2 / 9
トラウマ
しおりを挟む
――五日後のこと。
いつもより早く乱交パーティが終わった。清掃が終わっても、予約したタクシーが来るには三十分もあり、羽山邸の薄暗い玄関でスマホをいじりながら時間を潰していた。オートロックの玄関なので、施錠の心配は要らない。
「立木さん、まだお帰りになっていないんですか」
後ろから声をかけられて、びっくりして振り返る。
足音も気配も無かったんだが。
「お、乙津さん。お疲れ様です。あー、予約してもらっているタクシーを待ってるんです。三十分くらいなら、時間変更しなくても良いかなって」
「そうでしたか。私の車で良ければ、ご自宅まで送りますよ」
「え?」
「ああ。不信感があれば、断って頂いて構いません」
ない。即答できる。
だって、あの乱交パーティを前に興奮する様子もなく、淡々と掃除を手伝ってくれるのだ。
乱交パーティの新顔が私に絡んできた時には、すかさず助けに来てくれた。
仲間意識くらい芽生えてしまう。
「ない、ですけど。甘えちゃって良いんですか?」
乙津さんは柔らかく笑んで、頷いた。
いつも見ている鉄仮面が取れ、紳士の笑顔が現れる。不覚にもちょっと胸がときめいた。
「ありがとうございます」
「それでは、行きましょうか」
タクシー会社にキャンセルの電話を入れ、乙津さんの車に乗った。
ドイツの会社が出している有名高級車だ。車内は合皮の独特な香りと、微かにシトラス系の香水の匂いがした。夜とはいえ真夏なので、生ぬるい空気が溜まっていた。
乙津さんはエンジンをかけ、換気のために窓を開けた。ジリジリ、リンリンと虫の鳴き声が聞こえてくる。クーラーがゴォっと音を立てた。
「ナビに住所を打ち込んでもらえますか?」
「あ、はい。……よし、と。あの、送っていただく手前、大変言いづらいのですが」
「なんでしょう」
「コンビニに寄ってもらうことって出来ますか? アイスコーヒー飲みたくて」
「それくらいお安い御用ですよ」
「ありがとうございます。改めて、よろしくお願いします」
乙津さんは車内が冷えてくると、窓を閉めて車を発進させた。
羽山邸の門を抜けて左折をし、緩やかな坂道を下っていく。深夜というだけあって車通りはほとんどない。ウィンカーがやけに響いて聞こえるほど、車内は静かなものだった。
「実は」と口火を切ったのは、乙津さんだった。
「立木さんとゆっくり話してみたかったんです。不躾な質問ですが、なぜこのような仕事を?」
ど直球。
聞かずにはいられないほど、気になっていたのか。
「お金が必要なんです。できるだけ早く」
「……そうでしたか。本当に失礼な質問でしたね。すみません」
妙な間の後にそう言われて慌てた。
変な誤解を生みそうだ。
おそらく、私の見た目が悪いせいだ。毎回スッピンで目元のクマを隠していないし、明るい茶髪を適当にくくって、安いジャージを着ているせいで金欠ギャルにしか見えないのだろう。
これはただ単に自衛と、やる気のなさと、面倒くさがりな性格によるもので、私個人は貧乏人ではない。
「大学受験を控えている妹がいるんです」
「ほう」
「でも、父が去年、病を患いまして。治療費が思ったよりかかってしまったらしくて、大学に通わせてあげられないかもって聞いて……。私だけが大学に通わせてもらえて、妹は無理っていうのは、あまりに可哀想で、せめて入学資金だけでも用意してあげたいんです。私、フリーランスで翻訳の仕事しているんですけど、今の収入だけじゃ足りなくて。早く貯めて、大学に通えるって思わせてあげたいんです。暗い気持ちで、残りの高校生活を終えて欲しくないなって」
「家族想いなんですね」
「……妹に嫌われたくないだけです。お姉ちゃんばっかりズルいって昔から言われ続けてきたから」
「それでも、行動に移せるのは素晴らしいですよ。妹さんは一生、あなたに頭が上がらないでしょうね」
「どうだか。私が稼いだって言うつもりはないし」
「断言できますよ。私がそうでしたから」
赤信号で止まると、乙津さんは懐かしそうに語り始めた。
「私の家は代々、執事の仕事をしてきたんですけど、私はそれが嫌で。親に反抗し続けて、企業に就職する道を選んだ時、兄だけはずっと私の味方をしてくれたんです。だから、兄が困った時は全力で助けようと誓い、今に至るわけです。じゃなかったら、あんな下品な空間に居ません」
「それに関しては、同意見です」
私たちは苦笑いを浮かべて顔を見合わせた。
乙津さんの左の薬指には指輪がないから、独身かもしれない。訊けば、外資系の製薬会社の営業マンだという。こんなに真面目で、優しい人なのだから恋人くらいは居るだろう。
「彼女さんに、このことを話しているんですか? 理解してもらえました?」
「恋人はいません。かれこれ、別れて一年程になりますかね。ずっと独り身です。立木さんは?」
「いませんよ。つまらない女だってフラれてばっかりです。まぁ、否定しませんけど」
「つまらないとは?」
信号が青になり、再び走り始める。
私は言うべきか、言わざるべきか悩んで、結局打ち明けてしまった。乱交パーティを一緒に何度も見た仲だ。恥ずかしがることもあるまい。
