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「一ノ瀬さん。先ほど、もうひとつの人格が現れました。どうも性的好奇心が旺盛な方のようで、一ノ瀬さんが眠っている‥‥記憶がない時に女性‥‥恋人と言ってましたが。と一緒に過ごしているようですね。他に悪いことはしていないといっていますが。今まで、昼間に記憶がなくなることはないんですよね」

「あ、はい」 
 医者の言葉がぼんやり頭に響いてくる。自分が中心のはずの世界が、誰かのモノになっていく。膝に置いた手が無意識に握りしめられた。
 ふと、ああ、これは自分がやったことでいいのだろうか。

「なるほど、彼は淳さんと名乗っていました。彼が言うように、日常に支障はきたしてないということでしょうか」

 徹は考える。日常で誰かに指摘されたり、トラブルになったことはあっただろうか。ない。そもそも仕事中に意識をなくしたことは今までなかった。

「そうですね。特にないと思います」
「気づかれた原因は、電話の着信ですか」

 快適に調節されているはずの室温が寒く感じる。背中を伝う汗は滝のように流れ、ますます体温を奪っていく。

 自分の中に別人格がある。

 そいつはどういう奴で、何を考えているのだ。焦りと不安で喉がかわいてくる。
 また自分が奔放な性的嗜好をもっていること。毎週決まった相手と逢瀬を重ねていること。それらにも打ちのめされた。

 主人格と交代人格がちがうということは知識としてあったが、どこか根本のところは似通っていると思い込んでいた。
 いったい誰と会っているのか。恋人とはどんな顔で、どんな時を過ごしているのか。怖いが会う必要がある。巻き込んではいけない。

 病院を出ると、勇気をだして着信履歴の番号に電話をかけた。
 不在着信のためメッセージを吹き込んだ。

 ―先日お電話をいただきました一ノ瀬です。折り返し連絡しています。よろしければ連絡をいただけますでしょうか―

 発信記録が残っているはずだ。淳とわかれば折り返し電話してくるにちがいない。性的に奔放な淳の相手。いったいどういう女性で、何の仕事をしているのか。思うに、相手も同種の人間なのではないのか。

 しばらくすると電話がかかってきた。予想に反して知的で控えめな声が、とまどうように送話口から流れてきた。

「はい、お電話したみたいですね‥‥。すみません、どういった件でしょうか。こちらから連絡しているのに変なこときいてしまいまして」

 おや、と思った。徹が勝手に抱いていたイメージとは全然ちがう。しかも淳が相手とわかっているのに、この対応は何なのだ。昼と夜で使い分けているのか。そばに誰かがいるのかもしれない。不倫なのか?

「仕事の件で、一度お会いしたいのですが、詳しい内容は会った時に説明します」
「あの、仕事とは、個人的な依頼なのでしょうか?」
「そうですね。そういうことになります」
 徹も歯切れが悪くなる。
「あの、心当たりがまったくないのですが、いったい、何を」

 声が震えている。見知らぬ男からの電話に怯えているかのようだ。
 徹は足元から震えが襲ってくるのを感じた。心臓もドキドキしてくる。もしかしたら。

「不躾な質問ですが、あなたは時々記憶をなくしたりしませんか?」
 電話口の向こうで、ヒッという小さな悲鳴が聞こえた。
「どうして?どうしてそれを」
 図星だった。どう説明したらいいのだろう。

「どうやら、あなたとわたしは、お互いの記憶がない時に会ってるようなのです」

 ガタンと音がした。スマホを取り落としたのだろうか。しばらく待っていると、震えた小さな声が聞こえてきた。


 仕事帰りの彼女とカフェで待ち合わせることになった。こちらの目じるしは流行りのビジネス書。彼女は生成りのサマーセーターに黒のパンツということだ。人が入ってくるたびに目で追う。何度も会っているらしいのに、この緊張感はなんだ。無理もない。徹として会うのは初めてなのだから。

 自動ドアの向こうに彼女と思われる人影がたった。
 ためらいがちな足取りに確信する。入ってきた女性の顔を見て、あっ、と声をあげてしまった。
 取引先の暮林遥香だったからだ。まさか、な。人違いか。

 ブレンドを持った彼女がテーブルをひとつひとつ見て歩く。やがて奥に座った徹の前に立った。驚きの顔で見つめあったまま、どちらも言葉を発することができなかった。

 先に我に返った徹が、「どうぞ、おかけください」
 遥香は椅子に腰かけたはいいものの、うつむいたままだ。徹とて何をどう切り出していいかわからない。しかしここでだんまりを決め込んでも始まらない。

「すみません、急にお呼び立てしてしまって。ですが、早い方がいいと思いまして。自分も今日知ったばかりなんです。えっと、暮林さんでしたよね。今までにご自覚はありましたか?」

 緊張している彼女の顔は今にも倒れそうに真っ青だ。ビッチな女が演技しているとも思えない。奇妙な申し出にもかかわらず会うと決めたのは、腑に落ちることがあったのだろう。

 今までも時々記憶がなくなったこと。その頃はたまに繁華街で身に覚えのない言葉でからまれたこと。怖いので退社後はまっすぐ家に帰っていること。最近は記憶をなくすことは減ったが、毎週木曜の夜は早く寝たにもかかわらず翌日だるかったことをポツリポツリと語り始めた。

「その、わたしたちは恋人どうしなのでしょうか?」

 第三者が聞けば珍妙なやり取りだろう。徹はじんわりと手のひらに汗をかく。これから自分たちはどうなるのだ。

「わたしの交代人格に言わせると、二人は恋人どうしのようです。どこでどう知り合ったのか聞いてません。そもそも、わたしには彼の言葉を聞くことができないんです。こうして話している間も、いつ顔をだすのか不安でいっぱいです。もし現れたら、その時は逃げてください」

「わかりました。どういうタイミングで二人が会っていたのかわかりませんが、わたしにも別の人格が現れたら、適当にあしらってください」

 翌日一緒に精神科に行くことを決めた。今こうしている間もいつ別人格が現れるかと思うと気が気でない。彼らは二人のやりとりを今どんな思いで聞いているのだろうか。
 カフェをでて駅に向かって歩こうとした時だった。徹は唐突に意識を失った。淳が顔をだそうとしている。

「なあ、せっかく今日も会えたんだから一緒に過ごそうよ」
 遥香はいきなり腰に手をまわしてきた徹の顔を見上げた。豹変したというよりも、別人格が現れたと見ていいだろう。声も、表情もさっきまでとは全然ちがう。

「半信半疑?いやだなぁ。徹はもう寝ちゃったよ。俺は淳。きみは遥香ちゃんかな。美央から聞いてるよ」
「美央?」
「そっ、キミの交代人格で、俺の恋人」

 遥香は眉間にシワを寄せる。にわかには信じられないが、少なくともこの男は徹ではない。とても自然にチャラ男になっている。

「もうさ、バレちゃってるんだから、遥香ちゃんちに行きたいな。朝まで可愛がってあげるよ」
「いえ、帰ります」
 毅然とした態度で口を尖らせたとたん、遥香も記憶がなくなった。

「淳はぁ」
「あれ、美央。でてきた?」
「うん、だって遥香が帰るっていうから、わたしも一発殴った」
「はは、危ないことするなぁ。まあ、いいや。早く帰ってセックスしようぜ。朝まで一緒なんて初めてだな」

 二人はゲラゲラ笑いながら家路を急ぐ。誰も気に留めない。意識下で眠っている二人も気づかない。
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