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トラウマ
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――五日後のこと。
いつもより早く乱交パーティが終わった。清掃が終わっても、予約したタクシーが来るには三十分もあり、羽山邸の薄暗い玄関でスマホをいじりながら時間を潰していた。オートロックの玄関なので、施錠の心配は要らない。
「立木さん、まだお帰りになっていないんですか」
後ろから声をかけられて、びっくりして振り返る。
足音も気配も無かったんだが。
「お、乙津さん。お疲れ様です。あー、予約してもらっているタクシーを待ってるんです。三十分くらいなら、時間変更しなくても良いかなって」
「そうでしたか。私の車で良ければ、ご自宅まで送りますよ」
「え?」
「ああ。不信感があれば、断って頂いて構いません」
ない。即答できる。
だって、あの乱交パーティを前に興奮する様子もなく、淡々と掃除を手伝ってくれるのだ。
乱交パーティの新顔が私に絡んできた時には、すかさず助けに来てくれた。
仲間意識くらい芽生えてしまう。
「ない、ですけど。甘えちゃって良いんですか?」
乙津さんは柔らかく笑んで、頷いた。
いつも見ている鉄仮面が取れ、紳士の笑顔が現れる。不覚にもちょっと胸がときめいた。
「ありがとうございます」
「それでは、行きましょうか」
タクシー会社にキャンセルの電話を入れ、乙津さんの車に乗った。
ドイツの会社が出している有名高級車だ。車内は合皮の独特な香りと、微かにシトラス系の香水の匂いがした。夜とはいえ真夏なので、生ぬるい空気が溜まっていた。
乙津さんはエンジンをかけ、換気のために窓を開けた。ジリジリ、リンリンと虫の鳴き声が聞こえてくる。クーラーがゴォっと音を立てた。
「ナビに住所を打ち込んでもらえますか?」
「あ、はい。……よし、と。あの、送っていただく手前、大変言いづらいのですが」
「なんでしょう」
「コンビニに寄ってもらうことって出来ますか? アイスコーヒー飲みたくて」
「それくらいお安い御用ですよ」
「ありがとうございます。改めて、よろしくお願いします」
乙津さんは車内が冷えてくると、窓を閉めて車を発進させた。
羽山邸の門を抜けて左折をし、緩やかな坂道を下っていく。深夜というだけあって車通りはほとんどない。ウィンカーがやけに響いて聞こえるほど、車内は静かなものだった。
「実は」と口火を切ったのは、乙津さんだった。
「立木さんとゆっくり話してみたかったんです。不躾な質問ですが、なぜこのような仕事を?」
ど直球。
聞かずにはいられないほど、気になっていたのか。
「お金が必要なんです。できるだけ早く」
「……そうでしたか。本当に失礼な質問でしたね。すみません」
妙な間の後にそう言われて慌てた。
変な誤解を生みそうだ。
おそらく、私の見た目が悪いせいだ。毎回スッピンで目元のクマを隠していないし、明るい茶髪を適当にくくって、安いジャージを着ているせいで金欠ギャルにしか見えないのだろう。
これはただ単に自衛と、やる気のなさと、面倒くさがりな性格によるもので、私個人は貧乏人ではない。
「大学受験を控えている妹がいるんです」
「ほう」
「でも、父が去年、病を患いまして。治療費が思ったよりかかってしまったらしくて、大学に通わせてあげられないかもって聞いて……。私だけが大学に通わせてもらえて、妹は無理っていうのは、あまりに可哀想で、せめて入学資金だけでも用意してあげたいんです。私、フリーランスで翻訳の仕事しているんですけど、今の収入だけじゃ足りなくて。早く貯めて、大学に通えるって思わせてあげたいんです。暗い気持ちで、残りの高校生活を終えて欲しくないなって」
「家族想いなんですね」
「……妹に嫌われたくないだけです。お姉ちゃんばっかりズルいって昔から言われ続けてきたから」
「それでも、行動に移せるのは素晴らしいですよ。妹さんは一生、あなたに頭が上がらないでしょうね」
「どうだか。私が稼いだって言うつもりはないし」
「断言できますよ。私がそうでしたから」
赤信号で止まると、乙津さんは懐かしそうに語り始めた。
「私の家は代々、執事の仕事をしてきたんですけど、私はそれが嫌で。親に反抗し続けて、企業に就職する道を選んだ時、兄だけはずっと私の味方をしてくれたんです。だから、兄が困った時は全力で助けようと誓い、今に至るわけです。じゃなかったら、あんな下品な空間に居ません」
