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第1部
フェーズ2-2
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両親に結婚を許してもらえたお祝いに花を買った。以前に瀬谷さんのお見舞い前にも寄った病院近くの花屋だ。夏らしくひまわりをメインに三本選び、小振りなサマーブーケを作ってもらった。
マンションのエントランスに入る直前、背中に視線を感じた。振り向くが誰もいない。気のせいだったのか。
いつものように合鍵で部屋にあがる。涼はまだベッドで寝ていた。昨夜も帰りが遅かったか呼び出されたかで、疲れてるんだろう。起こさないように静かにしていよう。
グラスをひとつ拝借して、買ってきた花を生けた。ひまわりの黄色が鮮やかだ。リビングのテーブルの真ん中に飾ると、部屋が明るく華やかになった。
続いて朝食の準備を始めた。食材はくる途中で買ってきた。サラダを用意し、目玉焼きとベーコンを焼き、トースターに食パンをセットする。コーヒーは涼が淹れてくれるから、お湯を沸かしてカップの準備だけしておく。
キッチンカウンターの上に置かれた時計に目をやる。もうすぐ十一時だ。そろそろ起こしてみようか。寝室に入り、まだベッドで眠っている涼に近づくと、いつもはしない匂いが鼻を突いた。お酒だ。急患で呼ばれることがあるから滅多に飲まないと言っていたのに、珍しい。
起こしていいものか、顔を覗き込んで様子をうかがっていると涼が目を覚ました。
「ああ……彩か。おはよ」
なんですって? 「彩か」って、まるで他の誰かと勘違いしたみたい。部屋にいるのが私でほっとしたようにも見えた。まさか、昨夜誰かいた? このベッドで誰かと過ごしたなんてこと、ないよね。部屋を見まわす。いつもと違うのはお酒の匂いがすることくらいだ。キッチンもいつもと変わりはなかった。ちょっと、鎌をかけてみようか。
「口紅ついてるよ」
うとうとしていた涼が、はっとして起き上がった。そして手で拭ったの。頬ではなく唇を。私は、「ほっぺに口紅がついてる」の意味で、軽く冗談のつもりで言ったのに。胸から全身へ、波紋のようにショックが広がっていく感覚がする。
「ごめん、嘘。口紅なんてついてないよ」
謝ると、涼は今度は「しまった」という顔をして、前髪をくしゃくしゃにした。前に愛音が言っていた「浮気は覚悟したほうがいい」の言葉が頭をよぎる。信じられない。婚約したばかりなのに、婚約指輪も選びにいったのに、あんなキスもしたのに、ひどい。涙が滲んでくる。
耐えられなくなって逃げようとしたら、腕をぐいっと引っ張られて、ベッドの上の涼に抱き寄せられてしまった。
「ごめん、本当にごめん。一瞬だから。触れたか触れないかくらいの一瞬だから。もちろん俺からしたわけじゃない」
ん? キスしただけ? いや、「だけ」ということはない。十分に問題だ。キスしたんだ。私以外の誰かと。
「誰としたの」
当然の疑問を投げかける。少し間があいて涼は答えた。
「彩がきれいって言ってた、あの先生」
鷹宮先生だ。涼のことを呼び捨てにしていて、親しげだった。嫌な予感はしていた。一番嫌な相手だ。その人ではあってほしくなかった。やっぱり私はあの人に敵わないんだ。
愕然としてしまい、何も言えずにいると、涼が説明し始めた。
「少し前に澄先生に婚約したことを話した。祝ってやるからって昨夜、澄先生と麗子……鷹宮先生の三人で飲みにいった。澄先生は子どもが熱を出したからって途中で帰った。そのあと、鷹宮が酔いつぶれたから家まで送った。そこでほんの一瞬されたんだ」
この部屋に連れ込んだわけではないらしい。確かに形跡はない。
「涼もあの人のこと呼び捨てなんだ」
聞き逃してない。確かに今、呼び捨てにしてから言い直したよね。
「実は、医大のとき付き合ってた」
医大で一緒だっただけと言っていたのは嘘だったんだ。さらなるショックに目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていく。もう嫌だ。ここにいたくない。私は再度逃げようと試みた。涼がさらにきつく抱きしめて離してくれない。
「昔の話だ。そんなことをわざわざ言って、彩を不安にさせる必要はないと思った。とっくに終わってることだし、今はあいつに同僚以上の感情はない」
一緒に働いてて毎日顔を合わせてるのに、そんな風に割り切れるのか。
「今はもちろんお前だけだ。だから許して」
抱きしめる腕にいっそう強く力が込められた。ぎゅうって、ちょっと痛いくらい。なんでだろう、プロポーズのときよりも涼の想いを感じる。
