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5 旅は道連れ、世は捨てて
第15話 静かなる攻防
しおりを挟むやけに静かだ。
部屋の外の静けさに妙にいら立ち、主人は歯がみした。もっと早くに身を隠すべきだったかと、困惑した頭が後悔を叫ぶ。
屋敷など、またどこかに構えれば良いだけのことだ。売買契約も、さっさと金をせしめたら客の好きに荷を受け取らせれば良いだけのことだったのだ。わざわざ着飾らせて披露せずとも、客に自分で好きなものを地下から連れ出させれば、手間もない。
だが、これは置いて行く訳にはいかぬ。どこへ逃れるとしても、金があってこその命だ。
「さっさとしろ! そんなに手間取るほどのことではあるまい!」
屋敷の主人は怒鳴り、書斎の席を立った。背後の棚の裏にしつらえた隠し金庫へ向き直る。
金庫の前のじゅうたん敷きの床に片ひざを付いて、金貨や紙幣の入った袋を大小の旅行鞄に詰め直しているのは、簡素なお仕着せをさらに貧相に見せている、やせっぽちの少年だった。
いつもはこのような仕事を主人の望むままに、迅速に片付ける執事長は、ここにはいない。広間で目撃されたのを最後、行方知れずになっていた。
戦えそうな大人の男は警護に当たらせている。この一時、いや半時、いいや数十分にも満たないわずかな時間で、状況も何もつかめないままに事態は不穏なものになっていった。
屋敷の主人は、いら立ちを強める。ここで逃げ出すはめになるとは思ってもいなかった。近々、行方をくらませるつもりでいたが、余計な時に余計な場所へ現れてくれる。
侵入者は一人と報告があって以来、詳しい状況を知る者は出ない。客人の護衛も加わり、応戦と状況把握に務めているはずだが、そのたった一人の侵入者とやらが神出鬼没に暴れ回っているというだけで、目的も正体も分からず仕舞いだった。
大方、広域捜査官だろう。単独で乗り込んでくるなど正気の沙汰ではないが、人を送って保安兵を呼び寄せるにしても、街からここに来るまでは一時間以上は掛かる。
逃げ出す時間は充分にある。周囲に異変はない。異変があるのは屋敷の中だけだ。様子を見に階下へ従者を送り出したことを思い出し、屋敷の主人は部屋の奥をねめつけた。
「お前の兄は、働いておるかな? あれの価値がなくなれば、お前もまた無用だと言い付けておいたのだが」
屋敷の主人の言葉に、両手に枷をはめられ、ソファーに腰かけた女性が顔をそむけた。深緑の森の色をした長い髪は結い上げられ、尖った耳がのぞいている。
亜人にくくられている森の民は、角や獣の耳がある者もいれば、姿形はほとんど人間と変わらず、こうして耳の先が尖ったくらいでしか特徴のない者もいる。
実際、深き森に暮らす森の民と呼ばれる者のほとんどは獣人のような特徴的な能力もなく、勇者から伝承した話に聞くエルフという種族のごときに長命でもなく、ただ単に人だった。
この森の民の兄は体格が良いことと、耳が尖って長い以外に外見では目立った特徴もなかったが、獣人と相対しても良いところまでは戦えるくらいの身体強化を生まれ持っていた。上半身、特に両腕に限ってのものだったが、当人をうぬぼれさせるほどには強いものだ。
護衛か商品にと目を付けたところで、屋敷の主人には誠に都合の良いことに、音沙汰のない兄を心配し、妹が行方をたずね歩いているとの情報が入った。
それを利用しない手はない。
人間には余りある力を持った相手に言うことを聞かせるには、金か命をちらつかせるのが一番だ。それが自身でなく大切な者のものであれば、一層効果がある。
妹を保護したと兄に告げた効果は、思った以上だった。兄を雇い入れていると妹に告げた効果も同じくだ。かのエルフの絵姿に似た妹の見目は整っていて、商品としての価値もある。
そう判断して、屋敷の主人は兄妹を側に置いておくことにした。もちろん、妹の方は目の届く所か下の連中の元へと、兄から常に引き離すようにしている。
脅しの材料でもあり、もしや勇者にと目を付ける高値の買い手が現れるかもと特に妹の方を大切に囲っておくことにしたが、今回の救世主は人嫌いで、自身以外は魔王討伐には不要だと言ったとか。
人買いの目論見は大きく外れたが、儲けは充分にある。国有地の管理の一端を担う貴族の地位に相応しい利益は、表向きの地味な仕事では得られない。
故に裏の依頼もこなした。邪魔が入らぬよう、警ら兵隊を漁村に近付けぬようにもした。そのついでに儲けて何が悪い。
「悪いな」
誰かの声に屋敷の主人は、背にしていた書斎の入口へ目を向けた。いつの間にか音もなく、波打つような木目が美しい書斎の扉が開いていく。
戸に体を預け倒れていくのは、書斎の警護に当たらせていた傭兵だ。もう一人の護衛は、開いた扉から少し離れた床に倒れ、椅子の脇から脚だけが見えていた。
倒れた彼らへ詫びの言葉を贈った人物に、心当たりはない。
屋敷の主は書斎の入口に立つ見知らぬ者に、ただ呆然と顔を向けた。護衛は何をしていたんだという怒りと共に、ここに見知らぬ者が立っていることへ恐れも覚える。
右に片手剣を下げたみすぼらしい旅姿のどこに恐れる余地があるのかは見出せないが、侵入者が通って来たはずの経路を思い起こすと、別荘の家主にも自身の恐れの原因が分かった。
ここに来るまでの通路にいた者たちも、ここに倒れている者同様、怒声も悲鳴も上げることのないまま負けたのだ。
このたった一人に。
書斎の主は反射的に右手を伸ばした。書き物机の棚へ。
空を切る音と共に、風が吹く。侵入者が外套と足に隠すようにして左手に握っていた白い剣が、軽く振るわれた。斜め上へと振られた剣はまた、持ち主の体の側へと下げられる。
部屋には何も変化はない。張りつめた空気を解きほぐすように、風が書斎の中を混ぜ返しただけだ。
我に返り、主人は机の棚から銃を抜いた。ためらいもせず、真正面の戸口に立った者に向かって、狙いを付けることもなく撃つ。
引き金を押し込んで上がった音は気が抜けたような、金属を掠る軽いものだけだった。
主人は己の、手の中のものを見る。握りと引き金の部分から先は、えぐられたように無くなっていた。拳銃だったはずのものは、その半分以上が書き物机の中に残されている。
身を引いて棚の中を確かめた主は、自身の目に映ったものがまだ信じられず、空振りする引き金を何度も押し込んでいた。むなしい微かな金属音が静まり返った部屋に聞こえる。
何故に分かった? 何が起こった? 何なのだ、こいつは!
顔を上げた屋敷の主人から目をそらし、書斎の天井の角を見やって、侵入者は事も無げに告げた。
「手に持って使うものだからな。その辺りに置いてるくらいは、見えなくても分かる」
持ち主の手の中から滑り落ちた拳銃の残骸が、じゅうたんに重い音を立てて転がった。その音に、びくりと跳ね上がった体を金庫に押し込むようにして身を縮めていた少年へ、主人がわずかに目を向ける。
伸ばしかけた右手の先、書き物机に音を立てて、片手剣が突き刺さった。飛んできた切っ先に触れたペン置きの盆が吹っ飛び、中の筆記具とペーパーナイフを床にばらまく。
「そっちでも使えば? そこから抜けるんならの話だが」
片手剣の切っ先がほぼすべて、刀身を斜めに、分厚い天板に突き刺さっている。頑強な亜人であっても、これを引き抜くには苦労することだろう。それがこの屋敷で唯一出来そうな者が、書斎の戸口に姿を見せた。
「兄さんっ!」
森の民の女性は兄に駆け寄った。そのすぐ後を、使用人の少年も追う。人買いに連れて来られたのではないが、ここでの待遇の悪さは少年の体格が物語っていた。
勇者は、危うく人質になりかけてさらに身を震わせる少年から、正面の男へと目をやる。胸元へと手を引っ込めた屋敷の主は今この中で最も身が危ういのが自分であると気付くと、少年と同じく体を震わせ始めた。
抱き合う兄妹と彼らの陰へ身を縮める少年を背後に、豪奢な金糸の蔦模様が織り込まれたじゅうたんへ向かって、勇者は吐き捨てるようにつぶやいた。
「ほんと、碌なもんじゃないな」
白金の長い前髪の奥で、金の瞳がきらめく。
その目の良さで、ソファーに腰かけていた人質が見やった先にある切り札の所在を、ほんの一瞬で見抜いた者の不意を突くなど、ただの強欲な男に出来るはずもない。
打つ手がなくなり、屋敷の主人はその足元に半端な荷造りの隠し財産を残したまま、自分の書斎から出て行くしかなかった。
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