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19.陽、悩む
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事務所の自販機が赤色のメーカーから青色のメーカーに変わっていた。
こういうのって誰が指定するんだろうな、と思いながら、いつもの元気を前借りするドリンクに指をのばしかけて、やめる。
少し悩んで、一段下のオレンジ色の缶のボタンを押した。ビタミンたっぷり、の文言はすぐ、暖房の風に汗をかき始める。
須永は帰ってこなかった。
休み明け、「もうわかってると思うけど」と田所に呼ばれた。
「このまま辞めますって連絡がきたよ。もうちょっと粘ってくれるって思ったんだけどなあ」
忌引き休暇が終わり次第、有休の消化が始まるらしい。見え透いていた結果に、陽はただ「残念です」とだけ答えた。社用携帯の充電ケーブルがつながりっぱなしの、今にもトイレから戻ってきそうなデスクをながめて、久しく忘れていた後悔をした。
俺は、あいつの苦手な料理を押し付けていたんだろうか。
手遅れだとわかっていながら、水岡の言葉が引っかかっていた。
もちろん現実は待ってくれない。本人不在のなか、須永の仕事をまるまる引き継ぐのは、さすがの陽にも堪えた。
関係各所へのあいさつとお詫びと今後のスケジュールの再確認、いま進んでいること、止まっていること、諦めるべきことと喰らいついて継続しなければならないことの選別、まかせていたことの洗い直し。
日なたに置いた氷のように、時間はあっという間に溶けて蒸発して消えていった。
水岡と出かけた日から二週間後に、ベッドが届いた。
できるだけ早く受け取りたくて、平日の昼間にわざわざ会社を中抜けして家に帰り、折れたベッドと引き換えに新しい寝床を搬入してもらう。設置が終わって、また出社して、不在の時間に溜まっていた仕事を片付けて、ようやく退社する頃には日付が変わっていた。
帰宅して、即風呂に入り、洗ったばかりの部屋着に着替える。水岡が見たらため息をつかれそうな、くたびれたカットソーの寝間着は、場違いに甘い柔軟剤の香りがする。
真新しいベッドにこわごわ座る。まだシーツをかけていない、むき出しのマットレスが陽の形にあわせてやんわりと沈む。自分から染み出た見えない汚れがくっきりと跡につくようで、落ち着かなくてすぐ立ち上がった。買ったばかりの携帯に触るときに似ている。どうせ汚れることがわかっているのに、指紋ひとつない宝石みたいな完璧さに、触れるのをためらう期間。
どうしようかな、と思う。寝心地を試しに来てもいいから、なんて言わなきゃよかった。
うかつな自分の発言を、陽はいまさら後悔していた。社交辞令とはいえ、自分から言い出したことをなかったことにするのは気が引ける。かといって、水岡をこの家に呼ぶのも尻込みするし、けどあんまり時間を置くのも感じが悪いし。
ベッドから降りて、傍らに敷いた客用布団に寝転がる。
ベッドが届くまでの間、急場しのぎとして買った四桁円の布団セットはお値段相応に頼りなくて、一度でも分厚いマットレスで寝てしまえば戻れなくなりそうだった。
そもそも、あと四時間後には出社しなくてはならないし。
熟睡しないためにも、と言い訳して陽は布団の方にもぐり、スマホを見つめる。
水岡のアイコンを触るのすら緊張していて、自身のポンコツ具合がおそろしくなる。
だって、二十八だぞ?