「私、セックスしてても感じないんです。感じたことないから、感じている演技も下手くそで……知らないうちに相手のプライドを傷つけちゃって。恋人は欲しいなとは思うんですけど、トラウマというか、引け目を感じてしまって」
乙津さんが無言で相槌を打ってくれるのを視界の端に捉える。耳を傾けてくれている気配に、つい無駄なことまで話してしまう。
「キスから先にいくのが怖いんです。だから、良い雰囲気になっても、付き合う前に終わるんですよねー。ま、不感症のおかげで、他人のセックス見てても平常心でいられるんですけどね! ははっ」
乱交パーティでイキまくっている彼女たちが、少しだけ羨ましかった。もしかしたら演技かもしれない。それでも、相手に気付かれない技術があるのだから、やっぱり羨ましい。
「すみません。引きますよね、こんな話」
「いいえ。全く」
社交辞令でも何でもない真面目な否定に、どう返せばいいか分からなくなる。
誰にも打ち明けてこなかった悩みを話したせいか、すこしスッキリした気分になる。
「……聞いてくださって、ありがとうございます。乙津さんも人には言えない愚痴とかあれば、私でよければ聞きますよ。……乙津さん?」
「え、ああ。すみません」
運転に集中していたのか、乙津さんは一拍遅れて返事をした。
運転の邪魔になるかと思って会話を控えると、当然、車内は静まり返った。
いつもより早く乱交パーティが終わった。清掃が終わっても、予約したタクシーが来るには三十分もあり、羽山邸の薄暗い玄関でスマホをいじりながら時間を潰していた。オートロックの玄関なので、施錠の心配は要らない。
「立木さん、まだお帰りになっていないんですか」
後ろから声をかけられて、びっくりして振り返る。
足音も気配も無かったんだが。
「お、乙津さん。お疲れ様です。あー、予約してもらっているタクシーを待ってるんです。三十分くらいなら、時間変更しなくても良いかなって」
「そうでしたか。私の車で良ければ、ご自宅まで送りますよ」
「え?」
「ああ。不信感があれば、断って頂いて構いません」
ない。即答できる。
だって、あの乱交パーティを前に興奮する様子もなく、淡々と掃除を手伝ってくれるのだ。
乱交パーティの新顔が私に絡んできた時には、すかさず助けに来てくれた。
仲間意識くらい芽生えてしまう。
「ない、ですけど。甘えちゃって良いんですか?」
乙津さんは柔らかく笑んで、頷いた。
いつも見ている鉄仮面が取れ、紳士の笑顔が現れる。不覚にもちょっと胸がときめいた。
「ありがとうございます」
「それでは、行きましょうか」
タクシー会社にキャンセルの電話を入れ、乙津さんの車に乗った。
ドイツの会社が出している有名高級車だ。車内は合皮の独特な香りと、微かにシトラス系の香水の匂いがした。夜とはいえ真夏なので、生ぬるい空気が溜まっていた。
乙津さんはエンジンをかけ、換気のために窓を開けた。ジリジリ、リンリンと虫の鳴き声が聞こえてくる。クーラーがゴォっと音を立てた。
「ナビに住所を打ち込んでもらえますか?」
「あ、はい。……よし、と。あの、送っていただく手前、大変言いづらいのですが」
「なんでしょう」
「コンビニに寄ってもらうことって出来ますか? アイスコーヒー飲みたくて」
「それくらいお安い御用ですよ」
「ありがとうございます。改めて、よろしくお願いします」
乙津さんは車内が冷えてくると、窓を閉めて車を発進させた。
羽山邸の門を抜けて左折をし、緩やかな坂道を下っていく。深夜というだけあって車通りはほとんどない。ウィンカーがやけに響いて聞こえるほど、車内は静かなものだった。
「実は」と口火を切ったのは、乙津さんだった。
「立木さんとゆっくり話してみたかったんです。不躾な質問ですが、なぜこのような仕事を?」
ど直球。
聞かずにはいられないほど、気になっていたのか。
「お金が必要なんです。できるだけ早く」
「……そうでしたか。本当に失礼な質問でしたね。すみません」
妙な間の後にそう言われて慌てた。
変な誤解を生みそうだ。
おそらく、私の見た目が悪いせいだ。毎回スッピンで目元のクマを隠していないし、明るい茶髪を適当にくくって、安いジャージを着ているせいで金欠ギャルにしか見えないのだろう。
これはただ単に自衛と、やる気のなさと、面倒くさがりな性格によるもので、私個人は貧乏人ではない。
「大学受験を控えている妹がいるんです」
「ほう」
「でも、父が去年、病を患いまして。治療費が思ったよりかかってしまったらしくて、大学に通わせてあげられないかもって聞いて……。私だけが大学に通わせてもらえて、妹は無理っていうのは、あまりに可哀想で、せめて入学資金だけでも用意してあげたいんです。私、フリーランスで翻訳の仕事しているんですけど、今の収入だけじゃ足りなくて。早く貯めて、大学に通えるって思わせてあげたいんです。暗い気持ちで、残りの高校生活を終えて欲しくないなって」
「家族想いなんですね」
「……妹に嫌われたくないだけです。お姉ちゃんばっかりズルいって昔から言われ続けてきたから」
「それでも、行動に移せるのは素晴らしいですよ。妹さんは一生、あなたに頭が上がらないでしょうね」
