宮花物語

日下奈緒

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第10話 思わぬ客人

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再び信志の愛を取り戻した黄杏は、幸せな日々を暮らしていた。

他の妃の羨望を、一心に受けながら。


「今夜の寝所は、また黄杏の元ですか?」

一緒に夕食をとっていた白蓮は、何気なく尋ねた。

「……ああ。」

まるで当たり前だと言わんばかりに、返事をする信志。

「ここのところ、毎日ですね。」

「それがどうかしたか?」

白蓮はほんの少しだけ、信志の顔を見た。

喜怒哀楽もない、無表情。

要するに信志の中では、毎晩黄杏の元へ通う事は、毎晩自分の部屋に帰るという感覚なのだ。


「……他の妃から、またため息が漏れ始めております。」

だがさすがにこの言葉だけは、紳士の箸を持つ手を、止めたようだ。

「黄杏の元へ通うなとは、申しません。ただ他の妃の事も、頭の片隅に置いて下さいませ。」

冷静な白蓮の発言に、信志は返す言葉もない。

「分かった。」

「やけに素直でございますね。」

「そなたの言う事は、尤もだ。」

そしてまた箸が進む信志に、白蓮は胸が苦しくなった。

”今少しだけ、見逃してほしい”

そう言うと思っていたのに。

信志は返って、自分の気持ちを抑えているような気までしてくる。

そう。

正妻の白蓮から見ても、思い悩む程に、信志は黄杏に恋をしているのだ。


「幸せだこと……」

「えっ?」

顔を上げた信志は、もう自分の知っている信志ではない。

自分の事は、母か姉ぐらいにしか、思っていないのだろう。

「……こちらの話です。」

「ああ。」


そして時は過ぎ、夕食を終えた信志は、黄杏の元へと屋敷を出る事になった。

「お気をつけて。」

屋敷の玄関で、白蓮が見送る。

他の妃の屋敷に行く夫を見送る事に、すっかり慣れてしまった自分がいた。

「白蓮。」

「はい。」

知らない間に、信志は白蓮の手を握っていた。

「許してくれとは、言わぬ。」

「王?」

「ただ……分かってくれ。」

白蓮は、息が止まりそうになった。


「ええ……分かっております。黄杏はいい妃です。」

すると信志は、久々に白蓮に笑顔を向けた。

「そうであったな。さすがは私の伴侶よ。」

そう言って信志の手は、スルッと離れて行った。


”伴侶”と呼ばれて、嬉しいはずの白蓮。

だが白蓮を照らす月明かりは、寂しいものだった。


そんな白蓮を置いて、信志が向かった先は、恋しい妃・黄杏の屋敷だ。

「お待ちしておりました。」

黄杏は毎晩、信志を笑顔で迎えてくれた。

自分への気持ちは、変わっていない。

そう思えた黄杏は、どこか吹っ切れたのだ。

そして信志も、あの村で逢瀬を交わしていた黄杏に戻ったみたいで、また熱くなっているのが分かっていた。


誰にも知られていない恋に、互いだけを信じあっていた日々。

そんな甘い時間が、今もこうして二人の間に、流れているのだった。


その夜の事。

一緒に寝ていた信志と黄杏の耳に、女の叫び声が聞こえた。

「どこからだ?」

体を起こした信志に、隣の部屋に控えていた女人が、うろたえた様子で答える。

「あれは……黒音様の屋敷からでございます。」

それを聞いた信志は、上着を羽織った。

「信志様!」

「ここから離れるなよ、黄杏。」

そう言って信志は、黄杏の屋敷を出た。

黒音の屋敷と、黄杏の屋敷は、目と鼻の先。

一番に駆け付けた信志は、黒音の屋敷から出ていく、男の姿を見た。


「黒音!」

屋敷の入り口を開くと、奥の方で女人達と固まって震えていた。

「大丈夫か?」

信志は黒音の前に、膝を付いた。

「は……い……」

震えている黒音を、信志は片腕で抱きしめた。

「怖かっただろうに。何が起こった?」

すると側にいた女人の一人が、大声で叫んだ。

「盗賊です!」

「盗賊!?この後宮に、盗みを働こうとする者がいるのか!」

黄杏や黒音がいる屋敷は、宮中の中にもう一つ門を置き、出入りする者を見張っていた。

夜になっても、護衛の者は数人、この屋敷の敷地内を警備しているはずだった。

「護衛の者はどうした?」

信志が辺りを見回しても、その姿はない。

「どこにいる?」

信志が探そうとしても、女人は動かない。


「皆、黒音様を軽く扱っているのです。」

「これ!」

黒音が女人の一人を止めた。

「他のお妃様に比べて身分が低く、寵愛も薄いと、護衛の者も警備をしてくれません!」

驚いた信志は、黒音を見た。

「本当か?黒音。」

だが黒音は、黙ったままだ。

「お願いです、王。盗賊が入ろうとしたのは、これが初めてではありません!護衛の少ないこの屋敷を、狙っているのです!どうか!我らが安心して、眠れるようにしてください!」

