ドクターダーリン【完結】

桃華れい

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第1部

(回想)フェーズ0-2

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 他人事のように感じていた自分の病気、それが入院したとたんに急に実感し始めた。手術の日が近づくほどに怖くてたまらなくなった。夜は熟睡できず、何度も目が覚めた。
 眠れなくて深夜にトイレに行った。病室に戻る途中、廊下の突き当たりの大きな窓から月が見えた。私の病室の窓からは月は見えない。私はひなたぼっこ用に置かれている、ラタン調のガーデンチェアに腰を下ろした。
 半月よりも少し膨らんでいる。きっとこの月が完全に丸くなる頃が私の手術日だ。それならずっと、この中途半端な大きさのままでいいのに。でも、それだと私は一生病院から出られなくなってしまうか。それはそれで嫌だな。
 ぼんやりと見上げていたら、近くの病室から神河先生が出てきた。こんな時間にいるということは、今夜は当直なのかな。
「どうした?」
 私に気づいた先生が、不思議そうな顔をしてこちらに寄ってきた。
「手術のことを考えてしまって」
「眠れないのか。まさか、入院してからずっと?」
 戸惑いながらも私は頷いた。手術が怖くて眠れないなんて、子どもっぽくて呆れられるかもしれない。
「先生、私、手術したら元気になるんですよね」
「もちろん。健康と変わらないよ。一年くらいは外来にきてもらって定期的に検査する必要があるけど」
 それはわかってる。目が覚めたら手術も入院もすべて終わって家にいて、あとは外来だけになってたらどんなにいいだろう。
 椅子に座ってる私の横に先生がかがんだ。先生は背がとても高い。百八十センチ以上はあるはず。患者と話すときはいつもこうして目線の高さを合わせてくれる。
「何も心配しなくていい。先生が必ず君を治してあげるから」
 優しい瞳、安心する。病気のことは不運でも、いい先生に巡り会えたことは幸運だ。
「ありがとうございます」
 手術は怖いけど、手術を執刀してくれるこの先生のことは、不思議と怖くない。
「手術の説明をしたときは冷静に受け止めてるように見えたのにな。無理してた?」
「あのときはまだ実感がなくて、自分のことのように思えなかったから。でも、入院して手術の日が近づいてきたら、だんだん怖くなってきて……」
「無理もない。まだ十七だもんな。でも大丈夫だ。君が麻酔で眠っている間に全部終わるから。何も怖いことはないよ」
 眠っている間に私のお腹に穴を開け、器具を突っ込んで処置をするのね。万が一、その最中に麻酔が切れてしまったらと、考えるだけで身の毛がよだつ。そもそも、私のお腹が切られるなんて信じられない。医療ドラマでそんな手術シーンを見たことがある。ドラマでは実際に切るわけではないとわかっていても、つい目をそらしてしまうのだ。それを平然とやってのける医者は、やっぱりすごい。
「先生は学生の頃、怖くなかったですか? 人の血とか内臓とか」
「覚えることとやることが多すぎて、それどころじゃなかったな。あと、後ろで見てるえらい先生の圧が強くて」
 私は小さく吹き出した。やっぱり医者になるのって大変だよね。
「そろそろ寝よう。体に障る」
「はい」
 この病院よりも先に診察を受けた町のクリニックがあった。そこでの担当の先生は、パソコンのモニターばかりを眺めていて患者の私にはほとんど顔を向けなかった。臨海総合病院に紹介されて神河先生の診察を初めて受けたとき、この人は患者の目を見てしっかり説明してくれた。信頼できる医者だと感じた。幼い頃から怖いイメージのつきまとう病院だけど、この先生のまわりだけはなんだか空気が違うように感じられた。優しくて落ち着く空気を、先生はその白衣と一緒にまとっている。

 いよいよ手術の前日になった。面会時間のギリギリまで両親と妹がいてくれ、励ましてくれていた。
 面会時間が過ぎた頃、先生が回診にきてくれた。
「気分はどう?」
「前よりは……」
 励ましてもらったおかげで、私の気持ちは以前より落ち着いていた。それでも今日はさすがに、朝から心がざわついている。今夜は眠れるだろうか。寝不足で手術に臨むのは、きっとよくない。しっかり眠らなきゃ。
 先生が丸椅子に腰を下ろして続ける。
「手術のことは俺に任せて、彩は退院したあとのことだけ考えてればいい」
 今までは名字で呼ばれていた。それが突然名前で呼ばれてドキッとした。でもそれは彼が私を子ども扱いしている証のように思える。だってもし私が成人した女性だったら、絶対に呼び捨てにはしないでしょう?
「退院したあと?」
「好きなことなんでもできる。友だちと遊びにいったり、彼氏とデートすることも」
 治ったあとのことなんて考えてなかった。目の前のことでいっぱいで、考える余裕がなかった。でも手術が終わって退院したら、もう先生に毎日会えなくなるんだ。今はそれが少し寂しい。
「今はいるんだっけ?」
「いません。お付き合いしたことも、ないので……」
 お見舞いにきてくれるのは家族と女友だちだけだ。彼氏なんていたこともできる予定もない。さぞモテるであろうこの人にとっては考えられないだろう。笑われそう。
「彩ならすぐできるよ」
 ところが先生は笑うでもなく憐れむでもなく、またあの優しい瞳になって私の手を握った。
「彩が好きな男と結ばれて、今後の長い人生を幸せに過ごせることを願ってる」
 そのひと言は、明日がいよいよ怖くてたまらない手術の日ということを、私の頭からすっかり忘れさせるほどの威力があった。体にメスを入れられるのは明日なのに、もう痛い。心が痛い。
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