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第1部

フェーズ2-1

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 交通事故で入院中の瀬谷さんの退院が近づいていた。経過は順調らしい。愛音に「未来の夫に会えるかもしれないから一緒に行こう」と強く誘われて、最後だしお見舞いにいくことにした。もし正木さんに会ってしまったら気まずいのだけど、今日は大学の講義が遅くまであるはずだから大丈夫だろう。
「愛音から聞いたよ。婚約おめでとう」
 病室で瀬谷さんから祝福された。
「ありがとうございます」
 同部屋の他の患者さんに聞こえないように、瀬谷さんが声のボリュームを落とした。
「相手、俺の担当の医者だって? すげー驚いた。回診のときに思わずマジマジと見ちゃったもん」
 私は照れくさくなり、うつむき加減に笑った。
「ヒロくんから先生に何か言った?」
「いや、なんか変な空気になりそうだからやめといた。俺にとってはただの主治医だし、向こうも『なんで知ってんの?』ってなるだろうから」
「私の彼ってことで、彩も一緒にお見舞いにきてることは先生は知ってるみたいだから、平気だと思うよ」
「あ、そうなの? でも職場だし、スタッフさんたちみんな知ってるとも限らないしさ、俺は心の中で静かに祝福しとくよ」
「そうだね。私も黙っとこ」
 二人の気遣いがありがたい。そういえば、涼は病院の人たちには婚約のことを話すのだろうか。親しい人になら報告するかもしれないけれど、例えば病棟で連携してる看護師さんたちにはわざわざ言わない気がする。まだ婚約したばかりで、入籍するのはだいぶ先なんだし。
「これで正木もあきらめたろ。どうせすぐ次にいくから、気にしなくても大丈夫だと思うよ」
「はい」
 正木さんは元気にしてるだろうか。変わりなく過ごしていてもらいたい。最後に会ってからまだ数日しか経っていないのに随分と前に感じる。
 長居するのは悪い。二十分ほど談笑し、前と同じく愛音を残して私は一人で病室を出た。瀬谷さんは退院後もリハビリがしばらく続くらしい。大学にはすぐに戻れるのかな。早く普通の生活に戻れるといいな。
 エレベーターに乗り、一階のボタンを押す。今日は涼には会えなかった。会えることを期待してきたわけではないからかまわない。病院内のどこかにいるのは確かだ。近くにいられるだけでいい。
 と思っていたのに、エレベーターが一階に到着してドアが開くと、目の前にいた。
「あ」
「きてたのか」
 なんで会えちゃうの? とたんに気分が舞い上がる。
 涼は腕時計を覗いてから私に言った。
「今から休憩するけど、付き合わない?」
「付き合います」
 二つ返事で了承して、再びエレベーターに乗り込んだ。あーあ、こういうところなんだろうな。また目がハートになってるって言われそう。
 途中の自動販売機で紙パック飲料を買ってもらって、屋上にやってきた。思い出の屋上、初めて涼とキスをした場所だ。あの日以来、初めて訪れる。
「あの大学生、明日退院だったな」
 涼がベンチに座る。私も隣に座った。
「うん。でもしばらくリハビリが続くんでしょ? 大変そうだね」
「若いから回復は早いよ」
 吹き抜ける風が涼の髪を揺らした。
 あれから三カ月になる。あのときはまさかこの人と付き合えるとは思ってなかった。それが今では婚約なんて信じられないな。
「何にやにやしてんの」
 涼の言葉ではっと我に返る。しまった、顔に出ていた。
「思い出してたんだろ」
 意地悪そうに涼が笑う。
「ちょ、ちょっとね」
「再現しようか」
 へ? 再現って、つまりキス?
「ダメだよ。誰かが見てるかも」
「誰もいないよ」
 確かに他には誰もいなくて二人きりだけど、大丈夫かな。考えているうちに唇を奪われた。
 待って。ただの再現ではない。あのときのキスとは違う。舌が入ってくる。ゆっくりとねっとりと、私を味わい尽くすかのような舌の動きに酔いしれる。どうにかなってしまいそうで涼にしがみついた。ここが病院の屋上だとか、誰かくるかもしれないとか、そんなことはどうでもよくなってくる。
 長々と舌を絡ませたあと、涼が唇を離した。
「あのときはこんなキスをするようになるとは思わなかったろ」
 それはそうだ。あの日のキスは私にとっては奇跡だった。もう二度とないと思っていた。それが、今ではこんな……。
「目がとろんとしてる。そんなによかった?」
「もう……!」
 恥ずかしすぎて私は涼を突っぱねた。
 唐突に屋上の出入口のドアが開く音がして、私は心臓が飛び出しそうなほど驚いた。同時に涼に触れていた手を慌てて放した。
「神河先生、こちらにいらしたんですか」
 ドアの前に女性が立っている。年齢は四十歳前後だろうか。白いシャツに黒のパンツ、肩には大きな黒のレザートートバッグを掛けている。服装を見る限り、この病院の看護師でも事務員でもなさそう。
「ああ、こないだの、テレビの」
 私はまだ心臓がバクバクしているというのに、涼はまったく動じていない。平然とした顔で立ち上がり、白衣のポケットに手を突っ込んだ。
「先生、先日お話した件、気は変わられました?」
 にっこりと笑みを浮かべ、ローヒールの踵を鳴らしながらゆっくりと近づいてきた。テレビということは、前に話してた番組のプロデューサーだろうか。涼に医療バラエティー番組の出演依頼をしたという。
「いいえ。残念ですが」
「そんなことおっしゃらずに、ぜひ出てくださいよ。先生ならすぐに人気者になること間違いなしですよ。本当、芸能人なんて目じゃないくらい整ってますよねえ」
 ちらりと私を見る。目が合ったのでお互いに軽く会釈をした。
「それはどうも。すみませんが、そろそろ戻りますので」
 涼が目で合図をする。私は慌てて立ち上がって涼を追った。
 大丈夫だったかな。あのプロデューサー、涼と一緒にいた私のことをどう思っただろう。キスシーンは見られてはいないはずだ。彼女がドアを開けて屋上に入ってきたのは、私が涼から離れたあとだった。
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