眠れずの騎士団長と夢結びのセイレーン

散りぬるを

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密室の秘め事

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 治療の一環という建前から始まった食事会は、二ヶ月経った今でも続いていた。
 勘違いしない、と心に決めていたオフィーリアも流石にハイウェルの目を意識せずにはいられなくなり、新しいドレスを購入し、薄化粧をするようになっていた。
 一方で、ハイウェルの態度は、出会った頃と比べて随分と軟化した。面白かった本の話や、遠征地で見た美しい景色の話、あるいは最近の社交界の話などを聞かせてくれるようになった。彼のプライベートな思考を覗くことを許された。そんな気がした。

「最近、すこしだけ寝つきが良くなった気がする」
「本当ですか!?」

 ハイウェルは深く頷いた。

「君の言う通り、私には安らぎが足りなかったようだ」
「このまま焦らず、ゆっくりと眠ることに慣れていきましょう。最後まで私がお支え致します」

 言ってから、やや思い上がった言葉だっただろうかと我に返る。
 しかし、ハイウェルは柔らかく目を細めて笑みを浮かべるだけだった。

「君は私の狙いを見抜いていただろう?」
「え?」

 唐突だったから、この話の先が読めなかった。

「私がいつ「歌え」と命じるのか、君はずっと警戒していた。だが、もうその心配はしなくていい。私は君に歌を求めたりしない」

 オフィーリアは目を丸くして、瞳を潤ませた。

「私が求めているのは、君と過ごす時間だ」

 瞬きひとつすれば、たちまち涙は落ちてしまう。
 横を向いてうつむいてさりげなく涙を拭い、ふふと笑って見せた。

「ハイウェル様はお酒が入ると、ときどき変なことをおっしゃるので困ります」
「変なこと?」
「だって変ですよ。私はなにもしていないのに……あなたにそんなふうに思ってもらえるような人間じゃ」
「君は君のままでいい。君がいるだけでいいと思う人間だっている」
「そんな……私はそんな……」

 誰かにそんなふうに言ってもらえる日が来るとは、思ってもみなかった。
 返すべき正しい言葉が見つからない。
 熱くなる頬を隠すために、ホットワインに手を伸ばす。いまだアルコールに慣れることはなく、一杯を空にするだけでやっとだった。おかげで顔も身体もほてって、思考もふわふわする。

 ハイウェルに気を遣われながら帰りの馬車に乗り込み、促されるままに彼の肩にもたれた。
 大変な不敬をはたらいていると、頭の片隅では自覚しているが「どうにでもなれ」と思っている自分もいる。
 ずっと触れたかった。ハイウェルを独り占めしてしまいたいと思うほどに、秘めた恋心は燃え上がっていた。

「君が酔うのは珍しいな」
「ごめんなさい」
「気にしなくていい。それに、君にはもう謝ってほしくない」
「では、どう言えば」
「楽しかったと言ってくれたらそれでいい」
「……楽しかったです。ハイウェル様と過ごす時間は、私にとっても心地いいです」
「オフィーリア」

 声に熱がこもったのを感じた。
 ハイウェルの手が、オフィーリアの艶やかな手の甲を包みこむ。
 ランタンの光があるだけの薄暗い馬車のなか、ふたりはどちらともなく見つめ合った。今なら誰の目もない。秘密を共有するには、ちょうどいい空間だった。

 オフィーリアはハイウェルの指を握り返し、目をゆっくりと閉じた。
 節立つ指の背が頬を撫でてくるのをうっとりとした気分で受け入れる。うなじに回った手のひらに支えられ、唇をそっと塞がれた。求め合うように唇を吸って、頭の角度を変えて何度も重ねる。ワインのせいか、それとも気持ちが昂っているせいか。絡めた舌が熱くてたまらない。キスを止めて至近で見つめ合い、背中に手を回して引き寄せ、また唇を重ねる。御者が声をかけるまで、ふたりは夢中になって口づけをしていた。

「また明日会えるのに、君と離れたくないと思ってしまうな」
「そんなふうに思ってもらえるなんて、夢のようです」

 ハイウェルはオフィーリアの髪を耳にかけ、そのまま耳の付け根にキスをした。

「朝が来ても、どうかこの口づけを忘れないでくれ」

 低い囁きにオフィーリアは甘くため息をつき「はい」とか細く返事をした。
 こんな日がずっと続けばいいと願ってしまう一方で、本当はハイウェルの顔色が良くなっていないことに気づいていた。

 彼は嘘をついている。

 ランス曰く、ぼんやりとする時間が増えてきたと言う。やるべきことを忘れたり、執務室横の仮眠室で眠る回数も増えてきたらしい。だが、それも短時間のことで、眠る前よりやつれた顔で起きてくると言っていた。

(歌うべきなんだわ。でも、私の歌を聴いたら後悔するかもしれない。彼に嫌われたくない……)

 オフィーリアはいつもより飲みすぎたせいか寝坊をしてしまい、歌う時間を逃した。ついてないなと気を落としたあとに待っていたのは、ロレンスから届けられた伝言だった。

「ランス様から伝言。ハイウェル様の体調が良くないから、今日は来なくていいって」
「そんな……! ハイウェル様は大丈夫なんですか?」
「さあ。ただ、ランス様はピリついていたけど」

