憧憬坂~薄紅の頃~

日下奈緒

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第4話 手帳

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「ほほほっ。」

「笑いごとじゃないわ、お母さん。」

家に帰った後も、征太郎の機嫌は直らなく、何も言わずに生徒のいない道場へと行ってしまった。

美和子はおやつを食べながら、今日の帰り道での出来事を、母に語って聞かせた。


「きっと征太郎さんは、その学生さんにヤキモチをやいたのね。」

「ヤキモチ?」

「美和子をその学生さんに、取られるとでも思ったんじゃないかしらね。」

「なっ……」

美和子の体は、熱くなった。

「そ、そうだとしたら兄さん、おかしいわよ。」

「あら、そうかしら。」

日頃の征太郎と美和子を見ていれば、そんな見当は容易につく。


「だって私が、兄さんから離れることはないもの。」

そう言って美和子は、またおやつをパクリ。

「そう。征太郎さんも征太郎さんだけど、美和子も美和子ねえ…」

母親の瞳子は半分呆れながら立ち上がり、台所へと行ってしまった。

「あら…」

美和子は突然、ふと何かに気づき庭に下りた。

拾いあげてみると、それは手帳だった。

美和子が手帳の中身を見ようとした時、台所へ行ったはずの瞳子が戻ってきた。


「美和子、あなたそう言えば…」

「はい?」

瞳子は美和子が、手帳を持っていることに気づいた。

「その手帳…」

瞳子には、思い当たる節があった。

「お母さん、誰の手帳か知ってる?」

「え…ええ…」

「どなたの?」

瞳子は一呼吸置いて、答えた。

「…征太郎さんの物よ。」

「兄さんの?」

美和子は、征太郎が手帳を持っているなんて、初めて知った。

まあ、もういい大人なのだから、持っていてもおかしくはないのだが。


「私、兄さんに持って行くわ。」

「美和子、征太郎さんはこれからお仕事よ。」

「大丈夫よ。まだ生徒さんは、いらしゃってないもの。」

美和子は軽い足取りで、道場へ向かった。

その時だ。

瞳子は、美和子の腕を掴んだ。

「お母さんが後で、征太郎さんに届けるから、その手帳をお貸しなさい。」

瞳子はあまり、美和子のやることに口を出さなかった。

だから、自分の腕を掴んでまで、こんなことを言うなんて、美和子には不思議に思った。


「美和子。」

美和子は、手帳を母に渡す振りをして、手をひっこめた。

「美和子!」

「心配しないで!」

母親からするりと抜け出て、美和子はそのまま兄のいる道場へと走って行った。


お母さんがあんなふうに言うってことは、兄さんにとっては大切な手帳なんだ。

美和子はそう思うと、どうしても自分の手で、この手帳を兄に届けたかった。


征太郎が剣道を教えている道場は、家の敷地内の角にあった。

興奮したせいか、美和子の心臓は、いつもよりも高鳴っている。


「兄さん…」

道場に兄の姿を見つけた美和子は、その場に立ちすくんだ。

まだ夏の始まりだというのに、胴着を着て、一人素振りをしている征太郎の体からは、湯気が立っていた。

その姿がいつもの兄とは別人のように見え、声をかけられなかったのだ。


思えばこの時間帯、美和子は琴の練習をしており、征太郎のそんな姿など一度も、見たことがなかった。

美和子はそっと、道場の扉を開けると、入口に手帳を置いた。


自分の知らない兄がいる。

美和子は、不思議な気持ちだった。

このまま声をかけずに戻ろう。


だが美和子は、運が悪かった。

美和子は誤って、石を蹴ってしまった。

その石が道場の壁に、当たってしまった。


まずい…

美和子は急いで、影に隠れ中を覗いた。

案の定、兄はその音に気が付いて、素振りを止め入口へと来た。

美和子が入口に置いた手帳を手に取ると、途端に血相を変えて、征太郎は外へ飛び出してきた。

そして……



「瞳子さん!」

そう、征太郎は叫んだ。

その言葉を聞いた瞬間、美和子は全身が凍りついた気がした。

兄は誰もいないのを確認すると、ゆっくり中へ入って行った。


美和子は不安になった。

母を名前で呼んだ兄。

征太郎を産んだ母親・父の前妻は、兄を産んだ数年後、亡くなってしまった。

その後、美和子を産んだ瞳子が後妻に来たから、兄と母は、血は繋がっていなかった。


だから、兄が母を名前で呼ぶのも理解できる。

できるがなぜか、それだけではないような気が、美和子にはしていた。


その時だ。

「先生!」

征太郎の生徒が、剣道の稽古にやって来た。

急いで、家に戻らなければ……

そう思って、すぐ立ち上がったのが、余計まずかった。

美和子はその姿を、征太郎にばっちり見られてしまった。


「美和子、ここで何してるんだ?」

「あっ…兄さん…」

征太郎が道場の外に出ると、美和子はちらっと、手帳を見た。

それで征太郎は、ピンときた。

「この手帳、美和子が届けてくれたのか?」

美和子がうなづくと、征太郎は美和子の頭に手を乗せた。

「ありがとう。」

だが美和子の心は、複雑だ。


「兄さん…」

「ん?」

「一つ聞いていい?」

美和子は、征太郎を見上げた。

「うん。」

「さっき、どうしてお母さんの事…」

美和子がそこまで言うと、征太郎はっとして背中を向けた。


「兄さん…?」

心配そうに、美和子が征太郎の顔を覗く。

「聞いてたんだ。お母さんを、名前で呼んだところ。」

認めた征太郎に、美和子の心はズキッと痛む。

「うん。」

「美和子、特別な意味なんてないよ。」

征太郎は、美和子の心配を振り払うかのように、美和子の頭を撫でた。


「美和子は、お母さんと俺が、血の繋がりがないことは知っているね。」

「ええ…」

「正直、照れくさいんだ。」

そう言った征太郎の頬は、赤く染まっていた。

「美和子の前ではまだ、お母さんって言えるんだがね。」

美和子は征太郎のそんな顔が、たまらなく可愛く思えた。


何でも完璧だと思っていた兄が、”照れくさい”と言う理由で、母の事をお母さんと呼べない。

征太郎のそんなところも、美和子は好きだった。


「そろそろ、美和子もお琴の時間だろ?」

「うん。」

美和子は征太郎の笑顔を確認した後、家へと戻って行った。

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