、昼間はおしとやかで夜は大胆って?俺、たまんないわぁ」
 この場合、引かれなかったことを喜ぶべきなのか。とりあえず今は遥香のままでいられる。それにしても、彼にこんな一面があったとは。不器用だが仕事を真面目にこなし、地味だが相手をたてる姿勢は会社でも好感をもたれていた。嬉々として昨夜のセックスを語る顔は直視するのもためらわれるほど、欲望があふれていた。
 いたたまれない。

 次のデートも家でお酒を飲んだとたん記憶を失った。翌朝目覚めると胸にいくつもの噛み跡があった。部屋を見渡し、性的玩具を見つけた時には泣きそうになった。枕もとの固い感触に手を伸ばすと、そこには手錠があり息が止まるほど驚いた。

 いったい、何をやったんだろう。ぐっすり眠っている彼の顔を見て、強烈に吐き気がこみあげてきた。
 身体を洗わなくては。こんな不浄の場所を一刻も早く立ち去らねば。そっと着替え部屋をでた。
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