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第一章 導かれし者
キャラメイク
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えっと何だ?――諒太は固まっている。彼は夏美が馬鹿らしい行動を取るものとばかり考えていたのだ。けれど、眼前には彼女が話す通りにクレセントムーンの箱がある。仮に夏美の話が真実として、その箱に中身が入っているとすれば……。
「夏美様、どうかお恵みを! この卑しい諒太に慈悲を何卒っ!」
跪くどころか諒太は自然と土下座していた。ずっと入手を待ち望んでいたクレセントムーンが目の前にあっては拒否などできない。守るべきプライドなんて存在しなかった。
「気持ちいいぃ! リョウちんを見下ろすのは最高だね!」
ふははと笑い声を上げる夏美。仁王立ちをする彼女は魔王に匹敵する邪悪な笑みで諒太を見下ろしている。
「よろしい……。これはパパが会社のビンゴ大会で当ててきた至宝。永遠の忠誠を誓うというのならリョウちんに進呈しよう……」
「はっ、仰せのままに……」
かつてはゲーム十番勝負で完勝を続けていた諒太であるが、三年が経過した今になって立場が逆転している。
「とりあえず今はあたしのプレイを見てよ! 大画面テレビに映し出すから! 8Kの超絶美麗な大画面に!」
完全敗北だと認めざるを得ない。諒太の部屋にもテレビはあるけれど、夏美の半分ほどの大きさである。しかも解像度は遠く及ばない。
夏美はヘッドセットを装備しベッドへと寝転がった。諒太はプレイしたことなどなかったが、恐らくそれが正しいプレイ方法だと思われる。ヘッドセットはかなりの大きさであるし、座ったままでは重いのだろう。
ここで諒太は悪戯を思いついた。無防備に寝転がった夏美の脇腹をくすぐってやろうと。散々自慢された仕返しとばかりに。
「ちょ!? やめ!? リョウちん!?」
夏美はくすぐられるのに弱い。それは高校生になった今も変わっていないようだ。この悪戯により前言撤回とはならないはず。夏美も諒太と一緒にプレイしたがっているのは間違いないのだから。
「ダメダメダメ! ホントやめて!!」
ジタバタと夏美。すると諒太の視界へ何やら白い物体が横切った。
諒太は目を疑う。確かに美人に成長したけれど、彼女は当時のままだと思い込んでいたのだ。しかし、目に映ったそれは諒太の認識を完全に否定している。
「おいナツ、大人なパンツに変えたのか!?」
小学生の頃は放課後を二人きりで過ごしていたから、暴れ回ったとしても怒られることがない。従って頻繁に夏美のアニメキャラパンツを諒太は目撃していた。
「当たり前だよ! もう高校生だよ? あたしだって成長してるの! リョウちんだって昔みたいな戦隊ものパンツじゃないでしょ?」
「そりゃそうだが本当に驚いた。ナツが色気づくなんて考えもしていなかったから……」
夏美はヘッドセットを外し睨むように諒太を見る。今さら二人の間に恥じらいはなかったけれど、彼にとって眼福ではなかったかといえば嘘になる。
「非常にありがたいものを見せてもらったよ」
「ゲームを見てよ! リョウちんに見てもらいたいのはパンツじゃない!」
二人は笑い合う。実は部屋に入ってから少しばかり緊張していた諒太だが、今は嘘のように打ち解けていた。三年が過ぎた今もあの頃と同じだ。成長したのは外見だけであり、中身は互いが知る通りである。
もう一度仕切り直し。夏美は再びベッドに寝転がる。無線接続したテレビにはゲームの様子が映し出されていた。
諒太は言葉を失っている。考えていたよりも圧倒的な映像に。VRヘッドセットを装着していなくとも、その世界に惹き込まれてしまう。
夏美は寝転がったままであり、微動だにしていない。考えるだけで操作できると知っていたけれど、テレビ画面のキャラクター【ナツ】を夏美は動かしていた。
ナツのジョブは聖騎士である。恐らく彼女はジョブチェンジを経験しているはず。初期ジョブには聖騎士なんて存在しないのだ。装備や行動によって初期ジョブは決定し、以降はプレイ状況によって勝手に変化していくシステム。ジョブはプレイヤーが指定するものではなく、全てはプレイヤーの行動によって選ばれてしまうのだ。
「どんな徳を積めば聖騎士なんて素敵ジョブになれるんだよ……」
思わず愚痴にも似た言葉を漏らす諒太。パンツとは異なり、夏美の強運は今も健在であるのだと思わざるを得ない。
レベル上げを眺めていただけなのだが、諒太はすっかりアルカナの世界に魅了されていた。早く自分もプレイしたい。その欲求は高まるばかりだ。
不意にテレビはコマンド画面を表示。何をするのかと思えば夏美はログアウトを選択している。
「ふぅ、どうよ!? 聖騎士ナツの勇姿を見た!?」
腹が立つほどのドヤ顔が向けられていた。確かに見入っていたけれど、諒太はアルカナの世界に惹き込まれていただけだ。間違っても夏美のプレイに感動を覚えたわけではない。
「まあまあだ。それにまだ勇者じゃないだろ?」
「もうすぐ勇者になるもん! きっとあたしが勇者だから!」
運命のアルカナは勇者となり世界を救うことを目的としている。ただそれは強制されるものでも、なろうとしてなれるものでもない。
各サーバーに勇者は一人だけ。サービス開始から四ヶ月以上が過ぎていたけれど、未だにどのサーバーにも勇者は現れていないらしい。従って条件などは何も分かっていないままだ。
「早く帰って設定しなよ? まずは通話用のアプリをインストールしてね。キャラメイクが終わったらそれで連絡して。迎えに行くし!」
諒太と夏美はスマホの登録情報を交換。いつでも連絡できるように電話番号からSNSまでを教え合っていた。
「サーバーはセイクリッドだよ! レベリングを手伝ってあげるから間違えないでよね!」
クレセントムーンはかなり大きい箱であるため、自転車の荷台に載せるとはみ出てしまう。よって諒太は適当な板を借りて荷台を延長し、尚且つロープでしっかりと固定。落として壊すなんてあり得ない。せっかく手に入れた夢と希望の箱は安全確実に持ち帰るのみだ。
ところが、空模様が怪しい。ここから家までは約二十分だ。せめて家に帰るまで降らないでくれと願う。存在するのかどうかも分からぬ神に祈りつつ、諒太は家路を急いだ。
荷台に気を付けながらも、自転車を目一杯に漕いでいく。せっかく手に入れたクレセントムーンを雨如きで台無しにされたくはないと。
既に空は真っ暗になっていた。いつ降り出してもおかしくはない空模様である。しかし、家はもう直ぐそこだ。速攻で自転車を止めて諒太は荷ほどきを始めた。
「危ねぇところだった……」
クレセントムーンを抱えて家に入った瞬間のこと。激しい雨音が聞こえた。本当に間一髪である。もう少し夏美と雑談をしていたら、完全に濡れていたことだろう。
諒太は直ぐさま階段を駆け上がり、開封の儀を始める。現物は夏美の部屋で見たけれど、手に取ってみるとその大きさを改めて知ることになった。
「やべぇ、興奮してきた……」
早速とコンセントに接続し、まずはハード側の初期設定。それが終わると今度は通話アプリ【スナイパーメッセージ】のインストールだ。待っている僅かな時間ももどかしいが、運命のアルカナを快適にプレイするためであるから仕方がない。
いよいよ運命のアルカナを取り出す。ヘッドセットにあるタッチパネルモニターを操作し、ゲームディスクを本体にセット。諒太は静かにインストールの完了を待った。
モニターに表示される指示に従い、諒太はヘッドセットを装着する。すると直ぐさま脳波チェックとなり、数秒の内に頭部のスキャンが始まっていた。
キャラクターは基本的に本人の容姿を使用する。夏美は特に顔を隠していなかったけれど、顔を晒したくないプレイヤーには顔を隠すアクセサリーや、メガネ的な装備に加え、ペイントなどのオプションも充実していた。
「脳波入力ってこんなに精密なのか……」
身長体重の入力も思い浮かべるだけでできた。これほど楽であれば通話アプリを使用しなくとも文章チャットだけで十分な気がしてしまう。
【キャラクター構築中。数分かかる場合があります。ヘッドセットを外しても問題ありません】
どうやらスキャンした顔データをキャラクターに反映させているらしい。ヘッドセットを外しても構わないようだが、待ちきれない諒太はそのままベッドに寝転がったままだ。
しかし、スマホが鳴りだしてしまう。耳障りなコール音がヘッドセット越しに聞こえている。親であれば面倒なので、諒太は渋々とヘッドセットを外した。
【着信 九重夏美】
発信者は連絡先を交換したばかりの夏美である。恐らく彼女は待ちくたびれて電話してきたのだろう。
「せっかちな奴だな……。もしもし?」
『あ、リョウちん? もうチュートリアル、終わった?』
やはり夏美は急かすつもりだ。諒太が家に帰る時間を考慮していない感じである。
「あのな、俺は家に帰ってからインストールもしなきゃいけなかったんだぞ? まだキャラメイクが終わったところだ……」
『ええ! まだそんなとこなの? てか悪いんだけど、レベリングは明日にして欲しいの。一時間後に緊急クエストが始まるみたいなのよ。今日はもう無理そう!』
夏美はレベリングと呼ばれるレベル上げに付き合う予定だった。けれど、緊急クエストなるものが始まるという。生粋のゲーマーである彼女がそれに参加しないはずはない。
「おう、いいぞ。どうせまだろくに戦えないんだ。チュートリアルを終わらせてから、ある程度までレベルを上げておくよ」
『本当にごめん! ログインしたら騎士団の詰め所に行ってね! 叡智のリングを預けておくよ! 叡智のリングはβテストの報酬なんだけど、βでの到達レベルまで経験値が三倍になるの。もちろん、あたしのリングはβのマックスであるLv50まで使えるから!』
流石は廃プレイヤーである。レベリングじゃなくともアイテムをくれるのなら諒太としては問題ない。しかも経験値三倍だとか捗ること間違いなしである。
「悪いな。けど、それって誰でも受け取れるのか?」
『サーバーが同じなら誰であっても受け取れるから大丈夫。受け取りには聖騎士ナツからの届け物ってことと、合い言葉を伝えなきゃだけどね。えっと、合い言葉は【死ぬ時は前のめり】にしとくから!』
何て酷いセンスの合い言葉だと諒太は思った。かといって夏美らしいといえば夏美らしいとも感じる。
「了解。緊急クエスト頑張れよ」
正直に夏美と冒険したかったけれど、自身は初心者である。廃人プレイをする夏美と同じ場所で戦えるはずがない。初心者の引率で緊急クエストを逃すだなんてあってはならぬことであった。
諒太はまだゲーム機の初期設定とキャラクター登録が終わったばかり。彼女を待たせるよりも、遊んでもらっていた方が焦らずに済むというものだ。
『ゲーム内通話ができるスナイパーメッセージは入れた? チュートリアルが終わったら、あたしのフレンドコードを登録して! コードはね……』
スナイパーメッセージとは無料通話アプリである。クレセントムーン内のソフトからも起動でき、ゲーム中で直接会話することや簡易メッセージを送信できた。
「おう、任せとけ。スナイパーのインストールはしたから、あとは登録するだけだな」
まずはゲームをスタートし、夏美のフレンド登録をしなければならない。緊急クエストさえ終われば諒太のレベル上げにも付き合ってもらえることだろう。
『それじゃあよろし……きゃあぁぁっ!』
突如として雷が落ちた。諒太の部屋は稲光で真っ白に染まっている。また電話越しに伝わる夏美の叫声から、香山市にも落雷があったのだと思われる。
刹那に全ての電源が落ちていた。眩しいくらいに光が射し込んだかと思えば部屋は一度に光源を失い、あらゆる電子機器が停止してしまう。
『リョウちん! ちょっと電話切るね! クレセントムーンの電源を落とすよ。壊れちゃったらどうしようもないし……』
「お、おう……」
諒太的にはかなり盛り上がっていたのだが、嵐ともいえる大雨に文字通り水を差されていた。
どうやら香山市は停電とならなかったらしい。諒太の場合は対処する間もなく全ての電子機器が停止していたというのに。せっかく貰ったクレセントムーンが壊れていないことを祈るばかりだ。
『チュートリアルが終わったら、フレンド登録をしてメッセージしてね! それじゃあ!』
慌ただしく通話を切る夏美。諒太とは違って聖騎士なる上級職になった夏美は何よりもゲーム機が大切だったに違いない。
「キャラメイクはともかく、俺のクレセントムーンは壊れていないだろうな……」
薄暗い部屋。諒太はベッドの上に置いたままのクレセントムーンへと目を向ける。
「あれ……?」
どうしてかクレセントムーンは光を発している。明確に覚えてはいなかったけれど、夏美の本体は何の光もなかったと思う。
光源を失った部屋にクレセントムーンだけが輝く。三日月型をした白い筐体は呪術的な薄紫色の文様を浮かび上がらせていた……。
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「当たり前だよ! もう高校生だよ? あたしだって成長してるの! リョウちんだって昔みたいな戦隊ものパンツじゃないでしょ?」
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夏美はヘッドセットを外し睨むように諒太を見る。今さら二人の間に恥じらいはなかったけれど、彼にとって眼福ではなかったかといえば嘘になる。
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二人は笑い合う。実は部屋に入ってから少しばかり緊張していた諒太だが、今は嘘のように打ち解けていた。三年が過ぎた今もあの頃と同じだ。成長したのは外見だけであり、中身は互いが知る通りである。
もう一度仕切り直し。夏美は再びベッドに寝転がる。無線接続したテレビにはゲームの様子が映し出されていた。
諒太は言葉を失っている。考えていたよりも圧倒的な映像に。VRヘッドセットを装着していなくとも、その世界に惹き込まれてしまう。
夏美は寝転がったままであり、微動だにしていない。考えるだけで操作できると知っていたけれど、テレビ画面のキャラクター【ナツ】を夏美は動かしていた。
ナツのジョブは聖騎士である。恐らく彼女はジョブチェンジを経験しているはず。初期ジョブには聖騎士なんて存在しないのだ。装備や行動によって初期ジョブは決定し、以降はプレイ状況によって勝手に変化していくシステム。ジョブはプレイヤーが指定するものではなく、全てはプレイヤーの行動によって選ばれてしまうのだ。
「どんな徳を積めば聖騎士なんて素敵ジョブになれるんだよ……」
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不意にテレビはコマンド画面を表示。何をするのかと思えば夏美はログアウトを選択している。
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「まあまあだ。それにまだ勇者じゃないだろ?」
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ところが、空模様が怪しい。ここから家までは約二十分だ。せめて家に帰るまで降らないでくれと願う。存在するのかどうかも分からぬ神に祈りつつ、諒太は家路を急いだ。
荷台に気を付けながらも、自転車を目一杯に漕いでいく。せっかく手に入れたクレセントムーンを雨如きで台無しにされたくはないと。
既に空は真っ暗になっていた。いつ降り出してもおかしくはない空模様である。しかし、家はもう直ぐそこだ。速攻で自転車を止めて諒太は荷ほどきを始めた。
「危ねぇところだった……」
クレセントムーンを抱えて家に入った瞬間のこと。激しい雨音が聞こえた。本当に間一髪である。もう少し夏美と雑談をしていたら、完全に濡れていたことだろう。
諒太は直ぐさま階段を駆け上がり、開封の儀を始める。現物は夏美の部屋で見たけれど、手に取ってみるとその大きさを改めて知ることになった。
「やべぇ、興奮してきた……」
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いよいよ運命のアルカナを取り出す。ヘッドセットにあるタッチパネルモニターを操作し、ゲームディスクを本体にセット。諒太は静かにインストールの完了を待った。
モニターに表示される指示に従い、諒太はヘッドセットを装着する。すると直ぐさま脳波チェックとなり、数秒の内に頭部のスキャンが始まっていた。
キャラクターは基本的に本人の容姿を使用する。夏美は特に顔を隠していなかったけれど、顔を晒したくないプレイヤーには顔を隠すアクセサリーや、メガネ的な装備に加え、ペイントなどのオプションも充実していた。
「脳波入力ってこんなに精密なのか……」
身長体重の入力も思い浮かべるだけでできた。これほど楽であれば通話アプリを使用しなくとも文章チャットだけで十分な気がしてしまう。
【キャラクター構築中。数分かかる場合があります。ヘッドセットを外しても問題ありません】
どうやらスキャンした顔データをキャラクターに反映させているらしい。ヘッドセットを外しても構わないようだが、待ちきれない諒太はそのままベッドに寝転がったままだ。
しかし、スマホが鳴りだしてしまう。耳障りなコール音がヘッドセット越しに聞こえている。親であれば面倒なので、諒太は渋々とヘッドセットを外した。
【着信 九重夏美】
発信者は連絡先を交換したばかりの夏美である。恐らく彼女は待ちくたびれて電話してきたのだろう。
「せっかちな奴だな……。もしもし?」
『あ、リョウちん? もうチュートリアル、終わった?』
やはり夏美は急かすつもりだ。諒太が家に帰る時間を考慮していない感じである。
「あのな、俺は家に帰ってからインストールもしなきゃいけなかったんだぞ? まだキャラメイクが終わったところだ……」
『ええ! まだそんなとこなの? てか悪いんだけど、レベリングは明日にして欲しいの。一時間後に緊急クエストが始まるみたいなのよ。今日はもう無理そう!』
夏美はレベリングと呼ばれるレベル上げに付き合う予定だった。けれど、緊急クエストなるものが始まるという。生粋のゲーマーである彼女がそれに参加しないはずはない。
「おう、いいぞ。どうせまだろくに戦えないんだ。チュートリアルを終わらせてから、ある程度までレベルを上げておくよ」
『本当にごめん! ログインしたら騎士団の詰め所に行ってね! 叡智のリングを預けておくよ! 叡智のリングはβテストの報酬なんだけど、βでの到達レベルまで経験値が三倍になるの。もちろん、あたしのリングはβのマックスであるLv50まで使えるから!』
流石は廃プレイヤーである。レベリングじゃなくともアイテムをくれるのなら諒太としては問題ない。しかも経験値三倍だとか捗ること間違いなしである。
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「了解。緊急クエスト頑張れよ」
正直に夏美と冒険したかったけれど、自身は初心者である。廃人プレイをする夏美と同じ場所で戦えるはずがない。初心者の引率で緊急クエストを逃すだなんてあってはならぬことであった。
諒太はまだゲーム機の初期設定とキャラクター登録が終わったばかり。彼女を待たせるよりも、遊んでもらっていた方が焦らずに済むというものだ。
『ゲーム内通話ができるスナイパーメッセージは入れた? チュートリアルが終わったら、あたしのフレンドコードを登録して! コードはね……』
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まずはゲームをスタートし、夏美のフレンド登録をしなければならない。緊急クエストさえ終われば諒太のレベル上げにも付き合ってもらえることだろう。
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突如として雷が落ちた。諒太の部屋は稲光で真っ白に染まっている。また電話越しに伝わる夏美の叫声から、香山市にも落雷があったのだと思われる。
刹那に全ての電源が落ちていた。眩しいくらいに光が射し込んだかと思えば部屋は一度に光源を失い、あらゆる電子機器が停止してしまう。
『リョウちん! ちょっと電話切るね! クレセントムーンの電源を落とすよ。壊れちゃったらどうしようもないし……』
「お、おう……」
諒太的にはかなり盛り上がっていたのだが、嵐ともいえる大雨に文字通り水を差されていた。
どうやら香山市は停電とならなかったらしい。諒太の場合は対処する間もなく全ての電子機器が停止していたというのに。せっかく貰ったクレセントムーンが壊れていないことを祈るばかりだ。
『チュートリアルが終わったら、フレンド登録をしてメッセージしてね! それじゃあ!』
慌ただしく通話を切る夏美。諒太とは違って聖騎士なる上級職になった夏美は何よりもゲーム機が大切だったに違いない。
「キャラメイクはともかく、俺のクレセントムーンは壊れていないだろうな……」
薄暗い部屋。諒太はベッドの上に置いたままのクレセントムーンへと目を向ける。
「あれ……?」
どうしてかクレセントムーンは光を発している。明確に覚えてはいなかったけれど、夏美の本体は何の光もなかったと思う。
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