「それに関しては、同意見です」
私たちは苦笑いを浮かべて顔を見合わせた。
乙津さんの左の薬指には指輪がないから、独身かもしれない。訊けば、外資系の製薬会社の営業マンだという。こんなに真面目で、優しい人なのだから恋人くらいは居るだろう。
「彼女さんに、このことを話しているんですか? 理解してもらえました?」
「恋人はいません。かれこれ、別れて一年程になりますかね。ずっと独り身です。立木さんは?」
「いませんよ。つまらない女だってフラれてばっかりです。まぁ、否定しませんけど」
「つまらないとは?」
信号が青になり、再び走り始める。
私は言うべきか、言わざるべきか悩んで、結局打ち明けてしまった。乱交パーティを一緒に何度も見た仲だ。恥ずかしがることもあるまい。
「私、セックスしてても感じないんです。感じたことないから、感じている演技も下手くそで……知らないうちに相手のプライドを傷つけちゃって。恋人は欲しいなとは思うんですけど、トラウマというか、引け目を感じてしまって」
乙津さんが無言で相槌を打ってくれるのを視界の端に捉える。耳を傾けてくれている気配に、つい無駄なことまで話してしまう。
「キスから先にいくのが怖いんです。だから、良い雰囲気になっても、付き合う前に終わるんですよねー。ま、不感症のおかげで、他人のセックス見てても平常心でいられるんですけどね! ははっ」
乱交パーティでイキまくっている彼女たちが、少しだけ羨ましかった。もしかしたら演技かもしれない。それでも、相手に気付かれない技術があるのだから、やっぱり羨ましい。
「すみません。引きますよね、こんな話」
「いいえ。全く」
社交辞令でも何でもない真面目な否定に、どう返せばいいか分からなくなる。
誰にも打ち明けてこなかった悩みを話したせいか、すこしスッキリした気分になる。
「……聞いてくださって、ありがとうございます。乙津さんも人には言えない愚痴とかあれば、私でよければ聞きますよ。……乙津さん?」
「え、ああ。すみません」
運転に集中していたのか、乙津さんは一拍遅れて返事をした。
運転の邪魔になるかと思って会話を控えると、当然、車内は静まり返った。
いつもより早く乱交パーティが終わった。清掃が終わっても、予約したタクシーが来るには三十分もあり、羽山邸の薄暗い玄関でスマホをいじりながら時間を潰していた。オートロックの玄関なので、施錠の心配は要らない。
「立木さん、まだお帰りになっていないんですか」
後ろから声をかけられて、びっくりして振り返る。
足音も気配も無かったんだが。
「お、乙津さん。お疲れ様です。あー、予約してもらっているタクシーを待ってるんです。三十分くらいなら、時間変更しなくても良いかなって」
「そうでしたか。私の車で良ければ、ご自宅まで送りますよ」
「え?」
「ああ。不信感があれば、断って頂いて構いません」
ない。即答できる。
だって、あの乱交パーティを前に興奮する様子もなく、淡々と掃除を手伝ってくれるのだ。
乱交パーティの新顔が私に絡んできた時には、すかさず助けに来てくれた。
仲間意識くらい芽生えてしまう。
「ない、ですけど。甘えちゃって良いんですか?」
乙津さんは柔らかく笑んで、頷いた。
いつも見ている鉄仮面が取れ、紳士の笑顔が現れる。不覚にもちょっと胸がときめいた。
「ありがとうございます」
「それでは、行きましょうか」
タクシー会社にキャンセルの電話を入れ、乙津さんの車に乗った。
ドイツの会社が出している有名高級車だ。車内は合皮の独特な香りと、微かにシトラス系の香水の匂いがした。夜とはいえ真夏なので、生ぬるい空気が溜まっていた。
乙津さんはエンジンをかけ、換気のために窓を開けた。ジリジリ、リンリンと虫の鳴き声が聞こえてくる。クーラーがゴォっと音を立てた。
「ナビに住所を打ち込んでもらえますか?」
「あ、はい。……よし、と。あの、送っていただく手前、大変言いづらいのですが」
「なんでしょう」
「コンビニに寄ってもらうことって出来ますか? アイスコーヒー飲みたくて」
「それくらいお安い御用ですよ」
「ありがとうございます。改めて、よろしくお願いします」
乙津さんは車内が冷えてくると、窓を閉めて車を発進させた。