それなりに恋愛だって経験してきたし、人脈とコネを操るのが仕事みたいな業界にいて、今さら他人に嫌われるのが怖いわけもない。はずなのに。
明かりを消すと余計なことばかり考えそうで、陽はスマホをにぎりしめたまま明るいブルーライトの海を漂った。寝心地いい、パジャマ、安い、の検索結果を眺めていたとき、見覚えのある広告が目に留まる。
須永がハマっていたゲームだ。そう言えば、この手のものってやったことないな。基本無料の文言につられて、ダウンロードする。
外を歩いて町中のアイテムを集めていくというゲームは、真夜中に部屋のなかでやるには不向きだったけれど、チュートリアルだけでも楽しめた。
鮮やかなグラフィック、わくわくする音楽、すこし背伸びをすれば手の届きそうなクエストに、膨大な量の報酬。
初回サービスなのか、じゃらじゃら溜まっていくアプリ内の通貨に、現実で使えたら大儲けだな、と虚しく笑う。けど、次から次へとやるべきことを提示されるのは性に合っていた。
マップを見ながら通勤途中に一番効率よくアイテム回収する方法を考えていると、あっという間にあたりが明るくなってきた。
ああ、今日も寝れなかった、と思いながら身を起こそうとしたとき、手の中の機械が震えた。反射的に画面をひらく。
『ベッド届きましたか?』
あ、やば。既読つけちゃった。つうか、起きるの早いな。
一瞬で焦りと動揺とうれしさとが去来する。ぶちまけられたおもちゃ箱みたいな胸の内を整理する前に電話がかかってくる。え、なんで?
『なんで起きてるんですか?』
素行の悪い子どもを叱る先生みたいな声だ。
「いや、そっちこそ」
『おれはこの時間が通常です』
「俺だってそうだよ」
『また見え透いたウソを』
ふ、と笑う気配が電波を超えて伝わってきて、思わずスマホを取り落とす。あーもう。
『なんかすごい音しましたけど』
「手がすべって」
『はあ。で、何してたんですか?』
降参して、事実を話した。眠れなくてゲームをしていたこと。やってみたらついついおもしろくって、ちょっとのつもりがこんな時間になってしまったこと。バカじゃないですか、と怒られるんだろうなあと思った。ちょっと、怒られてみたいとも。
『へえ、そんなゲームがあるんですね』
予想に反して、水岡は感心したような声を上げた。
「やったことないの?」
『あるように見えますか?』
「みえない」
こういうのって誰が指定するんだろうな、と思いながら、いつもの元気を前借りするドリンクに指をのばしかけて、やめる。
少し悩んで、一段下のオレンジ色の缶のボタンを押した。ビタミンたっぷり、の文言はすぐ、暖房の風に汗をかき始める。
須永は帰ってこなかった。
休み明け、「もうわかってると思うけど」と田所に呼ばれた。
「このまま辞めますって連絡がきたよ。もうちょっと粘ってくれるって思ったんだけどなあ」
忌引き休暇が終わり次第、有休の消化が始まるらしい。見え透いていた結果に、陽はただ「残念です」とだけ答えた。社用携帯の充電ケーブルがつながりっぱなしの、今にもトイレから戻ってきそうなデスクをながめて、久しく忘れていた後悔をした。
俺は、あいつの苦手な料理を押し付けていたんだろうか。
手遅れだとわかっていながら、水岡の言葉が引っかかっていた。
もちろん現実は待ってくれない。本人不在のなか、須永の仕事をまるまる引き継ぐのは、さすがの陽にも堪えた。
関係各所へのあいさつとお詫びと今後のスケジュールの再確認、いま進んでいること、止まっていること、諦めるべきことと喰らいついて継続しなければならないことの選別、まかせていたことの洗い直し。
日なたに置いた氷のように、時間はあっという間に溶けて蒸発して消えていった。
水岡と出かけた日から二週間後に、ベッドが届いた。
できるだけ早く受け取りたくて、平日の昼間にわざわざ会社を中抜けして家に帰り、折れたベッドと引き換えに新しい寝床を搬入してもらう。設置が終わって、また出社して、不在の時間に溜まっていた仕事を片付けて、ようやく退社する頃には日付が変わっていた。
