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31.水岡、回顧する
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不思議そうな担当者を適当にいなして、会議を終了する。シャットダウンして真っ暗になったモニターには、不満そうな自分の顔が映っていた。
元気なのか。ちゃんと新しい仕事も進めて。それはよかった。
よかったはずなのに、理不尽だと言う思いが消えない。
自分ばっかり、ずっとあの日に囚われている。
◇
組み敷いた身体からすっと力が抜ける。浅く早く上下していた裸の胸が、ゆっくり、深い呼吸に変わっていく。
眠った。
すうすうと、行為の激しさをすっかり忘れたような穏やかな寝息を聞いて、とっさに陽を揺り起こそうとした。そのことに、自分で驚いた。眠らせてと、泣きそうにすがってきた指先をまだ覚えているのに、どうして。
性的な行為の経験はどちらかというと乏しく、ましてや同性相手は初めてだったから、実はとても怖かった。まだ誰も踏み荒らしていないベッドの上で、衝動に任せて引き倒した身体をなぞりながら、本当にこれでいいのか迷った。
だから、水岡の手のひらを、指先を、熱を、陽がよろこんでくれるたびに、ちいさな花火が胸の内で爆発したみたいにうれしかった。
これでいいんだと、これが欲しいのだと、声で、息で、発熱で応えてくれる身体に夢中になった。
先に眠りに落ちていった陽に対して、置いていかれたような寂しさと、足りないという飢餓が一瞬でも理性を上回りそうになって、そんな自分を恐れた。
だって自分は、彼が眠れることを望んでいたはずだった。少なくとも、ベッドに乗り上げる前までは、心から。
本当に?
枕元に転がしていたペンライトをつけて、見たくなかった利己的な一面を消すように、陽の腹に散った欲望を拭い去る。乱れた部屋着を整えて、布団をかけて、水岡はしばらくベッドのそばに立ち尽くした。
二度目だ、と思った。
あの日、陽とはじめて出会った日。煌々と光るシーリングライトをものともせず、初対面の男は水岡のベッドを占領して、もう二度と起きないんじゃないかと思うほどに深く眠っていた。
のびたゴムみたいに弛緩した眉間に、花びらみたいにうすいまぶたはときおりかすかにふるえ、爪の先ほどに開いたくちびるの間から、静かな寝息が往復する。
それは、すこしの振動で死んでしまうやわらかい生き物に、身を委ねられた感覚に近かった。
息をひそめてひそめて、胸が苦しくて仕方ないのに、いつまでも見ていたいような立ち去りがたさが確かにあった。
なぜ、こんなことをしてしまったんだろう。
自問自答してもいまひとつピンとこない。あのときの衝動に名前をつけるのであれば「魔が差した」としかいいようがなく、たとえば陽に「俺のこと好きなの?」と聞かれたら、たいそう答えに迷うだろう。
「眠らせて」という陽の願いは、水岡には「助けて」と聞こえた。ほんの一時でも現実から逃れられる眠りは、ときに救いになると知っていたから。
だから、手っ取り早く現実から逃げられる方法を選んだ。たぶん、相手は水岡でなくてもよかった。でも陽は拒まなかった。水岡の手がどこを触っても。キスをしても。
我を忘れるだけなら、キスはいらなかった。一緒に気持ちよくなる必要もなかった。なのに水岡はキスをして、陽は「一緒に」と笑った。あれは気の迷いだろうか。単なる気遣いなのだろうか。
それとも。
目の前にある穏やかにゆるんだ目元は、初対面の時よりもくすんでいる。痛々しいと思うのは本当で、だからよく眠る彼の姿に安堵しているのも本当だ。
なのに、さっきまで腕のなかで感じていた熱をもっと味わっていたかったという願望が消えなくて、でもその根っこにある理由はわからない。わかりたくない。わかってしまえば、何かが根本的に変わってしまう気がした。
身支度をして、水岡は部屋を出た。カギを閉めて玄関ポストに落とす。しばらく陽とは会いたくなかった。次会ったとき、自分がどんな気持ちになるのか想像するのが怖かった。
◇
ポンコツな目を小学校のころから診てくれている馴染みの医師がかすかに顔を曇らせて、それだけで結果がわかった。
「少し視力が落ちているね」
心当たりを訊ねられても、首を振るしかなかった。
先天性の夜盲症には進行するものとしないものがあって、水岡は幸いなことに、これまで進行は見られなかった。だから安心していたのだけど。
「網膜――光をうけとる細胞のある部分には明らかな異常はないから、まあ単なる疲れ目とか、近眼かもしれないね。様子を診ましょう」
パソコン作業によるドライアイ用の目薬をもらって病院を出る。
午後四時を過ぎたばかりだったけれど、もうすっかり夜が迫っていた。胸ポケットのサングラスに伸ばしていた指を引っ込める。
特殊なレンズのはまったサングラスは、明暗に弱い目を保護するために、野外では必須だった。夜の長い冬は基本的に嫌いだけれど、夕方から素顔で街を歩けるところは気に入っている。
もしこの先、視力が落ちたら、これも要らなくなるんだろうか。
玄関のドアを開けると明るかった。人感センサーの玄関だけでなく、家全体があたたかな暖色の光で満ちている。
「志月坊ちゃん、おかえりなさい」
台所でフライパンを振る初老の女性が振り返る。
「坊ちゃんはやめてください、芳さん」
「ああ、ごめんなさいね。つい」
水岡が生まれる前からお手伝いとして通ってくれていた芳さんは、こうして成人してすっかり独り立ちしてからも、週に二回、家の雑事を引き受けてくれている。
「もうでき上がりますけど、召し上がります?」
「いただこうかな。芳さんも食べていってください」
「そう言ってもらえるのを待っていましたよ」
元気なのか。ちゃんと新しい仕事も進めて。それはよかった。
よかったはずなのに、理不尽だと言う思いが消えない。
自分ばっかり、ずっとあの日に囚われている。
◇
組み敷いた身体からすっと力が抜ける。浅く早く上下していた裸の胸が、ゆっくり、深い呼吸に変わっていく。
眠った。
すうすうと、行為の激しさをすっかり忘れたような穏やかな寝息を聞いて、とっさに陽を揺り起こそうとした。そのことに、自分で驚いた。眠らせてと、泣きそうにすがってきた指先をまだ覚えているのに、どうして。
性的な行為の経験はどちらかというと乏しく、ましてや同性相手は初めてだったから、実はとても怖かった。まだ誰も踏み荒らしていないベッドの上で、衝動に任せて引き倒した身体をなぞりながら、本当にこれでいいのか迷った。
だから、水岡の手のひらを、指先を、熱を、陽がよろこんでくれるたびに、ちいさな花火が胸の内で爆発したみたいにうれしかった。
これでいいんだと、これが欲しいのだと、声で、息で、発熱で応えてくれる身体に夢中になった。
先に眠りに落ちていった陽に対して、置いていかれたような寂しさと、足りないという飢餓が一瞬でも理性を上回りそうになって、そんな自分を恐れた。
だって自分は、彼が眠れることを望んでいたはずだった。少なくとも、ベッドに乗り上げる前までは、心から。
本当に?
枕元に転がしていたペンライトをつけて、見たくなかった利己的な一面を消すように、陽の腹に散った欲望を拭い去る。乱れた部屋着を整えて、布団をかけて、水岡はしばらくベッドのそばに立ち尽くした。
二度目だ、と思った。
あの日、陽とはじめて出会った日。煌々と光るシーリングライトをものともせず、初対面の男は水岡のベッドを占領して、もう二度と起きないんじゃないかと思うほどに深く眠っていた。
のびたゴムみたいに弛緩した眉間に、花びらみたいにうすいまぶたはときおりかすかにふるえ、爪の先ほどに開いたくちびるの間から、静かな寝息が往復する。
それは、すこしの振動で死んでしまうやわらかい生き物に、身を委ねられた感覚に近かった。
息をひそめてひそめて、胸が苦しくて仕方ないのに、いつまでも見ていたいような立ち去りがたさが確かにあった。
なぜ、こんなことをしてしまったんだろう。
自問自答してもいまひとつピンとこない。あのときの衝動に名前をつけるのであれば「魔が差した」としかいいようがなく、たとえば陽に「俺のこと好きなの?」と聞かれたら、たいそう答えに迷うだろう。
「眠らせて」という陽の願いは、水岡には「助けて」と聞こえた。ほんの一時でも現実から逃れられる眠りは、ときに救いになると知っていたから。
だから、手っ取り早く現実から逃げられる方法を選んだ。たぶん、相手は水岡でなくてもよかった。でも陽は拒まなかった。水岡の手がどこを触っても。キスをしても。
我を忘れるだけなら、キスはいらなかった。一緒に気持ちよくなる必要もなかった。なのに水岡はキスをして、陽は「一緒に」と笑った。あれは気の迷いだろうか。単なる気遣いなのだろうか。
それとも。
目の前にある穏やかにゆるんだ目元は、初対面の時よりもくすんでいる。痛々しいと思うのは本当で、だからよく眠る彼の姿に安堵しているのも本当だ。
なのに、さっきまで腕のなかで感じていた熱をもっと味わっていたかったという願望が消えなくて、でもその根っこにある理由はわからない。わかりたくない。わかってしまえば、何かが根本的に変わってしまう気がした。
身支度をして、水岡は部屋を出た。カギを閉めて玄関ポストに落とす。しばらく陽とは会いたくなかった。次会ったとき、自分がどんな気持ちになるのか想像するのが怖かった。
◇
ポンコツな目を小学校のころから診てくれている馴染みの医師がかすかに顔を曇らせて、それだけで結果がわかった。
「少し視力が落ちているね」
心当たりを訊ねられても、首を振るしかなかった。
先天性の夜盲症には進行するものとしないものがあって、水岡は幸いなことに、これまで進行は見られなかった。だから安心していたのだけど。
「網膜――光をうけとる細胞のある部分には明らかな異常はないから、まあ単なる疲れ目とか、近眼かもしれないね。様子を診ましょう」
パソコン作業によるドライアイ用の目薬をもらって病院を出る。
午後四時を過ぎたばかりだったけれど、もうすっかり夜が迫っていた。胸ポケットのサングラスに伸ばしていた指を引っ込める。
特殊なレンズのはまったサングラスは、明暗に弱い目を保護するために、野外では必須だった。夜の長い冬は基本的に嫌いだけれど、夕方から素顔で街を歩けるところは気に入っている。
もしこの先、視力が落ちたら、これも要らなくなるんだろうか。
玄関のドアを開けると明るかった。人感センサーの玄関だけでなく、家全体があたたかな暖色の光で満ちている。
「志月坊ちゃん、おかえりなさい」
台所でフライパンを振る初老の女性が振り返る。
「坊ちゃんはやめてください、芳さん」
「ああ、ごめんなさいね。つい」
水岡が生まれる前からお手伝いとして通ってくれていた芳さんは、こうして成人してすっかり独り立ちしてからも、週に二回、家の雑事を引き受けてくれている。
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