女人が泣きながら、訴えてきた。

他の女人も、口惜しさと恐ろしさで、震えながら涙を流す。

一人だけ、そう黒音だけが、己の扱いを黙って受け入れているようだった。

「黒音。」

信志は、黒音を抱き寄せた。

「そのような事になっているとは、露知らず。すまなかった。」

「信寧王様……」

黒音の目には、涙が薄っすら光っていた。


「今日は私もここに泊まろう。」

信志の言葉に、一同安心した表情を見せた。

「誰か。黄杏に伝えてくれ。今夜は戻れなくなったと。」

「はい。」

黒音の女人の一人が、立ち上がった。

「理由を問われたら、黒音の屋敷の警護だと説明してくれ。」

「畏まりました。」

そして女人が黄杏の屋敷に発った後、黒音と信志は、寝所へと入った。


「お休みの中、起こしてしまい申し訳ございませんでした。」

黒音が頭を下げると、信志は黒音を背中に手を当てた。

「よいのだ。私の事よりも、そなたが怖い思いをしたであろう。さあ、私がついている上、今夜は安心して眠るがよい。」

そう言って信志は、黒音を寝台に横たわらせた。

だが信志は、灯りの側に座っているだけだ。

「……王は、横にならぬですか?」

「私の事は案ずるな。」

まだ盗賊に気を取られているのか、外をちらちらと見ていた。

それを見て黒音は、起き上がった。


「どうした?」

振り返った信志の隣に、黒音は座った。

「私も、起きています。」

「心配するな。構わずに寝ていなさい。」

「いいえ。我が主人が起きていると言うのに、隣で寝ている妃などおりません。」

顔を合わせた二人。

「私が寝ていなさいと、申したのだ。」

「これでも妃の端くれです。王のいる前で、おいそれと寝ている訳にはまいりません。」

信志は微笑んで、黒音の頬をそっと撫でた。

「黒音には負けた。」

「王……」

黒音の頬に、信志の温もりが伝わる。

「私も休む故、そなたも休みなさい。」

そして信志は、黒音の寝台に横になった。

「はい。」

嬉しそうに信志の横に眠る黒音。

だが信志は、そのまま目を閉じて、眠ってしまったようだ。

黒音にとっては、久々の夫婦一緒の夜だったと言うのに。


実はこの盗賊騒ぎも、黒音の発案。

この頃、ずっと黄杏に夜を持っていかれて、地団駄を踏んでいたのだ。


そしてそうとは知らない黄杏は、出て行った信志が、今夜戻らない事を、黒音の女人から伝えられた。

「分かりました。では、王の衣類をお願い致します。」

「畏まりました。」

綺麗に畳んだ信志の衣服を、黒音の女人に渡す事になるとは、微塵にも思っていなかった。

黒音の女人が屋敷から出て行った後、黄杏も悲しい月明かりを見ていた。

他の妃の元へ、信志が行ってしまうのは、もう慣れてしまった。

だから悲しいわけではない。

ただ、心の中がぽっかりと、空いてしまったようだ。

まだ自分には、こんな気持ちが残っているのか。

黄杏は胸に手を当てた。


次の日、黄杏の元へ一通の手紙が、女人を通して渡された。

「これは?」

「宮中に出入りしている商人からでございます。」

「商人?」

黄杏は、手紙の筆跡を見て、懐かしくなった。

そう、兄の将拓の字だ。

黄杏は嬉しそうに、手紙を開けた。


【 黄杏、元気にしているだろうか。
  縁あって、しばらく宮中に出入りできる事になった。
  一度でいいから、会えないだろうか。
                将拓 】

「兄上……」

黄杏に思わず笑みがこぼれた。

「えっ?」

女人はもう一度聞こうと、顔を上げる。

「あっ、いや。なんでもない。」


王の妃に兄がいるのは禁忌。

それは、宮中にいれば、いずれ分かること。

宮中にいる者に、兄・将拓の存在は知られては、ならないのだ。


だが、自分が王に嫁ぐ為に、自分の役人としての人生を捨ててくれた兄。

もう会えないと思っていた兄が、手の届く場所にいる。

たった一度でいい。

兄・将拓に会いたい。


「この商人は、明日も宮中に来るのか?」

「はい。このところは、毎日出入りしております。何でも今週いっぱいは、いるようでございます。」

女人の情報の早さに、黄杏は目を丸くする。

「……よく知っているの。」

「ほほほっ……これがまた、目元が涼しげな良い男でございまして……」

女人は恥ずかしそうに、頬を赤らめた。


「そなたがそこまで言うなんて、珍しい。」

「それほど、いい男だったのですよ。」

黄杏は、これは使えると思った。

「……その商人に、一度会ってみたい。」

「えっ!お妃様がですか!?」

女人はひどく驚いた。


王の妃は、下々の者に顔を見せることはまずない事だし、王以外の男に会う事も滅多にない。

しかも”会いたい”と、興味を持つだなんて。


「案ずる事はない。近くで顔を見るだけじゃ。」

「は、はい……」

女人は、少しだけ胸騒ぎを覚えた。
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