羽山邸の門を抜けて左折をし、緩やかな坂道を下っていく。深夜というだけあって車通りはほとんどない。ウィンカーがやけに響いて聞こえるほど、車内は静かなものだった。
「実は」と口火を切ったのは、乙津さんだった。
「立木さんとゆっくり話してみたかったんです。不躾な質問ですが、なぜこのような仕事を?」
ど直球。
聞かずにはいられないほど、気になっていたのか。
「お金が必要なんです。できるだけ早く」
「……そうでしたか。本当に失礼な質問でしたね。すみません」
妙な間の後にそう言われて慌てた。
変な誤解を生みそうだ。
おそらく、私の見た目が悪いせいだ。毎回スッピンで目元のクマを隠していないし、明るい茶髪を適当にくくって、安いジャージを着ているせいで金欠ギャルにしか見えないのだろう。
これはただ単に自衛と、やる気のなさと、面倒くさがりな性格によるもので、私個人は貧乏人ではない。
「大学受験を控えている妹がいるんです」
「ほう」
「でも、父が去年、病を患いまして。治療費が思ったよりかかってしまったらしくて、大学に通わせてあげられないかもって聞いて……。私だけが大学に通わせてもらえて、妹は無理っていうのは、あまりに可哀想で、せめて入学資金だけでも用意してあげたいんです。私、フリーランスで翻訳の仕事しているんですけど、今の収入だけじゃ足りなくて。早く貯めて、大学に通えるって思わせてあげたいんです。暗い気持ちで、残りの高校生活を終えて欲しくないなって」
「家族想いなんですね」
「……妹に嫌われたくないだけです。お姉ちゃんばっかりズルいって昔から言われ続けてきたから」
「それでも、行動に移せるのは素晴らしいですよ。妹さんは一生、あなたに頭が上がらないでしょうね」
「どうだか。私が稼いだって言うつもりはないし」
「断言できますよ。私がそうでしたから」
赤信号で止まると、乙津さんは懐かしそうに語り始めた。
「私の家は代々、執事の仕事をしてきたんですけど、私はそれが嫌で。親に反抗し続けて、企業に就職する道を選んだ時、兄だけはずっと私の味方をしてくれたんです。だから、兄が困った時は全力で助けようと誓い、今に至るわけです。じゃなかったら、あんな下品な空間に居ません」
「それに関しては、同意見です」
私たちは苦笑いを浮かべて顔を見合わせた。
乙津さんの左の薬指には指輪がないから、独身かもしれない。訊けば、外資系の製薬会社の営業マンだという。こんなに真面目で、優しい人なのだから恋人くらいは居るだろう。
「彼女さんに、このことを話しているんですか? 理解してもらえました?」
「恋人はいません。かれこれ、別れて一年程になりますかね。ずっと独り身です。立木さんは?」
「いませんよ。つまらない女だってフラれてばっかりです。まぁ、否定しませんけど」
「つまらないとは?」
信号が青になり、再び走り始める。
私は言うべきか、言わざるべきか悩んで、結局打ち明けてしまった。乱交パーティを一緒に何度も見た仲だ。恥ずかしがることもあるまい。
「私、セックスしてても感じないんです。感じたことないから、感じている演技も下手くそで……知らないうちに相手のプライドを傷つけちゃって。恋人は欲しいなとは思うんですけど、トラウマというか、引け目を感じてしまって」
乙津さんが無言で相槌を打ってくれるのを視界の端に捉える。耳を傾けてくれている気配に、つい無駄なことまで話してしまう。
「キスから先にいくのが怖いんです。だから、良い雰囲気になっても、付き合う前に終わるんですよねー。ま、不感症のおかげで、他人のセックス見てても平常心でいられるんですけどね! ははっ」
乱交パーティでイキまくっている彼女たちが、少しだけ羨ましかった。もしかしたら演技かもしれない。それでも、相手に気付かれない技術があるのだから、やっぱり羨ましい。
「すみません。引きますよね、こんな話」
「いいえ。全く」
社交辞令でも何でもない真面目な否定に、どう返せばいいか分からなくなる。
誰にも打ち明けてこなかった悩みを話したせいか、すこしスッキリした気分になる。
「……聞いてくださって、ありがとうございます。乙津さんも人には言えない愚痴とかあれば、私でよければ聞きますよ。……乙津さん?」
「え、ああ。すみません」
運転に集中していたのか、乙津さんは一拍遅れて返事をした。
運転の邪魔になるかと思って会話を控えると、当然、車内は静まり返った。
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