14 / 33
14.陽、食べる
しおりを挟む
どん、と目の前に定食を置かれた。
地獄のマグマみたいに煮えたぎった麻婆豆腐、ガラスの小鉢に盛られた水菜のサラダ、ほかほかと湯気を立てる白米、ふたくちで食べ終えてしまえそうな杏仁豆腐。
同じものを前に、水岡はさっさとレンゲを手に取り「いただきます」とつぶやく。同じようにレンゲを取って、ひと口たべて感動した。
辛い。
「あの、もしかして辛党?」
「いえまったく」
言葉通り、水岡は決死の表情で毒々しいほど赤い豆腐を飲み込んでは、ぎゅ、と眉間にシワを寄せている。夏場でもさらさらしてそうな額には、大粒の汗も浮かんでいた。
陽は自他ともに認める辛い物好きなので、このくらいの辛みがちょうどいいけれど、好きじゃないと耐えきれないくらいの辛さだ。
「辛い物好きじゃないときつくないですか?」
「きついです」
「じゃあなんで?」
そういう癖のひとだろうか、と思いながら、舌の上をほとばしる痺れを味わう。
「代謝をあげるためにいいんですよ、ここの香辛料」
「代謝」
「はい」
「それも、ぐっすり眠るため?」
当然だろ、という顔で上目遣いに陽を見て、耐えきれないというようにコップをあおる。喉の隆起が大きく前後する様子から、なんとなく目を逸らした。
「あなたは平気そうだ」
「俺、辛い物好きなんで」
「そうですか」
「というか、俺が辛い物ダメだったらどうしてたんですか?」
まさか一人で二人前食べるわけでもないだろうに。
「おれが食べれるんだから、大丈夫でしょう」
不思議な論理を当然のように語って限界がきたのか、水岡は手を止める。
本気でそう思ってるんだろうか。それとも、悪意のある冗談だろうか。なんとなく前者な気がする。
この人、なんで俺をここに連れてきたんだろう、と今さら疑問に思った。
他人の金で思う存分マットレスを選ぶのが目的なら、別に食事はいらなかったように思う。会話を楽しむでもなく、勝手に人の分まで注文するし、本当にただの財布要員? いや、税抜き八百円の定食でいいならぜんぜん払いますけど。
「そこまで睡眠にこだわるようになったきっかけとか、あるんですか?」
せっかくの機会だし、と口元を紙ナプキンでぬぐう水岡に訊いてみる。
「小さい頃から、眠るのが下手だったんですよ」
「下手?」
「もともと、長く寝るタイプじゃないんでしょうね。それなのに目がこれだから、夜、目覚めると今度は怖くて眠れなくなって。窓の外が明るくなってから眠るもんだから、睡眠サイクルもむちゃくちゃで、朝十時に寝て夕方四時に起きて、みたいな生活でした。まあ小さい頃はそれでもよかったんですが、学校が始まるとそうも言っていられず、必要に迫られて、という感じでしょうか」
恐怖という感情をインストールせずに生まれてきたみたいな姿からは、想像もできない。
「夜、目が利かないってどんな感じですか?」
「見えないだけです。明るい所から急に暗いところ行ったら、しばらくは何も見えないでしょう? 普通の人はそこから弱い光に慣れていくらしいですけど、おれはそれができない」
夜中、目を開けると真っ暗な闇が広がっているのが怖かったことを思い出した。だから陽の部屋はいつも、豆電球がついていた。
同じような恐怖を目の前の男も感じたことがあるのだと思うと、微笑ましいような、その反面、反射のような哀れみもわずかによぎる。
不思議だ。いまの水岡はすっかり大人で、見えなくたって怖いことなどないだろうに。
「夏はまだ、夜が短いからいいんですけどね。冬はいつまで経っても朝がこないから嫌いでした。トイレにも行けない」
「電気つかないんですか?」
「スイッチまでたどり着けないんです。フットライトをつけたり蓄光シールを貼ったり、いろいろしたんですけど、明るいと今度は眠れなくって。最終的に、枕の下にペンライトを入れてました」
「俺とは正反対ですね」
思わず笑ってしまう。
「俺、昔っからよく寝る子どもで、休みの日とかカーテン開いてるのに昼までずっと寝てばっかでした」
「ロングスリーパーなんですね」
「ああ、そんな言い方するんでしたっけ。単に怠け者だっただけですよ。学校もさんざんサボって、親にもよく怒られました。別に、眠りたくて寝てたわけじゃないんだけど」
いま思えば贅沢な話だ。眠ろうとしなくても眠れて、起きる時間も気にしなくていい。
「スイッチが欲しかったなあ」
「スイッチ?」
「子どものころ、思ったことありません? 電気のスイッチをオンオフするみたいに、寝たり起きたりできたらいいのにって」
一向につかめない眠りの裾を追いかけながら、ひたすら布団で目を閉じているとき。いま眠れたら死んでもいいと思うほどの眠気を、カフェインで紛らわすとき。一分一秒をかみしめながら、必死で布団から這い出なくていい言い訳を探しているとき。いつも思う。
まぶたを閉じるのと同じように、睡眠をコントロールできたらいいのに。
「だって、絶対便利だし合理的だと思うんですよね。眠らない身体にしてくれって思ってたこともあったけど、それは難しそうだから、じゃあせめて、コントロールできればいいなって」
「それは、効率的に働くために?」
水岡が口をはさんだ。
「仕事は自己満足って、このまえ言ってましたけど、その自己満足を追求するためにスイッチがほしいんですか?」
