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8. 陽、試す
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「……俺でよければ、ご相談にのりますけど」
「相談?」
「その、よく眠れるグッズとか。知りたいんですよね?」
「あ、ええ、まあ」
じゃあ、と男は尻ポケットからスマホを抜くと、陽に向けてきた。
長年の営業の習性で反射的に連絡先交換の体制を取ろうとしたけど、手の中のボトルが邪魔でもたつく。と、男はだまってミストを預かってくれた。
退店を促すBGMが鳴り始めた店内で、慌ただしくIDを交換する。
「――水岡、志月さん」
「はい。渡来陽さん」
思いがけず真摯な声で名前を呼ばれ、なんだか妙に緊張する。目が合うと、水岡の顔がかすかにほころんだ。にっこり笑う野生のシロクマ、くらいの破壊力があって、思わずまじまじ見てしまう。と、ラベルを剥がすくらいのあっけなさで、もとの不愛想にもどってしまった。
「あ、もったいない」
「なんですか、急に」
「いえ、笑うんだなって思って」
「そりゃ生きてるんで」
存外、表情豊かに怪訝な顔をする大男がおもしろくって、陽は笑いをかみ殺す。
「とりあえず、まずはこれを試してみますね」
そう言ってピローミストと柔軟剤を手にレジに向かおうとすると、水岡が口をひらいた。
「そんなに好きなんですか? 仕事」
さっきまでの打ち解けた空気はもうなくて、どこか途方に暮れたような顔があった。
「先日もでしたけど、隈、ひどいですよ。肌も、唇の荒れだって。そこまで身を削る価値のあるものなんですか? 仕事って」
この手のことはもう何度も言われたことがあって、いつも「いや~生きてくって大変ですよね」とか、適当にごまかしていた。けど、水岡の言葉に哀れみや同情はまったくなくて、だからうっかり、本音が口をついた。
「別に特別好きってことはないですね。価値は、あったらいいなと思いますけど」
「じゃあ」
「けど、求められるから」
手の中のボトルを見つめる。センスの良いパッケージ。何年もかけて開発された有効成分。これも全部、だれかの仕事だ。
「任されて、やり遂げると、なんというか、居ていいんだって気になるんです。そういう安心感は好きかな」
世のため人のためとか言うけど、結局そんなの自己満足だ。
ありがとうと言われたい。
役に立つと褒められたい。
小学生でも持っているような単純な承認欲求は、二十七になっても、底の空いたバケツみたいに満たされることはない。
陽には、沙苗の気持ちがよくわかる。
もちろん、仕事辞めたいとか、宝くじ当たらないかなとか、そう思う瞬間も数えきれないほどにあるけれど、たとえば、取引先から自分の名前の入った年賀状をもらったときや、休日の無人のフロアに入って、自分のデスクに挿しっぱなしの充電ケーブルがちゃんと残っているのを見たとき、陽は安心する。
だから働くのも嫌いじゃない。
自分はここにいていいんだ、と証明してくれるのなら、多少の体調不良や精神的しんどさなんて、どうでもよかった。
家に帰ってから洗濯する余裕はなかったので、きょうのところはミストだけを枕に振りかけてみた。
掃除しているとはいえ、男の一人暮らしの部屋にいきなりフローラルな香りが漂ったものだから、どんぶりにショートケーキを乗せたみたいにちぐはぐだ。それでも寝っ転がると、いつもより深く呼吸できる気がする。
ちゃんと柔軟剤使ったら、もっと変わるんだろうか。洗いたいけれど、今週末の天気はどうだったかな。
そう考えると、すこしだけ朝が楽しみになる。
◇
「彼女でもできた?」
眠気覚まし代わりの、すうすうするのど飴をかみ砕きながら給湯室でカップを洗っていると、ふいに田所に話しかけられた。
「できてないっすよ。なんすか急に」
「ほんとー? の割には、なんかつやっとしてるよ。残業時間減ってないのに」
減らさせてくれないんだよなあ、とは口にせず、陽はお愛想笑いでごまかした。単純に、だらだら酒を飲んでいたのを止めて早く寝るようにしただけなんだけど。
「須永がひとり立ちして、ちょっとは楽になったんで」
説明が面倒で、お利口の返事をする。田所は疑わしそうにふうんと言って、それでも「よかった」と本音のにじむ笑顔を見せた。
水岡とはあれから結局、一度しかやり取りをしなかった。
「柔軟剤使ってみました。よかったです」という陽のメッセージに、「はい」とひと言返ってきただけ。無理に続けてもよかったのだけど、仕事でもあるまいし、プライベートで一から人間関係を築く気力は激務のなかのどこにもなかった。
それでも陽は柔軟剤を買い置きするようになり、そうすると、なんだかたまの休みの晴れの日には布団を干したくなり、干した布団は眠りの質を上げ、するとまた何か睡眠に良いことを試したくなる、の好循環を繰り返していた。
デスクに戻ると、須永が飼い主を見つけた犬のように近寄ってくる。
「ワタさん、これ見てください」
「ん?」
「相談?」
「その、よく眠れるグッズとか。知りたいんですよね?」
「あ、ええ、まあ」
じゃあ、と男は尻ポケットからスマホを抜くと、陽に向けてきた。
長年の営業の習性で反射的に連絡先交換の体制を取ろうとしたけど、手の中のボトルが邪魔でもたつく。と、男はだまってミストを預かってくれた。
退店を促すBGMが鳴り始めた店内で、慌ただしくIDを交換する。
「――水岡、志月さん」
「はい。渡来陽さん」
思いがけず真摯な声で名前を呼ばれ、なんだか妙に緊張する。目が合うと、水岡の顔がかすかにほころんだ。にっこり笑う野生のシロクマ、くらいの破壊力があって、思わずまじまじ見てしまう。と、ラベルを剥がすくらいのあっけなさで、もとの不愛想にもどってしまった。
「あ、もったいない」
「なんですか、急に」
「いえ、笑うんだなって思って」
「そりゃ生きてるんで」
存外、表情豊かに怪訝な顔をする大男がおもしろくって、陽は笑いをかみ殺す。
「とりあえず、まずはこれを試してみますね」
そう言ってピローミストと柔軟剤を手にレジに向かおうとすると、水岡が口をひらいた。
「そんなに好きなんですか? 仕事」
さっきまでの打ち解けた空気はもうなくて、どこか途方に暮れたような顔があった。
「先日もでしたけど、隈、ひどいですよ。肌も、唇の荒れだって。そこまで身を削る価値のあるものなんですか? 仕事って」
この手のことはもう何度も言われたことがあって、いつも「いや~生きてくって大変ですよね」とか、適当にごまかしていた。けど、水岡の言葉に哀れみや同情はまったくなくて、だからうっかり、本音が口をついた。
「別に特別好きってことはないですね。価値は、あったらいいなと思いますけど」
「じゃあ」
「けど、求められるから」
手の中のボトルを見つめる。センスの良いパッケージ。何年もかけて開発された有効成分。これも全部、だれかの仕事だ。
「任されて、やり遂げると、なんというか、居ていいんだって気になるんです。そういう安心感は好きかな」
世のため人のためとか言うけど、結局そんなの自己満足だ。
ありがとうと言われたい。
役に立つと褒められたい。
小学生でも持っているような単純な承認欲求は、二十七になっても、底の空いたバケツみたいに満たされることはない。
陽には、沙苗の気持ちがよくわかる。
もちろん、仕事辞めたいとか、宝くじ当たらないかなとか、そう思う瞬間も数えきれないほどにあるけれど、たとえば、取引先から自分の名前の入った年賀状をもらったときや、休日の無人のフロアに入って、自分のデスクに挿しっぱなしの充電ケーブルがちゃんと残っているのを見たとき、陽は安心する。
だから働くのも嫌いじゃない。
自分はここにいていいんだ、と証明してくれるのなら、多少の体調不良や精神的しんどさなんて、どうでもよかった。
家に帰ってから洗濯する余裕はなかったので、きょうのところはミストだけを枕に振りかけてみた。
掃除しているとはいえ、男の一人暮らしの部屋にいきなりフローラルな香りが漂ったものだから、どんぶりにショートケーキを乗せたみたいにちぐはぐだ。それでも寝っ転がると、いつもより深く呼吸できる気がする。
ちゃんと柔軟剤使ったら、もっと変わるんだろうか。洗いたいけれど、今週末の天気はどうだったかな。
そう考えると、すこしだけ朝が楽しみになる。
◇
「彼女でもできた?」
眠気覚まし代わりの、すうすうするのど飴をかみ砕きながら給湯室でカップを洗っていると、ふいに田所に話しかけられた。
「できてないっすよ。なんすか急に」
「ほんとー? の割には、なんかつやっとしてるよ。残業時間減ってないのに」
減らさせてくれないんだよなあ、とは口にせず、陽はお愛想笑いでごまかした。単純に、だらだら酒を飲んでいたのを止めて早く寝るようにしただけなんだけど。
「須永がひとり立ちして、ちょっとは楽になったんで」
説明が面倒で、お利口の返事をする。田所は疑わしそうにふうんと言って、それでも「よかった」と本音のにじむ笑顔を見せた。
水岡とはあれから結局、一度しかやり取りをしなかった。
「柔軟剤使ってみました。よかったです」という陽のメッセージに、「はい」とひと言返ってきただけ。無理に続けてもよかったのだけど、仕事でもあるまいし、プライベートで一から人間関係を築く気力は激務のなかのどこにもなかった。
それでも陽は柔軟剤を買い置きするようになり、そうすると、なんだかたまの休みの晴れの日には布団を干したくなり、干した布団は眠りの質を上げ、するとまた何か睡眠に良いことを試したくなる、の好循環を繰り返していた。
デスクに戻ると、須永が飼い主を見つけた犬のように近寄ってくる。
「ワタさん、これ見てください」
「ん?」
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