 オフィーリアは組んだ手をギュッと握り込み、沈痛な面持ちでうつむいた。

「俺が言うのも変だけど」

 ロレンスは相変わらず気難しい顔でオフィーリアに語りかけた。

「歌ってほしいって言う奴には聴かせてもいいんじゃないか」

 どこまで、なにを知っているのかはわからないが、彼は全てを察した様子でそう言った。
 オフィーリアは「だけど」言い淀んだ。

「俺はアンタを恨んでいないけど、今さら謝ったりもしない。時が巻き戻っても、またきっとアンタを傷つけることを言うと思う。でも、俺がアンタの歌を嫌ったことと、アンタの歌を望んだ人たちがいたことは別の話だろ」

 オフィーリアは唇を噛み締めた。
 もうずいぶん許されていたんだとわかって、たまらなくなった。

「アンタの歌を望んだ奴は、アンタに歌ってもらえて嬉しかったと思うよ」
「そうでしょうか」

 顔を覆って、つぅと涙が流れるままに任せて言った。

「アンタの優しさに救われた奴だっていたと思うよ。じゃなかったら、『ミーフィズのセイレーン』なんて噂が生まれるはずがない」
「でも、あれは、間違っていたんです」
「正しくもあっただろう」
「私、ずっと、後悔していたんです。歌わなければよかったって……。私は、ずっと自分が許せなかった……!」

 オフィーリアは嗚咽を漏らした。
 誰にも打ち明けてこなかった長年の苦しみを口にしたことで、感情とともに涙が溢れ出す。
 ロレンスは伸ばしかけた手を引っ込めて、ため息を落とすように言った。

「聴きたくなかったけど、でも……アンタの歌声は好きだったよ」

 ロレンスと別れて宿舎に戻ったオフィーリアは、痛む頭を枕に沈めて目を閉じた。ハイウェルのことが気がかりで歌う気にもなれない。今夜はきっと悪夢を見ることだろう。そしてそれは、本当に起きた。

 夢のなか、オフィーリアは夕焼けに染まる執務室に立っていた。
 ハイウェルの机には故人を悼む白い花束が置かれていた。

「お前のせいだ」

 ランスの声に振り返ると、怒った彼はオフィーリアの胸ぐらを掴んで机に押しつけるように乗り上げてきた。

「ハイウェル様が死んだのはお前のせいだ!」
「ランス、さ、ま……」
「なぜ歌わなかった! あの人の顔色がどんどん悪くなっていくのを見ていながら、なぜ傍観していた!」
「ごめ……なさ……」
「死んだ者は帰ってこない! それがわかっていながらなぜ歌わなかった?」

 ギリギリと力の限り襟を絞るように掴まれて、息ができなくなる。
 オフィーリアは力一杯ランスの腹を蹴りつけて、隙ができたところを魔法の力でランスの身体を突き飛ばした。

「勝手なこと言わないでよ!」

 オフィーリアは自分でも信じられないくらいの声量で叫んでいた。

「騎士団長が眠り続けたら、誰が騎士団を回していくのよ! あなたにできるの!? 責任持てるの!? どうせなにもできなかったら、あの人を眠らせた私のせいにするんでしょう? もううんざりよ、私のせいにしないで!」

 自分の歌で救われるならいくらでも歌おう。
 かつてそう思って戦地で歌ったけれど、それはただの自己満足だと気づいた。気づいたのに、望まれてあとに引けなくなっていた。本当は途中から歌いたくなくなっていたのだ。
 蔑みと拒絶の視線に貫かれながら、それでも歌い続けるしかなかった。遠く離れた地にいる家族に会いたいと泣く人々を前に、オフィーリアは歌うことで彼らの涙から逃げたかったのだ。

「歌で救われるなんて幻想だわ! 歌がなくたって人は眠れるのよ!」
「だが、ハイウェル様は死んだ。お前が歌っていれば避けられたかもしれないのに」
「違うわ! もっとやれることはあった!」
「なにがあった!? お前はいったいなにを成し得た!? あの人に期待を持たせただけだろう!!」

 ランスに突きつけられた言葉の刃はどれもが正しかった。正しかったから、鋭すぎた。
 オフィーリアは執務机に縋るように伏せって泣いた。
 歌ったら後悔するという未来が見える。でも、歌わなくても毎日「これでいいのかな」と不安になっていた。本当はハイウェルのために歌うべきだとわかっていた。だが、自分の心を守るためにずっと避けてきた。

 ひっくとしゃくりあげたと同時に、悪夢から目覚める。
 膝を抱え、絶望した。気づいてしまった。

(あの人を愛しているなんて嘘だわ。私は自分が可愛いばっかりで、本当は誰のことも愛していなかったんだ。ハイウェル様、ごめんなさい……)

 どうかハイウェルが死にませんようにと天に祈り、夜明けと共にハイウェルの屋敷へと歩き出した。会えなくてもいい。生きていることを確認できればそれでいい。
 オフィーリアはこぼれる涙を何度も拭って、本当の自分を取り戻しながら歩き続けた。
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