帰宅して、即風呂に入り、洗ったばかりの部屋着に着替える。水岡が見たらため息をつかれそうな、くたびれたカットソーの寝間着は、場違いに甘い柔軟剤の香りがする。
真新しいベッドにこわごわ座る。まだシーツをかけていない、むき出しのマットレスが陽の形にあわせてやんわりと沈む。自分から染み出た見えない汚れがくっきりと跡につくようで、落ち着かなくてすぐ立ち上がった。買ったばかりの携帯に触るときに似ている。どうせ汚れることがわかっているのに、指紋ひとつない宝石みたいな完璧さに、触れるのをためらう期間。
どうしようかな、と思う。寝心地を試しに来てもいいから、なんて言わなきゃよかった。
うかつな自分の発言を、陽はいまさら後悔していた。社交辞令とはいえ、自分から言い出したことをなかったことにするのは気が引ける。かといって、水岡をこの家に呼ぶのも尻込みするし、けどあんまり時間を置くのも感じが悪いし。
ベッドから降りて、傍らに敷いた客用布団に寝転がる。
ベッドが届くまでの間、急場しのぎとして買った四桁円の布団セットはお値段相応に頼りなくて、一度でも分厚いマットレスで寝てしまえば戻れなくなりそうだった。
そもそも、あと四時間後には出社しなくてはならないし。
熟睡しないためにも、と言い訳して陽は布団の方にもぐり、スマホを見つめる。
水岡のアイコンを触るのすら緊張していて、自身のポンコツ具合がおそろしくなる。
だって、二十八だぞ?
それなりに恋愛だって経験してきたし、人脈とコネを操るのが仕事みたいな業界にいて、今さら他人に嫌われるのが怖いわけもない。はずなのに。
明かりを消すと余計なことばかり考えそうで、陽はスマホをにぎりしめたまま明るいブルーライトの海を漂った。寝心地いい、パジャマ、安い、の検索結果を眺めていたとき、見覚えのある広告が目に留まる。
須永がハマっていたゲームだ。そう言えば、この手のものってやったことないな。基本無料の文言につられて、ダウンロードする。
外を歩いて町中のアイテムを集めていくというゲームは、真夜中に部屋のなかでやるには不向きだったけれど、チュートリアルだけでも楽しめた。
鮮やかなグラフィック、わくわくする音楽、すこし背伸びをすれば手の届きそうなクエストに、膨大な量の報酬。
初回サービスなのか、じゃらじゃら溜まっていくアプリ内の通貨に、現実で使えたら大儲けだな、と虚しく笑う。けど、次から次へとやるべきことを提示されるのは性に合っていた。
マップを見ながら通勤途中に一番効率よくアイテム回収する方法を考えていると、あっという間にあたりが明るくなってきた。
ああ、今日も寝れなかった、と思いながら身を起こそうとしたとき、手の中の機械が震えた。反射的に画面をひらく。
『ベッド届きましたか?』
あ、やば。既読つけちゃった。つうか、起きるの早いな。
一瞬で焦りと動揺とうれしさとが去来する。ぶちまけられたおもちゃ箱みたいな胸の内を整理する前に電話がかかってくる。え、なんで?
『なんで起きてるんですか?』
素行の悪い子どもを叱る先生みたいな声だ。
「いや、そっちこそ」
『おれはこの時間が通常です』
「俺だってそうだよ」
『また見え透いたウソを』
ふ、と笑う気配が電波を超えて伝わってきて、思わずスマホを取り落とす。あーもう。
『なんかすごい音しましたけど』
「手がすべって」
『はあ。で、何してたんですか?』
降参して、事実を話した。眠れなくてゲームをしていたこと。やってみたらついついおもしろくって、ちょっとのつもりがこんな時間になってしまったこと。バカじゃないですか、と怒られるんだろうなあと思った。ちょっと、怒られてみたいとも。
『へえ、そんなゲームがあるんですね』
予想に反して、水岡は感心したような声を上げた。
「やったことないの?」
『あるように見えますか?』
「みえない」
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