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重年
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男は嘆く。「之の生命永遠あれ」
今も昔も、生命なるものには平等に死が与えられる。静動構わず与えられる。必ず訪れる最期、先の見えぬ最期だからこそ時に死は拒まれるものである。
男は酷く死を拒んだ。然して酷く楽をしたがった。無為に、孤独に、唯父母の遺産で寝て食べて過した。孤立することを厭わない男にとって、死ぬことだけが恐ろしかった。
飯を食い、昼寝の一つでもしようかと天井を仰ぐ。と、キンコン。と呼鈴が鳴った。長らく来客の無かった男は刹那心臓が跳ね上がるのを感じ、心当たりの無い知り合いを脳裏に浮かべながら玄関の戸を開ける。
「時間は欲しくありませぬか」
葬式を疑う程の黒い服に、おかっぱに切り揃えられた髪の訪問者は扉を開けるなりそう告げた。「はあ」と気の抜けた声を出し、男は何か宗教の誘いだろうかと追っ払う言葉を考える。……
もう一度男が回らぬ口を開くより先に、訪問者が言葉を紡ぐ。
「不老不死になりたい、健康体で居たい、そんな願いを持つ方に、私は訪ねます。えぇ、無理強いはしやせンよ。唯之の機会は、またとないものでさァ」
これ以上なく魅力的であると共に、疑り深いものであった。永遠に其の生命を謳歌する者が居るとするならば、とっくに自分が聞いていたからだ。けれど「内密に進めている」と訪問者が云うもので、男はそういうものかと疑心を捨てた。招き入れた訪問者に、埃を被った器へ麦茶を注いで差し出し、床に座らせる。訪問者は自らを「時間貸」と名乗った。云うには、金さえ有れば、幾らでも寿命を延ばすとか。幸い、男には金があった。然し信じ難かった。「すみませんが」男が片手を挙げようとしたところで、時間貸は抱えていた鞄を漁り出した。
「何をしてらっしゃりますか」
「へェ、貴方が私を信ずる為に、一つ試して貰おうと思いやして」
そう云い取り出したのは、簡単な袋に入った一粒の錠剤。
「今此奴は私から渡しますから、お代は結構でさ……此奴を一つ飲めば、向う十年、貴方は其の身其の儘健康体で居られやす。どんな怪我をしたって、痛くも痒くもありやせん。所謂、不老不死ってやつでさァ。鉄道に撥ねられようが、其の腹引き裂かれようが、毒を飲もうが、ぴんぴんしてやすよ」
飲もうか飲むまいか、其れは後から決めるとして、男は一先ず其れを受け取った。「それでは、又た十年後」とだけ告げ、時間貸は男の部屋を後にした。
薬を前に、男は思案に暮れた。素性の知らぬ者から渡された物を易々と身体に入れて善いものか。ひょっとすると、之こそが毒ではないのか。こんなものでぽっくり逝ってしまうような最期にはしたくなかった。だが男はその内決心して、其の薬を飲むことにした。袋から出し口に放り込むと、少し減っていた麦茶を喉に流して飲み込む。……三十分。男が毒を疑うことは杞憂に終わった。即席麺の器が積まれた厨から包丁を持ち、指の先を少しばかり切ってみる。無痛であった。
男は苦しみ無く過ごした。好きなように飲み食いし、時には女の気を引こうと身体を張る様子を見せていた。十年が経った頃、再び時間貸が訪れ「気に入って頂けたようで」と深く頷いた。鞄から又た一粒、薬を取出して
「どうです、買ってはみやせンか」と。
値段を聞いてみた所、買えぬ程ではない。寧ろ其れを買っても遊んで暮らせるような安価なものである。最早迷う理由など男の頭には無かった。二つ返事で薬を買い、又た十年、好きに過したのだ。十年、又た十年、男は金の有る限り、薬を買い続ける。幾ら経っても見目の変わらぬ男を人々は不思議には思わなかった。男が孤独だったからである。
人も街も移り変わり、もう見る影も無くなった頃、男は気付いた。薬を買う金が、もう足りなくなってきたのだ。初めこそ安かったものゝ、繰り返し買う毎に「時間とはそういうものでさ」と値段が上がっていたのだ。金が足りなければ、無論薬は買えない。男は漸く、働きに出ようとした。だが、己の生きた時ですら真面に職を取れなかった男が、過ぎ行く時代の中で変化した其れに飛び込める訳も無く。電子機器の一つでさえ、使えなかった。そうして幾度目かも知らぬ薬を買う時、時間貸に訊ねた。「薬を買えなければどうなるのか」と。彼は笑って
「今までお貸しゝやした時間を、其の間に耐えた痛みと一緒に。返済して貰いやす」
男の頭には唯焦燥だけが巡った。どうにか赦されはしないかと縋った。然し、時間貸は唯首を振るばかり。「とにかく、十年ありやすから」と、薬だけを渡し、去って行った。其れから男は必死に働こうとしたが、全く以て何処も取り合おうとしなかった。家具を売り、家を売り。終には自分の内臓までも、売ることを決意した。麻酔を頼む金でさえも勿体なく感じ、其の身の儘に売った。其処で漸く、人々が男の不審に気付いた。腹を裂いても、これっぽっちも痛がる様子を見せなかったのだから。人々は男を異質だと騒ぎ立て、街の外へと追いやった。追われた男は売った金だけを手に、放浪。空腹、疲労、それらを感ずることは無かったが、代わりに空しさだけが心にあった。十年、経ったのだろう。何処かも判らぬ道を彷徨いていると、変わらぬ黒い服で、時間貸が現れる。「どうも、又た薬を持って参りやした」
云われる儘に、男は持っていた金を有るだけ渡した。
「ひい、ふう、みい……あー、足りやせンね」
と。聞くなり、何とか出来ないかと其の脚に縋り付いた。けれども時間貸は首を振った。
「では、返済のお時間です」
今も昔も、生命なるものには平等に死が与えられる。静動構わず与えられる。必ず訪れる最期、先の見えぬ最期だからこそ時に死は拒まれるものである。
男は酷く死を拒んだ。然して酷く楽をしたがった。無為に、孤独に、唯父母の遺産で寝て食べて過した。孤立することを厭わない男にとって、死ぬことだけが恐ろしかった。
飯を食い、昼寝の一つでもしようかと天井を仰ぐ。と、キンコン。と呼鈴が鳴った。長らく来客の無かった男は刹那心臓が跳ね上がるのを感じ、心当たりの無い知り合いを脳裏に浮かべながら玄関の戸を開ける。
「時間は欲しくありませぬか」
葬式を疑う程の黒い服に、おかっぱに切り揃えられた髪の訪問者は扉を開けるなりそう告げた。「はあ」と気の抜けた声を出し、男は何か宗教の誘いだろうかと追っ払う言葉を考える。……
もう一度男が回らぬ口を開くより先に、訪問者が言葉を紡ぐ。
「不老不死になりたい、健康体で居たい、そんな願いを持つ方に、私は訪ねます。えぇ、無理強いはしやせンよ。唯之の機会は、またとないものでさァ」
これ以上なく魅力的であると共に、疑り深いものであった。永遠に其の生命を謳歌する者が居るとするならば、とっくに自分が聞いていたからだ。けれど「内密に進めている」と訪問者が云うもので、男はそういうものかと疑心を捨てた。招き入れた訪問者に、埃を被った器へ麦茶を注いで差し出し、床に座らせる。訪問者は自らを「時間貸」と名乗った。云うには、金さえ有れば、幾らでも寿命を延ばすとか。幸い、男には金があった。然し信じ難かった。「すみませんが」男が片手を挙げようとしたところで、時間貸は抱えていた鞄を漁り出した。
「何をしてらっしゃりますか」
「へェ、貴方が私を信ずる為に、一つ試して貰おうと思いやして」
そう云い取り出したのは、簡単な袋に入った一粒の錠剤。
「今此奴は私から渡しますから、お代は結構でさ……此奴を一つ飲めば、向う十年、貴方は其の身其の儘健康体で居られやす。どんな怪我をしたって、痛くも痒くもありやせん。所謂、不老不死ってやつでさァ。鉄道に撥ねられようが、其の腹引き裂かれようが、毒を飲もうが、ぴんぴんしてやすよ」
飲もうか飲むまいか、其れは後から決めるとして、男は一先ず其れを受け取った。「それでは、又た十年後」とだけ告げ、時間貸は男の部屋を後にした。
薬を前に、男は思案に暮れた。素性の知らぬ者から渡された物を易々と身体に入れて善いものか。ひょっとすると、之こそが毒ではないのか。こんなものでぽっくり逝ってしまうような最期にはしたくなかった。だが男はその内決心して、其の薬を飲むことにした。袋から出し口に放り込むと、少し減っていた麦茶を喉に流して飲み込む。……三十分。男が毒を疑うことは杞憂に終わった。即席麺の器が積まれた厨から包丁を持ち、指の先を少しばかり切ってみる。無痛であった。
男は苦しみ無く過ごした。好きなように飲み食いし、時には女の気を引こうと身体を張る様子を見せていた。十年が経った頃、再び時間貸が訪れ「気に入って頂けたようで」と深く頷いた。鞄から又た一粒、薬を取出して
「どうです、買ってはみやせンか」と。
値段を聞いてみた所、買えぬ程ではない。寧ろ其れを買っても遊んで暮らせるような安価なものである。最早迷う理由など男の頭には無かった。二つ返事で薬を買い、又た十年、好きに過したのだ。十年、又た十年、男は金の有る限り、薬を買い続ける。幾ら経っても見目の変わらぬ男を人々は不思議には思わなかった。男が孤独だったからである。
人も街も移り変わり、もう見る影も無くなった頃、男は気付いた。薬を買う金が、もう足りなくなってきたのだ。初めこそ安かったものゝ、繰り返し買う毎に「時間とはそういうものでさ」と値段が上がっていたのだ。金が足りなければ、無論薬は買えない。男は漸く、働きに出ようとした。だが、己の生きた時ですら真面に職を取れなかった男が、過ぎ行く時代の中で変化した其れに飛び込める訳も無く。電子機器の一つでさえ、使えなかった。そうして幾度目かも知らぬ薬を買う時、時間貸に訊ねた。「薬を買えなければどうなるのか」と。彼は笑って
「今までお貸しゝやした時間を、其の間に耐えた痛みと一緒に。返済して貰いやす」
男の頭には唯焦燥だけが巡った。どうにか赦されはしないかと縋った。然し、時間貸は唯首を振るばかり。「とにかく、十年ありやすから」と、薬だけを渡し、去って行った。其れから男は必死に働こうとしたが、全く以て何処も取り合おうとしなかった。家具を売り、家を売り。終には自分の内臓までも、売ることを決意した。麻酔を頼む金でさえも勿体なく感じ、其の身の儘に売った。其処で漸く、人々が男の不審に気付いた。腹を裂いても、これっぽっちも痛がる様子を見せなかったのだから。人々は男を異質だと騒ぎ立て、街の外へと追いやった。追われた男は売った金だけを手に、放浪。空腹、疲労、それらを感ずることは無かったが、代わりに空しさだけが心にあった。十年、経ったのだろう。何処かも判らぬ道を彷徨いていると、変わらぬ黒い服で、時間貸が現れる。「どうも、又た薬を持って参りやした」
云われる儘に、男は持っていた金を有るだけ渡した。
「ひい、ふう、みい……あー、足りやせンね」
と。聞くなり、何とか出来ないかと其の脚に縋り付いた。けれども時間貸は首を振った。
「では、返済のお時間です」
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