「彩以外としても何も感じないよ。手と手が触れ合ったのと同じようなものだ」
涼が愛おしそうに私の髪を撫でる。少しだけ気持ちが落ち着いてきた。
「落ち着いた?」
頷くと、抱きしめる腕が緩んで顔を覗き込まれた。
「ごめんな、泣かせて」
涙が流れた跡を涼が指で拭う。
「キスしかしてない?」
「誓ってしてない」
夜遅くに部屋にあがって、キスされて、それだけで済んだの? 疑惑を抱く私を安心させるかのように、涼は優しく微笑みながら私の頭をポンポンした。
「朝飯、作ってくれたんだろ? とりあえず食おう」
朝食の匂いがキッチンから漂ってきていた。ひとまず一緒に朝食を取ることにした。ただでさえ遅い朝食がさらに遅くなってしまった。
朝食後、涼が片づけをしてくれている間、私はソファの上で膝を抱えていた。
だから鷹宮先生は涼のことを呼び捨てだったんだ。呼び慣れてるように感じたのも、気のせいではなかった。そして涼も普段は鷹宮先生を下の名前で呼び捨てにしている。私を呼ぶのと同じように、彼女のことも下の名前で呼びかけてるんだ。涼はもう終わったことだと言っていたけど、キスするということは、鷹宮先生……麗子さんはまだ、涼のことを好きってことなんじゃないの。
目の前にコーヒーの入ったカップが差し出され、涼が隣に座った。
「花、買ってきたのか」
テーブルに置いた花に気がついてくれた。
「結婚を許してもらえたお祝い」
もうお祝いする気分ではなくなってしまった。花たちもなんだか私を憐れんでいるように見える。
「部屋に花があるのはいいな。また飾って。たまにでいいから」
気に入ったらしい。花は気分を和ませてくれるものね。こんなときでも。
「あの人は涼のことが好きなんだね」
「そういうんじゃない。学会のときにも今相手がいないならまた付き合わないかって言われたけど、軽い感じだったし。もちろん、その場で断ったけど」
驚愕の新情報だった。学会というと五月に二泊三日で石川に行ったときだ。麗子さんも一緒だったとは聞いていた。まさかそんな危なげな会話が交わされていたとは、夢にも思わなかった。
「昨夜だって遊びだろ」
「大人って汚い」
呟き、私はさらにいじけた。
「私がいなかったら、あの人とまた付き合ってた?」
訊ねると涼が私の肩を抱き寄せた。
「彩がいない人生なんて考えられないよ」
涼がキスしようとする。麗子さんの顔が浮かんで、私はとっさに彼の唇を手で抑えた。あの人とした唇で触れられるのは嫌だ。
「ですよね」
わかってるならしないでよ。
マンションのエントランスに入る直前、背中に視線を感じた。振り向くが誰もいない。気のせいだったのか。
いつものように合鍵で部屋にあがる。涼はまだベッドで寝ていた。昨夜も帰りが遅かったか呼び出されたかで、疲れてるんだろう。起こさないように静かにしていよう。
グラスをひとつ拝借して、買ってきた花を生けた。ひまわりの黄色が鮮やかだ。リビングのテーブルの真ん中に飾ると、部屋が明るく華やかになった。
続いて朝食の準備を始めた。食材はくる途中で買ってきた。サラダを用意し、目玉焼きとベーコンを焼き、トースターに食パンをセットする。コーヒーは涼が淹れてくれるから、お湯を沸かしてカップの準備だけしておく。
キッチンカウンターの上に置かれた時計に目をやる。もうすぐ十一時だ。そろそろ起こしてみようか。寝室に入り、まだベッドで眠っている涼に近づくと、いつもはしない匂いが鼻を突いた。お酒だ。急患で呼ばれることがあるから滅多に飲まないと言っていたのに、珍しい。
起こしていいものか、顔を覗き込んで様子をうかがっていると涼が目を覚ました。
「ああ……彩か。おはよ」
なんですって? 「彩か」って、まるで他の誰かと勘違いしたみたい。部屋にいるのが私でほっとしたようにも見えた。まさか、昨夜誰かいた? このベッドで誰かと過ごしたなんてこと、ないよね。部屋を見まわす。いつもと違うのはお酒の匂いがすることくらいだ。キッチンもいつもと変わりはなかった。ちょっと、鎌をかけてみようか。
「口紅ついてるよ」
うとうとしていた涼が、はっとして起き上がった。そして手で拭ったの。頬ではなく唇を。私は、「ほっぺに口紅がついてる」の意味で、軽く冗談のつもりで言ったのに。胸から全身へ、波紋のようにショックが広がっていく感覚がする。
「ごめん、嘘。口紅なんてついてないよ」
謝ると、涼は今度は「しまった」という顔をして、前髪をくしゃくしゃにした。前に愛音が言っていた「浮気は覚悟したほうがいい」の言葉が頭をよぎる。信じられない。婚約したばかりなのに、婚約指輪も選びにいったのに、あんなキスもしたのに、ひどい。涙が滲んでくる。
耐えられなくなって逃げようとしたら、腕をぐいっと引っ張られて、ベッドの上の涼に抱き寄せられてしまった。
「ごめん、本当にごめん。一瞬だから。触れたか触れないかくらいの一瞬だから。もちろん俺からしたわけじゃない」
ん? キスしただけ? いや、「だけ」ということはない。十分に問題だ。キスしたんだ。私以外の誰かと。
「誰としたの」
当然の疑問を投げかける。少し間があいて涼は答えた。
「彩がきれいって言ってた、あの先生」
鷹宮先生だ。涼のことを呼び捨てにしていて、親しげだった。嫌な予感はしていた。一番嫌な相手だ。その人ではあってほしくなかった。やっぱり私はあの人に敵わないんだ。
愕然としてしまい、何も言えずにいると、涼が説明し始めた。
「少し前に澄先生に婚約したことを話した。祝ってやるからって昨夜、澄先生と麗子……鷹宮先生の三人で飲みにいった。澄先生は子どもが熱を出したからって途中で帰った。そのあと、鷹宮が酔いつぶれたから家まで送った。そこでほんの一瞬されたんだ」
この部屋に連れ込んだわけではないらしい。確かに形跡はない。
「涼もあの人のこと呼び捨てなんだ」
聞き逃してない。確かに今、呼び捨てにしてから言い直したよね。
「実は、医大のとき付き合ってた」
医大で一緒だっただけと言っていたのは嘘だったんだ。さらなるショックに目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていく。もう嫌だ。ここにいたくない。私は再度逃げようと試みた。涼がさらにきつく抱きしめて離してくれない。
「昔の話だ。そんなことをわざわざ言って、彩を不安にさせる必要はないと思った。とっくに終わってることだし、今はあいつに同僚以上の感情はない」
一緒に働いてて毎日顔を合わせてるのに、そんな風に割り切れるのか。
「今はもちろんお前だけだ。だから許して」
抱きしめる腕にいっそう強く力が込められた。ぎゅうって、ちょっと痛いくらい。なんでだろう、プロポーズのときよりも涼の想いを感じる。
「彩以外としても何も感じないよ。手と手が触れ合ったのと同じようなものだ」
涼が愛おしそうに私の髪を撫でる。少しだけ気持ちが落ち着いてきた。
「落ち着いた?」
頷くと、抱きしめる腕が緩んで顔を覗き込まれた。
「ごめんな、泣かせて」
涙が流れた跡を涼が指で拭う。
「キスしかしてない?」
「誓ってしてない」
夜遅くに部屋にあがって、キスされて、それだけで済んだの? 疑惑を抱く私を安心させるかのように、涼は優しく微笑みながら私の頭をポンポンした。
「朝飯、作ってくれたんだろ? とりあえず食おう」
朝食の匂いがキッチンから漂ってきていた。ひとまず一緒に朝食を取ることにした。ただでさえ遅い朝食がさらに遅くなってしまった。
朝食後、涼が片づけをしてくれている間、私はソファの上で膝を抱えていた。
だから鷹宮先生は涼のことを呼び捨てだったんだ。呼び慣れてるように感じたのも、気のせいではなかった。そして涼も普段は鷹宮先生を下の名前で呼び捨てにしている。私を呼ぶのと同じように、彼女のことも下の名前で呼びかけてるんだ。涼はもう終わったことだと言っていたけど、キスするということは、鷹宮先生……麗子さんはまだ、涼のことを好きってことなんじゃないの。
目の前にコーヒーの入ったカップが差し出され、涼が隣に座った。
「花、買ってきたのか」
テーブルに置いた花に気がついてくれた。
「結婚を許してもらえたお祝い」
もうお祝いする気分ではなくなってしまった。花たちもなんだか私を憐れんでいるように見える。
「部屋に花があるのはいいな。また飾って。たまにでいいから」
気に入ったらしい。花は気分を和ませてくれるものね。こんなときでも。
「あの人は涼のことが好きなんだね」
「そういうんじゃない。学会のときにも今相手がいないならまた付き合わないかって言われたけど、軽い感じだったし。もちろん、その場で断ったけど」
驚愕の新情報だった。学会というと五月に二泊三日で石川に行ったときだ。麗子さんも一緒だったとは聞いていた。まさかそんな危なげな会話が交わされていたとは、夢にも思わなかった。
「昨夜だって遊びだろ」
「大人って汚い」
呟き、私はさらにいじけた。
「私がいなかったら、あの人とまた付き合ってた?」
訊ねると涼が私の肩を抱き寄せた。
「彩がいない人生なんて考えられないよ」
涼がキスしようとする。麗子さんの顔が浮かんで、私はとっさに彼の唇を手で抑えた。あの人とした唇で触れられるのは嫌だ。
「ですよね」
わかってるならしないでよ。
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