地獄のマグマみたいに煮えたぎった麻婆豆腐、ガラスの小鉢に盛られた水菜のサラダ、ほかほかと湯気を立てる白米、ふたくちで食べ終えてしまえそうな杏仁豆腐。
同じものを前に、水岡はさっさとレンゲを手に取り「いただきます」とつぶやく。同じようにレンゲを取って、ひと口たべて感動した。
辛い。
「あの、もしかして辛党?」
「いえまったく」
言葉通り、水岡は決死の表情で毒々しいほど赤い豆腐を飲み込んでは、ぎゅ、と眉間にシワを寄せている。夏場でもさらさらしてそうな額には、大粒の汗も浮かんでいた。
陽は自他ともに認める辛い物好きなので、このくらいの辛みがちょうどいいけれど、好きじゃないと耐えきれないくらいの辛さだ。
「辛い物好きじゃないときつくないですか?」
「きついです」
「じゃあなんで?」
そういう癖のひとだろうか、と思いながら、舌の上をほとばしる痺れを味わう。
「代謝をあげるためにいいんですよ、ここの香辛料」
「代謝」
「はい」
「それも、ぐっすり眠るため?」
当然だろ、という顔で上目遣いに陽を見て、耐えきれないというようにコップをあおる。喉の隆起が大きく前後する様子から、なんとなく目を逸らした。
「あなたは平気そうだ」
「俺、辛い物好きなんで」
「そうですか」
「というか、俺が辛い物ダメだったらどうしてたんですか?」
まさか一人で二人前食べるわけでもないだろうに。
「おれが食べれるんだから、大丈夫でしょう」
不思議な論理を当然のように語って限界がきたのか、水岡は手を止める。
本気でそう思ってるんだろうか。それとも、悪意のある冗談だろうか。なんとなく前者な気がする。
この人、なんで俺をここに連れてきたんだろう、と今さら疑問に思った。
他人の金で思う存分マットレスを選ぶのが目的なら、別に食事はいらなかったように思う。会話を楽しむでもなく、勝手に人の分まで注文するし、本当にただの財布要員? いや、税抜き八百円の定食でいいならぜんぜん払いますけど。
「そこまで睡眠にこだわるようになったきっかけとか、あるんですか?」
せっかくの機会だし、と口元を紙ナプキンでぬぐう水岡に訊いてみる。
「小さい頃から、眠るのが下手だったんですよ」
「下手?」
「もともと、長く寝るタイプじゃないんでしょうね。それなのに目がこれだから、夜、目覚めると今度は怖くて眠れなくなって。窓の外が明るくなってから眠るもんだから、睡眠サイクルもむちゃくちゃで、朝十時に寝て夕方四時に起きて、みたいな生活でした。まあ小さい頃はそれでもよかったんですが、学校が始まるとそうも言っていられず、必要に迫られて、という感じでしょうか」
恐怖という感情をインストールせずに生まれてきたみたいな姿からは、想像もできない。
「夜、目が利かないってどんな感じですか?」
「見えないだけです。明るい所から急に暗いところ行ったら、しばらくは何も見えないでしょう? 普通の人はそこから弱い光に慣れていくらしいですけど、おれはそれができない」
夜中、目を開けると真っ暗な闇が広がっているのが怖かったことを思い出した。だから陽の部屋はいつも、豆電球がついていた。
同じような恐怖を目の前の男も感じたことがあるのだと思うと、微笑ましいような、その反面、反射のような哀れみもわずかによぎる。
不思議だ。いまの水岡はすっかり大人で、見えなくたって怖いことなどないだろうに。
「夏はまだ、夜が短いからいいんですけどね。冬はいつまで経っても朝がこないから嫌いでした。トイレにも行けない」
「電気つかないんですか?」
「スイッチまでたどり着けないんです。フットライトをつけたり蓄光シールを貼ったり、いろいろしたんですけど、明るいと今度は眠れなくって。最終的に、枕の下にペンライトを入れてました」
「俺とは正反対ですね」
思わず笑ってしまう。
「俺、昔っからよく寝る子どもで、休みの日とかカーテン開いてるのに昼までずっと寝てばっかでした」
「ロングスリーパーなんですね」
「ああ、そんな言い方するんでしたっけ。単に怠け者だっただけですよ。学校もさんざんサボって、親にもよく怒られました。別に、眠りたくて寝てたわけじゃないんだけど」
いま思えば贅沢な話だ。眠ろうとしなくても眠れて、起きる時間も気にしなくていい。
「スイッチが欲しかったなあ」
「スイッチ?」
「子どものころ、思ったことありません? 電気のスイッチをオンオフするみたいに、寝たり起きたりできたらいいのにって」
一向につかめない眠りの裾を追いかけながら、ひたすら布団で目を閉じているとき。いま眠れたら死んでもいいと思うほどの眠気を、カフェインで紛らわすとき。一分一秒をかみしめながら、必死で布団から這い出なくていい言い訳を探しているとき。いつも思う。
まぶたを閉じるのと同じように、睡眠をコントロールできたらいいのに。
「だって、絶対便利だし合理的だと思うんですよね。眠らない身体にしてくれって思ってたこともあったけど、それは難しそうだから、じゃあせめて、コントロールできればいいなって」
「それは、効率的に働くために?」
水岡が口をはさんだ。
「仕事は自己満足って、このまえ言ってましたけど、その自己満足を追求するためにスイッチがほしいんですか?」
応援ありがとうございます!
10
お気に入りに追加
9
1 / 3
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる