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5 旅は道連れ、世は捨てて
第8話 神と勇者のいら立ち
しおりを挟む水面を割いて進む船の波紋が広がる。湖面に矢じりを描くように白波を立てて対岸を目指す船は、船尾に見慣れぬ魔道具を積んでいた。
黒く塗装された丸みを帯びた金属の箱からは舵と、銀の筒が三本伸びている。その内の真ん中のものが船尾から水中へ設置され、後方の船底からは強い水流が押し出されていた。
「どうですか、慣れました? 操船」
旅の勇者は風に脱げないよう頭巾を押さえ、後ろへ声をかけた。
船尾で舵を取るのは、この小舟の持ち主である漁師の息子だ。いつもは三角帆と櫂で操る己の船を、今は別のものが動かしている。この湖そのもの、水の魔法だ。
「うーん、舵を取ること自体はいつもの感じだけど。水の調整が、ちょっとまだつかめないですね」
船の両脇の、前方へ向けて取り付けた取水用の筒から黒塗りの魔道具へ湖水を送り、水中の魔力を魔石と魔陶石で押し出す力に変えて、魔法で強化した水流を船尾から噴出する。
水魔法の攻撃系のものを応用した技術であり、勇者の故郷である地球で言うところの発動機に当たる発明だ。火の魔法を使うものは内燃機関、いわゆるエンジンと同じような構造になっている。
発魔動機と呼ばれる物のうち、水を利用して使うこの魔道具のことは片田舎の漁師の間でも話題になっていて、希少で高価な実物を生きているうちにその目で見る日がくるとは思わなかったと、元船大工が話したほどだ。
「これ以上の速度って、どんなんだよ」
船べりに当たって弾ける波しぶきを右腕で防ぎつつ、船の中央で帆柱につかまり、捜査官の若者が誰に言うでもなく愚痴る。
今までにない速度で湖を進む船に慣れるまではと、最大がこの倍にはなる噴射を弱めて操船している。余剰な魔力を魔陶石に充填することで速度を上げられるため、今はどうしても、最高速度は出せない時間だった。
湖上であっても警戒は怠らない旅の視察官が、左手の前方を指差す。舳先から斜め左に指した湖面で、何かが大きく波をうねらせていた。
「あれ、あれって、もしかして……」
旅人の、いつも冷静そうな感情を抑えた声に動揺があるのを感じ取り、捜査官も顔を視察官の指差す方へと上げた。
大きくうねった湖面と波間に、濃い青のごつごつとした何かが見える。その巨大さは見えている所だけでも、三人が乗る船の三倍以上はあった。
「あれって、やっぱりもしかして、氷山玄武長亀、なんですか?」
旅人の鞄の中の魔物図鑑には、厳密にいうと魔物には当たらない魔獣たちの情報も記してあり、そこに甲羅の青い巨大な亀のことが載せられていた。
「ええ、そうです! あれが水の神様、水神様のお使いなんだ!」
この湖で暮らす漁師にとっても、そうそう会えない幻の生き物なのだ。船尾から声を張り上げる彼は、この大きな亀こそが自分たちの暮らす村に怒りをもたらしたかもしれないのに、笑顔を見せた。
ひとたび暴れると湖岸に被害をもたらす巨大な亀が、その首を湖面へと振り上げる。勢いよく水上へと飛び出した頭は、さっきまで見えていた甲羅の部分よりも大きかった。
氷山の一角。見えている部分よりも遥かに大きな巨体が、その名の由来だ。海から湖を訪れ、この魔獣を目撃した者が氷山に見間違ったことから名付けられたとも言われる。
地球の神獣の名をもいただいた亀は、振り上げた頭を水面に叩き付け、大岩に開いた裂けめのような口で何かを噛んだ。
「くらげ?」
旅人の言葉にようやく、若者の目にも水面下に漂う半透明のものが見える。若者は、ほぼ悲鳴になってしまっている震えた声で叫んだ。
「うわ、でけえ!」
巨大な亀と双璧を成す、その大きさが特徴の生物が大波に揉まれ、体を浮き上がらせる。水面下の甲羅ごと天敵を飲み込まんとした大くらげは、自身の重さすら利用され噛みちぎられた体を亀の口に残し、再び湖に透明なその身を溶け込ませた。
巨富水樽水母は、この湖の豊かさをも象徴する生き物だ。
水中の魔力を取り込んで大きくなった体は、ほぼ水分でありながら、亀はもちろん、大小の魚や甲殻類、かろうじて目に見えるような小さな生き物たちの糧として、他のものの命を支えている。
そうして育んだ命をまた自身の糧にして膨れ上がる体は、すさまじい再生能力でも知られていた。
浄化の魔陶石が一般のものではなかった頃、長期間腐らせずに水を運ぶのは大変だった。真水の確保が難しい長旅には、切り分けた大くらげを樽に詰めて運び、染み出した水分を飲料水にしていたという。
ところが、それらの切り身は時間が経ち過ぎるとさらに分裂し、ひとつひとつが育って、真子御椀水母という幼体に変わってしまう。それらはまた豊かな湖や自然の中に戻すと成長しながら形を変え、切り分けられた元の姿と同じに育つ。
それでもここまで大きなものは、この湖以外では見られない。
深い湖と一体となるかのように漂いながら逃げる大くらげを追い、小島にも思えるほどの甲羅を持つ巨大な亀も、水面に沈む。
ゆったりとした、それでいて高さのある波が船にも迫り来る。漁師は発魔動機の計器をいくつか確認し、乗客に告げた。
「速度を上げます。ここから離れないと、あれに巻き込まれたら大事だ」
波だけでなく、湖岸に大岩を転がすような大魔獣たちの食事がいつ、すぐ側で再開されるか分からない。舳先の勇者はうなずき、帆柱につかまった捜査官の若者も首を縦に何度も振って、先を急ぐことを承諾した。
漁師が目盛りを三つほど回し、出力を上げる。ぐっと体が押し付けられるような反動の後、三人を乗せた船は加速して、湖の中央を突破した。
「見えた! あれです、あの屋敷!」
船尾から声が上がる。森の中、湖にせり出すようにして建つ高い石壁に囲まれた屋敷へ、もう一度目を向ける。
石造りの大きな屋敷は街から離れたところへ建っていた。漁村からまっすぐ行った対岸に当たる。湖の中ほどをいくらか過ぎてようやく見える岸辺の、豪華な別荘だ。
森の梢を背後に、青い瓦屋根の横に長い建物は、その端と繋がった石壁を湖へ突き出している。そこに桟橋があり、壁の下側には邸内に繋がる門扉があった。
揺れる中を船尾に向かう。今は高速艇と化した漁船の操舵手、漁師さんに桟橋の方を指差して頼む。
「あっちへ向かって下さいっ」
「桟橋に付けるんですね!」
吹き出す水音と風を切って水上を進む音に、近くにいても大声になる。
「いや、違います! このまま船は止めないで、手前で急旋回して下さいっ」
「は? え、止めない? 旋回って?」
発魔動機から突き出た舵に手をかけた漁師さんは、首をひねる。もう少し詳しくと説明を足す。
「桟橋の手前で、船尾を振るように、急に回ってくれたら飛び出しますから。後はそのまま、出発前に言った通りでお願いします!」
「と、飛び出すってっ! おい、あんたマジか!」
帆柱を両腕で抱き締め、捜査官はこちらへ呆れた顔を向けた。しぶきでじっとり濡れた頭から、しずくが強風に乗って飛んでいく。船酔いしそうなのか、顔色が少々悪い。
自分もこの体じゃなかったら、確実に彼よりひどい状態になってたな。頑丈な勇者の器に改めて感謝しつつ、今一度、重要なことを船酔い捜査官に伝えた。
「船を止めてる暇はないんだ、すぐに救援を呼んでほしい。中にどれだけの人がいるか分からないし。では、お願いします!」
発魔動機を挟んで向かい合う漁師さんにお願いする。まだよく何をするつもりなのか分かっていなさそうだが、舵を握る腕に力が入ったのは見えた。
「じゃあ、行きますよ!」
「はいっ、今です!」
桟橋から船三艘分手前で合図を出す。漁師さんが舵を左に切り、高速で湖岸へと進んでいた船の後方が、右に強く振られる。
船尾の右側、自分がいる場所が屋敷に向かって正面になる一瞬。船べりを握っていた手を離し、落としていた腰とひざを力を込め、船底に押し付けるようにそれを伸ばして、上へ跳んだ。
船に振られた勢いと跳躍が合わさり、体は前方へ、斜め上に飛ぶ。桟橋分を優に越え、石壁の上部へ、一直線だ。
人の限界も超えてないか、これ。これが出来ると判断した自分に驚く。
船の接近する轟音が聞こえたんだろう。壁の上部に下から坂になって続く見張り用の通路を二人、揃いの服を着た男が駆けて来るのが、宙から見える。
先を行く一人は、ちょうど壁の上へと到着したところで一部始終を目撃したからか、石壁を飛び越えてきたこちらへ驚愕の表情を向けていた。
壁のてっぺんをつかみ、進行方向を前から左へ変える。そのまま蹴りをひとつ。屋敷の警備員であるらしい男は、通路の内壁に吹っ飛んで背中を打ち付けた。
通路に降り立ち、船に目をやる。
飛んだ時の勢いで押された船体も跳ねたようで、湖の中心へと進行方向がずれていた。こっちに注目しながらも漁師さんが慌てて舵を切り直し、街の方へと船を走らせる。
畳まれた帆と同化するように帆柱につかまっている捜査官は、ぽかんとしたまま、こちらを見上げていた。大丈夫かな、やること忘れてないよね。
こっちも大丈夫か?
警備員がうめきながら、坂道を這って逃げていく。そんな同僚の脇を駆け、もう一人が迫る。
下が石畳の広場になっている屋敷の正面側には四人ほど、門の前にいたのと建物から出て来たのがこちらを見上げて、何が起こったかを確かめようとしていた。
騒がれる前に、片を付けなきゃ。
いや、遅かったか。迫ってくる警備員は目撃したこの異質な状況を気迫で乗り切ろうとでもいうのか、鬨の声のごとくに雄叫びを上げ、腰から抜いていた剣を突き出した。
右に倒れ込むようにして避けながら前に踏み込み、突き出した相手の右腕を下から取る。そのまま立ち上がりつつ相手の腰もつかみ、警備員その二を両手で持ち上げて石壁の向こうに投げた。
あ、泳げるよね?
まあ、下は船を留めるために深く掘り下げてあるようだし、落ちて岩に当たるなんてことはないから大丈夫だと信じよう。
湖面から盛大に水音と悲鳴が聞こえた。こっちも派手に、そしてすばやく動かなくてはならない。
下へ向かう坂道でなく、建物に繋がる方へと走る。壁の突き当りに屋敷の二階部分へ入れる扉があったが、そっちじゃない。
手すりも何もない壁の上の通路から飛び出し、天井がかなり高いらしい屋敷の一階の、すぐ側にある窓へと跳び込んだ。
採光と見栄え用だからかな。アーチを描く上部と細い木材で彩られた縦長の窓は、簡単に、枠ごと壊れた。
もったいない気がするが、この際、物に関しては多少の破損は目をつぶろう。物には何の罪もないが、罪人の所有であるということで運命が決まることもある。
だから皆を、こんな奴らのものにさせるわけにはいかない。
広間には宴席を用意するところだったのか、大きな長机が並べられているところだった。
ガラスと木片をまとって跳び込んできた不審者に、外の騒ぎで戸惑っていた者たちが悲鳴を上げる。テーブルクロスが半分ばかりかけられた、窓辺の机に着地した。
降りる時には見えなかった広間の隅へと目を向けると、ひとり、他の使用人たちとは違う服装をした若い女性が目に入った。清潔そうだが簡素なお仕着せ、使用人用の上下揃いの作業服っぽいものを着ている。
「他の人は、どこ?」
たずねると、胸の辺りで畳んだテーブルクロスを抱き締めていた彼女は、広間の中央に立つ壮年の男へ目を向けた。
使用人たちの中でもきっちりとした上等な身なりの男は、屋敷の家事を取り仕切る執事長か何かだな。そいつがいると話せないのか。
「わかった。ちょっと待ってて」
ズボンの右ポケットに突っ込んでおいた細めの縄の束を取り、思いっ切り振りかぶって、執事に投げ付ける。
広間の宙を高速で飛んで行った縄の束は見た目に反して、ちょっと重い。扉へ走って逃げ出そうとしていた執事の腰にぶち当たり、その場にひざを付かせて悶絶させた。
戦闘員でもない者を痛めつけるのはどうかと思わないでもないが、今はほんと、あれこれに構っている場合ではない。
ほら来た。邪魔が。
広間の掃き出し窓から次々と、外にいた奴らが姿を見せる。神殿での宴の時が思い出されたが、そんな穏やかな雰囲気ではなかった。にぎやかしいのは同じなのに、当然だがこっちの方が遥かにうっとうしい。
舌打ちが止まりませんよ。
長机を駆けて、一番遠くの男へ向かう。テーブルクロスがかけられた部分を踏んだら足元が布ごと滑り、ちょっと移動が稼げた。あっけに取られたか、その手の洋弓銃を撃つのを忘れている男へ、左手で神剣を抜き、斬りかかる。
ちょっと力が強かったかもしれない。
男の手の武器を斬りながら引っかけ、左に飛ばす。
こちらを追いかけようと、左の窓から広間に駆け込んだところだった警備員その三は、飛んでくる物からそむけた側頭部に洋弓銃の残骸が直撃し、その場に崩れ落ちた。
悪いな。どうにかして、このいら立ちを押さえてはいるんだけど。力加減が、ほんと上手くいかない。
これについての文句は屋敷の主人へ言ってくれ、後でな。
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