「どうだか。私が稼いだって言うつもりはないし」
「断言できますよ。私がそうでしたから」
赤信号で止まると、乙津さんは懐かしそうに語り始めた。
「私の家は代々、執事の仕事をしてきたんですけど、私はそれが嫌で。親に反抗し続けて、企業に就職する道を選んだ時、兄だけはずっと私の味方をしてくれたんです。だから、兄が困った時は全力で助けようと誓い、今に至るわけです。じゃなかったら、あんな下品な空間に居ません」
「それに関しては、同意見です」
私たちは苦笑いを浮かべて顔を見合わせた。
乙津さんの左の薬指には指輪がないから、独身かもしれない。訊けば、外資系の製薬会社の営業マンだという。こんなに真面目で、優しい人なのだから恋人くらいは居るだろう。
「彼女さんに、このことを話しているんですか? 理解してもらえました?」
「恋人はいません。かれこれ、別れて一年程になりますかね。ずっと独り身です。立木さんは?」
「いませんよ。つまらない女だってフラれてばっかりです。まぁ、否定しませんけど」
「つまらないとは?」
信号が青になり、再び走り始める。
私は言うべきか、言わざるべきか悩んで、結局打ち明けてしまった。乱交パーティを一緒に何度も見た仲だ。恥ずかしがることもあるまい。
「私、セックスしてても感じないんです。感じたことないから、感じている演技も下手くそで……知らないうちに相手のプライドを傷つけちゃって。恋人は欲しいなとは思うんですけど、トラウマというか、引け目を感じてしまって」
乙津さんが無言で相槌を打ってくれるのを視界の端に捉える。耳を傾けてくれている気配に、つい無駄なことまで話してしまう。
「キスから先にいくのが怖いんです。だから、良い雰囲気になっても、付き合う前に終わるんですよねー。ま、不感症のおかげで、他人のセックス見てても平常心でいられるんですけどね! ははっ」
乱交パーティでイキまくっている彼女たちが、少しだけ羨ましかった。もしかしたら演技かもしれない。それでも、相手に気付かれない技術があるのだから、やっぱり羨ましい。
「すみません。引きますよね、こんな話」
「いいえ。全く」
社交辞令でも何でもない真面目な否定に、どう返せばいいか分からなくなる。
誰にも打ち明けてこなかった悩みを話したせいか、すこしスッキリした気分になる。
「……聞いてくださって、ありがとうございます。乙津さんも人には言えない愚痴とかあれば、私でよければ聞きますよ。……乙津さん?」
「え、ああ。すみません」
運転に集中していたのか、乙津さんは一拍遅れて返事をした。
運転の邪魔になるかと思って会話を控えると、当然、車内は静まり返った。
10
お気に入りに追加
46
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
腹黒上司が実は激甘だった件について。
あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。
彼はヤバいです。
サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。
まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。
本当に厳しいんだから。
ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。
マジで?
意味不明なんだけど。
めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。
素直に甘えたいとさえ思った。
だけど、私はその想いに応えられないよ。
どうしたらいいかわからない…。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。

好きな男子と付き合えるなら罰ゲームの嘘告白だって嬉しいです。なのにネタばらしどころか、遠恋なんて嫌だ、結婚してくれと泣かれて困惑しています。
石河 翠
恋愛
ずっと好きだったクラスメイトに告白された、高校2年生の山本めぐみ。罰ゲームによる嘘告白だったが、それを承知の上で、彼女は告白にOKを出した。好きなひとと付き合えるなら、嘘告白でも幸せだと考えたからだ。
すぐにフラれて笑いものにされると思っていたが、失恋するどころか大切にされる毎日。ところがある日、めぐみが海外に引っ越すと勘違いした相手が、別れたくない、どうか結婚してくれと突然泣きついてきて……。
なんだかんだ今の関係を最大限楽しんでいる、意外と図太いヒロインと、くそ真面目なせいで盛大に空振りしてしまっている残念イケメンなヒーローの恋物語。ハッピーエンドです。
この作品は、他サイトにも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりhimawariinさまの作品をお借りしております。


社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる