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7 駆け出し勇者と深き森
第7話 木と火と風と
しおりを挟む土が盛り上がり、地面に亀裂が入る。落ち葉と草を押し上げて、大地に跡が刻まれる。地中を迫り来るものがすぐそこにいることを、それらが示した。
なんてことだ。そう言葉にしてしまえば最後、この身は危うい。
口から離した笛を持つ指先が冷えた。
先がわずかに尖った耳を澄ます。木の枝をくり抜いただけの簡素な笛の音が、もうどこにも残っていないことを確かめる。目を見開いて、地表の痕跡を残らず探した。
ここに生きるニジハダユーカリの大木の根の範囲は、もう少し先、あの茂みの辺りまでしかなかった。通常種の草木が生い茂った場所に栄養を求めて根の先の先が来ても、襲撃用の太い根までが、ここで動き回っているはずはない。
はずはないものが、すぐ足元へと伸ばされている。
それを確かめ、係長は己の上げた片手に注目する仲間たちを、首を動かさずに黒い瞳で見やった。
笛の音と、この手の意味することを知らぬ者はいない。皆は顔色を悪くし、森を熟知した係長が、採取係の精鋭が、班員を先導する時には滅多に聞かない合図の意味を守った。
止まれ、動くな、声も出すな。
この森の深き場所まで立ち入る許可を得た者たちが植物食植物たちの餌食にならないための、最低限に知っておくべき重要な合図だ。
合図の意味を知らねば森に入ることすら許されない者たちは、その時に取るべき行動も知っている。危機を乗り切るためにやることは決まっていた。弓を構えた仲間へと、係長は目を向ける。
小さな笛を仕込んだ矢を適当な場所へと放ち、それの音や地に刺さった振動へ注目させている間に、この場から退却する。ただし、この策を実行するには見極めが必要だ。
根がどこまで伸びているのか。それを冷静に見極めてから鏑矢を撃たねば、安全な場所へたどり着く前に犠牲になる者が出てしまう。
派手な幹の色をしたこの上位種は、地中を這い寄る根を、くさびや杭のように尖らせて、通りかかる者を下から攻撃してくる凶暴さで知られている。
しかもニジハダユーカリは近くに実を付ける木がある場合、その果実を根っこを張り巡らせた罠へと誘うための餌にするような狡猾さすら持っている。植物に知性や感情がないとされているのが、上位種の知識が豊富な森の民にも不思議なくらいだ。
だが、係長と同じく深き森を故郷としている魔植物の専門家に言わせれば、上位種であれど木々や草花としての在り方に純粋なだけで、人のように策略をめぐらせているのではないという。
ただ生きることを、まっとうしているだけ。生きることに従順な美しい植物であるだけなのだ。
枝や根が動くだけで、植物であることに変わりはない。
だからこそ、根付いたものの居場所を覚え、種によってどう対応すべきかを学び、きっちりとした決まり事を作って、それを確かに守っていれば、人は安全に素材を採取することが出来た。
この時までは。
片手を下ろし、そっと腰に手をやる。森林組合採取係の班のひとつを任された係長は、いつもそこに紐で下げている小さな包みを握った。
手荒な手段だが、木の根の場所を知るには最も効果的ではある。
ただし、それがどう転ぶかは使ってみないと分からない。ここまで育った大木のニジハダユーカリを、そこまで追い込む状況に、この数十年間なったことなどないはずだからだ。
はずだから。
それが油断というものだ。そうなるはずがないことが、すでに起こっている。
王都の研究機関から届いていた知らせを思い返し、係長は音をさせないよう、奥歯を強く噛み締めた。
後悔はこの場を上手く切り抜けてからだ。深く静かに息を吐いて、森の民は拳を掲げる。班員たちはその手に握られたものを思い起こし、次に備えて息を詰めた。
炎の燈火を、枯れ枝の端に火が燈る様子を、頭に思い浮かべる。
緑多き地で生きてきても暮らしに火は欠かせない。だがなぜか、森の民には火の魔法を、言葉のきっかけ無しに扱えるものは少なかった。
それを今日まで特訓してきた。声を出さずに魔法を、火種を具現化する方法を。
手の中で確かに熱が生まれたのを感じると、森の民は、採取係の精鋭は握ったものを放った。
大きく弧を描き、上位種の本体がある方向へ、薄い紙を幾重にも巻いた小さな包みを放り投げる。
投げ上げた包みは一瞬、光を放ち、地に落ちたと共に破裂した。轟音と火の粉。瞬く間に輝きを失った目くらましが破片をばらまいて粉々になる。
音と光に驚いたのは、それがそういうものであると知っていた者たちだけではなかった。地表を伝った衝撃に、あちこちから土ぼこりが吹き上がる。それらの位置を瞬時に見て取り、係長は指示した。
「右手、向こう!」
叫びながら跳ぶ。跳んで、仲間と違う方向へと、自身が叫んだ方角へと向かう。指示に従って即座に放たれ、甲高い音を立てて飛ぶ矢を追うように茂みの間を走り、係長はおとりを務めた。
指示とは反対の、左手側の森に駆ける班員たちは磨いた短剣や鎌、鉈を抜き放ち、根っこの追撃を警戒する。
さらに仲間から引き離すため、地に刺さった矢とは別の方へと係長は駆けた。上司が独り向かう先に目を光らせながら弓を構えて下がる狩人は、次のおとりとするため、風の魔法を矢に込める。
「止まってーーーー!」
突然の大声に思わず、全員が足を止めた。
数人で固まっていた班員たちの先、地面を割って、数本のくさびが柵を作るように飛び出す。係長が踏み止まったつま先から拳ひとつ分もない場所に、太い杭が突き出した。
森を駆ける足音が近付いてくる。
突き出た根が一斉に引っ込み、うねった模様を残しながら大声の上がった方へ、音を立てて走る者へと大地を潜って迫り行く。
「こっちこっち、こっちですよーーーー!」
叫びながら茂みから走り出して来た者を目掛け、地を這い寄る根が踊り上がってその身をのぞかせながら土をかく。するどい根の先が、一か所を目指して集まって行った。
先回りされていることを充分に承知して、茂みの合間の開けた場所へと走る。
木々の向こうに派手な色の幹がのぞく。大木が用意した罠のひとつ、空地のど真ん中へとひと跳びし、シュリッキは立ち止まった。長く尖った耳を澄まし、振り向いて顔を上げる。
不揃いに切られた髪が森の民の耳にかかる。シュリッキ隊長が見上げた先に、飛び出して来る者があった。枝と幹を蹴り、梢をかすって、人影が宙に現れる。
微かに金属の音が、森に響いた。
「斬る」
抜き放たれた白い刃が、宙で円を描く。柄にはまった鈍色の輪っかが刹那、赤く染まった。
静かだ。音は何もない。
シュリッキ隊長と採取係たちの足に伝わって来る、地の底をうごめく木の根の不規則な振動が、唐突に鎮まる。
静寂。それを破って、地が割れ、土が吹き上がった。真っ赤な火焔と共に。
円を刻むようにして吹き上がった土煙と、炎。その中心に立つシュリッキ隊長を飛び越して、木の葉の色の外套をなびかせ、神剣を片手に、勇者は降り立った。
勇者の足が地に付くと共に、円形に浮き上がった地面が元に還る。鼓動のように大地が鳴った。それきり森は静かになる。吹き上がった土ぼこりが炎の残した風に乗り、森の木々の合間に消えた。
誰かが深く息を吐いた。安堵のため息が二方向から同時に上がる。
「シュリッキ! 君か!」
片方から叫んで走り寄ったのは、係長だ。彼が空地の真ん中へと動き、その呼びかけにつられて他の者たちも円の中心へと歩む。
深いため息を吐いたもう一方、注意深く森の気配を探る、にわか調査隊員を背に、シュリッキ隊長は昔なじみに笑顔を向けた。
「やあ! ギルウェイ、久しぶりだね。元気そうで何よりだよ」
それに「皮肉か?」と返しつつ、ギルウェイ係長は旧知の仲が差し出した手を取った。
「助かった! 木が鎮まったな。君が駆け付けてくれなかったら、どうなっていたことか!」
握った手を大きく上下に振り、森の民の二人は笑顔を交わした。親子ほど歳が違って見えるが、見た目の変わらない者と責任感から厳しい表情が崩せない者が生きた年月は、そう変わらないようだ。
集まって来た採取係たちは周囲を警戒しつつも、円の中心の二人と、少し外れた場所に立つ見慣れぬ者へ戸惑った視線を送る。
「笛の音が聞こえたからね。久々に思いっ切り走ったよ。森を走るのは、やっぱり気持ちいいね」
ようやく手を離したシュリッキ隊長から、その背後に隠れるようにして立つ人物に、ギルウェイ係長は黒い瞳を向けた。
「さっきのは一体、どういうことなんだ? 魔法か何かか?」
昔から変わらぬ微笑みを見せて、国王直属の捜査機関の研究室長となったシュリッキ隊長は答える。
「うん、うちの調査隊員なんだ。凄腕の、王様も信頼を置いている、強い冒険者さんだよ」
救世主であることをひた隠しにしたがる勇者を気遣ってか、シュリッキ隊長がついた軽快な嘘が、さらなる注目を呼んだ。
凄腕の冒険者は目深にかぶった頭巾をさらに下げるようにして、顔を伏せた。白っぽい金の前髪が揺れ、年若いままの森の民以上に整った顔を隠す。
長い前髪の下をのぞくように目を向ける一行へと、シュリッキ隊長は告げた。
「当分はおとなしくしてるだろうけど、腹ぺこはそのままだからね。根っこも、かなり切っちゃったし。そうだ、みんなも、おやつにしないと疲れたでしょう? 食べられないようにするのも大変だものね」
シュリッキ隊長は係長の側に立った、最年少の班員に笑みを向ける。
何をたずねられているのかと、新米採取係は思わず眉をしかめた。昔なじみとの会話に付き物だった話題の飛び方を思い出し、ギルウェイ係長が皆に指示する。
「また獲物にされないうちに、ここを離れるぞ。他の者たちのことも心配だ。すぐに報告へ向かわねば」
森の民に、人間も亜人も雑じった採取係たちは、係長が翻訳した指示に従った。シュリッキ隊長は彼らの後を、その背を守る無口な調査隊員が、さらに最後尾となって続く。
「おやつ?」
小さく聞こえたつぶやきに、にわか隊員へと隊長は振り返った。
「おやつなんですよ。根付いた子たちが、他の植物や僕らなんかを襲うのは」
長ったらしい前髪に隠されて見えづらい表情が曇ったことが、尖らせ気味のくちびるから伝わったようだ。シュリッキ隊長は、この上なく幸せそうに笑みを浮かべた。
「ほら、僕たちだって、たまには、おやつやごちそうを食べたくなるでしょ? 大きくなったあの子たちも同じなんですよ。通りかかった僕らの魔力が、めずらしくて美味しそうなんでしょうね」
シュリッキ隊長は背負っていたリュックを前へと抱えると、中から布製の小さな袋を取り出した。そこから薄い紙に包まれたものを取り出し、冒険者に一粒渡す。
紙の中のものは、真っ黒なあめ玉だった。黒だけでなく、濃い紫の色をしたうずまき模様が入っている。森の民たちにはお馴染みのものらしく、彼らの間を手渡された袋の中のあめ玉は、次々と口に放り込まれていった。
冒険者も口に、あめ玉を入れる。
苦い中に思いっ切り濃く甘い、何かの果実のような風味がある。煮詰め過ぎて焦げになりかかったカラメルのような味が、少し眉をひそめた勇者の口に広がった。
植物食植物たちの特別なおやつにされないうちにと、あめ玉を舐めながら、一行は深き森を急ぐ。途中で別の採取係の班とも合流し、皆は外を目指した。
動く植物のいない、ごちそうを食べるのは人の方である森の外へと。
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