眠たい眠たい、眠たい夜は

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5. 陽、「ヨウ」と出会う

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 三十分も経たないうちに舟をこぎ始めた後輩をむりやり帰し、共有フォルダに上げられたデータをぽちぽち修正しながら、ほとんど電気の消えた薄暗いフロアで訊ねる。

「例の件って?」
「採用ですよ、採用。まじで須永、辞めちゃいますよ?」
「ああ、それなあ」

 その声だけでもう、全然進めてないのだとわかった。

「いや、がんばってんだよ。けどさあ、うちみたいな小さい会社には、なかなかこれって人が来てくんないから」
「にしても、業務多すぎですよ。あいつまだ、入社三か月目ですよ? 残業時間、知ってますよね」
「わかってるけどさあ。そこをどうにかすんのが、現場の工夫ってやつじゃん?」
「仕事のやり方でどうこうなるようなら、半年に三人も辞めないんすよ」

 だから陽はあえて耳に痛い現実を突きつける。

「給料上がんないなら、せめて労働環境よくなきゃ。どっちも最悪って最悪ですよ」
「二回も言わなくたっていいでしょ」

 私だってわかってんだよ、と上司は頭を抱える。

「これ以上給料出したら会社がつぶれるし、けど、仕事を減らして残業減らしても売り上げが減ってじり貧だし、画期的な業務改善をする予算なんてないし……」

 泣き言を聞きながら、陽は資料の「家庭」を「過程」に直し、均一だったフォントにメリハリをつけ、図形の枠線と塗りつぶしの色を合わせる。上司なりに奮闘していることは、分かっている。けどそれに同情しては、いつまで経っても変わらない。心を鬼にして弱音を無視する。

「きいてる?」
「きいてないっす」

 ひどい、と嘆いた田所は、そのまま立ち上がるとフロアの戸締りを始めた。
 ぎりぎりまで粘っていた陽も、シュレッダーのゴミと一緒に吐き出される。一杯つき合え、と言わないのが、彼女なりの気遣いなのはわかっていた。



 飲食店の少ないこのあたりは、二十二時を過ぎると途端に明かりが消えて寂しくなる。
 街灯とコンビニに照らされた道をとぼとぼ歩きながら、あの人はもう寝たかな、とふと思う。仕事以外で他人にあまり興味のない陽にしては、めずらしいことだ。それだけ強烈だったのだろう。

 波間を漂う流氷みたいな、大きな真っ白いベッド。

 魔法でも掛けられたかのようにすっきりと疲れがとれたあの日以降、陽なりに生活の改善を試みてはいた。
 残業は仕方ないとして、三か月ぶりにシャワーだけじゃなく湯につかってみたり、睡眠改善に効果のあるサプリを飲んでみたり、とりあえずいいと評判のアロマを買ってみたり。どれもなんとなく気分は良かったけれど、あの日のような劇的な回復はなかった。

 何かがちがうのはわかるけれど、何がちがうのかはわからない。

 突き詰めるまではなかなか腰が上がらなくって、結局、使いさしの快眠グッズは洗面所の下にしまわれたままだ。

 じわじわと水位を増すような疲れを、伸びをすることで振り払おうとする。到底人体から出たものとは思えない音を鳴らしながら首を逸らすと、笑うように金星がまたたく。
 地上の星は人間の不眠の産物、なら、頭上でまたたく星の向こうにも、眠れない何かがいるのだろうか。視界を現実に戻すと、自販機のボタンが流れ星みたいに光っては消えていく。



 睡眠アドバイザー(こんな職業あるのか?)「ヨウ」(読み方はちがえど、名前が似ていてちょっとドキッとする)との打ち合わせは、オンラインで始まった。

 いつも通り始業時間五分前に出社した後輩には、時間の都合で大きな修正点しか伝えられなかったけれど、須永は黒い画面に向かって(顔出しは打ち合わせでもNGのようだ)、今のところ大きなミスなく懸命に説明を進めている。

「つきましては、香泉堂様からのたっての希望で、ヨウさんにこの商品をモニターしてほしいと考えておりまして」

 今回、創立九十年記念として開発されたのが、紫色の「熟睡の香」こと「夢海原」だ。よくあるルームフレグランスやアロマと似た商品だけど、ベースがお香であるため、高齢者や男性もターゲットに開発したという。ユニセックスなデザインで、女性向きとされていた睡眠市場に新風をふかせたいと意気込んでいるらしい。

「あの、いかがでしょうか……?」
「いいですよ」

 須永の恐る恐る、といった問いに、素っ気なくもあっさりと、男の声は承諾を返した。ネット環境が弱いのか、音声はかなり割れているが、承諾にはちがいない。思わず、顔を見合わせる。

「ありがとうございます! そうしましたら、サンプルをお送りしますので、先ほどの内容とスケジュールで撮影をおねがいできますでしょうか」

 サンプルの送付先とこまごまとした連絡事項を伝えて安心したのか、須永はそれにしても、とふいに話を振った。

「ヨウさん、男性だったんですね。普段顔も声も出されてないんで、てっきり女性かと思っていました」
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