宮花物語

日下奈緒

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第9話 相思相愛

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黒音と信志は笑い合ったが、思い出したくもない夜が、甦ってきた。


何も知らない少女の体を、汚い手でまさぐった後、勝手に大きくなった自分のモノを、無理矢理押し込んできた村長。

痛いから止めてと叫んだ口に、服を入れられ、何が起こっているのか分からないまま、ただ必死に痛みに耐えた。

助けてと言っても、誰にも届かなくて。

その晩は朝が来るまで、一人台所の隅で、泣いていた。


それを思い出した黒音は、信志の胸の中を飛び出した。

「黒音?」

心配して伸ばした信志の手も、するりとすり抜ける。

「どうした?」

窓から差し込む光に、崩れ落ちた黒音。

どうして、こんな甘美な夜を経験しても、あの悪夢のような夢は、どこまでも追いかけてくるのか。

黒音は、自分で自分が嫌になった。

そんな黒音の側に来た信志は、小刻みに震える肩に気づいた。

「恐い思いでもしたのか?」

すると黒音の震えは、もっと大きくなった。

「もしかしたら、無理矢理……奪われたのか?」

その一言に、黒音から嗚咽が漏れ始めた。

「黒音……」

泣き崩れる黒音を、信志はまた優しく抱き締めた。

「もう、そんな夜は訪れないよ。」

「信寧王様……」

「ずっと、これから先ずっと……甘い夜しかそなたには、与えない。約束する。」


黒音の胸に中で、何かが崩れ去った。

自分は一体、何に意地を張っていたのか。

貧しい暮らしを抜け出したかった。

誰かに膝待つく人生ではなく、周りの人間全てを、自分に膝待つかせたかった。

その為には、王の妃となり、次期王の母となるしかなかった。


だが今はどうだろう。

ただこの人に、抱き締められているだけで、こんなにも心が幸せで、満ち溢れている。

「有り難うございます。」

黒音の口からは、自然にその言葉が、流れ出た。

「黒音は、幸せでございます。」

「ああ。」


その夜黒音は、生まれて初めて、安らぎの中で眠りについた。

黒音の三夜通いが進んでいるうちに、黄杏の体はすっかり回復していた。

「そうか……黄杏の元に、通えるのか。」

信志はの心は、浮き立った。

「今夜は、黄杏の屋敷へ行こう。」

久々に、黄杏と夜を過ごせる。

それはまだ村で逢瀬を重ねていた時の、あの気持ちに似ていた。


だが黄杏からの返事は、“否”だった。

「えっ?」

「黄杏様におかれましては、まだ体調が戻らぬとの返事でございまして……」

必死に弁明する侍従をすり抜け、信志は夜の中、黄杏の屋敷に駆けつけた。

「信寧王様……」

久しぶりに会った黄杏は、一瞬嬉しそうな表情を見せるも、直ぐに背中を見せてしまった。

「黄杏、なぜだ。なぜ、私を拒む。」

「拒んではおりません。体調が優れないのです。」

信志は黄杏の前に、回り込んだ。

「嘘だ。もう月のモノも過ぎて、夜の相手もできるはずだ!」

困った顔をして、一歩下がる黄杏を、信志は捕まえる。

「私を……嫌いになったか?」

「信志様……」

信志の顔が、次第に悲しみに歪む。

「……もしかしたら、村へ帰りたくなったか?」

黄杏はそれ以上、何も言えなくて、黙るしかなかった。

「黄杏……何か、言ってくれ。」

信志は顔を近づけると、黄杏の額に自分の額を付けた。


嫌いになるなんて、絶対にならない。

村に帰るなんて、そんな事も考えた事がない。

ただ、本音を言えば空しいだけ。

あれだけ、自分だけを愛していると言っていたのに、こんなに簡単に自分への歩みが遠のく事が。

勿論、黒音を推薦したのは自分であるし、何よりも自分だけの王ではない事は、理解している。

子もできないかもしれない中で、他の女に行くなとも言えない。

だからこそ、苦しいのだ。


ここで泣き叫ぶ事ができたなら。

他の女の下へ行くなと言えたのなら。

黄杏は、こんなにも苦しくなる事は、なかっただろうに。

「王を……お慕いする気持ちに、変わりはありません。」

「黄杏……」

信志は黄杏に手を伸ばしたが、その分だけ黄杏は、後ろへ下がった。

「だからこそ、王のお子ができないのが、辛くてたまらないのです。」

信志はたまらずに、黄杏を抱き寄せた。


「子ができなくても、そなたは私の妃に、違いはないだろう。」

信志の抱き締める力が強くなる度に、黄杏の切なさも増していく。

「嫌なのです……」

信志は、黄杏と顔を合わせた。

「王は、私に子ができなくても、今まで通り通って下さるでしょう。ですがその分、他の子が産める妃の足が、遠くのと言われるが嫌なのです。」

「黄杏!」

信志は、必死に黄杏を繋ぎ止めようとした。

「……このまま、捨て置き下さい。」

言葉を失った信志は、黄杏の腕から手を離した。

「お世継ぎのご誕生を、心からお祈り申し上げております。」

弱々しく言葉を発した黄杏をそのままに、信志は黄杏の屋敷を後にした。

シーンと静まり返った屋敷。

一人で呆然と、寝台に座る黄杏。


これでいいのだ。

他の妃に子が産まれれば、また通ってくれるようになるだろう。

だけど、信志様の心が変わって、お子を産んだ妃の元へ通うようになったら?


黄杏は、自分が子を身籠った時の、信志の姿を思い出した。

抱けないと分かっても、お腹の子の為に、毎晩通って隣に添い寝してくれた信志。

優しい信志だけに、子ができた妃に、心変わりするのも分かっている。


「……っ」

黄杏の目からは、涙がボロボロ流れた。

「ううっ……」

どうして、王である信志を、好きになってしまったのだろう。

他の人であれば、妃は一人しかおらず、子ができぬと分かれば、離縁して村に帰る事もできたかもしれないのに。

「うわああああああ!」


こんなに辛いのも、ただ一人、信志を愛してしまったから。

どこにも行き場のない想いが、黄杏を包み込むのであった。

黄杏に“捨て置き下さい”と言われた信志は、公務にも身が入らない日が続いた。

それを見た忠仁が、信志の横に立つ。

「まるで、もぬけの殻みたいですな。」

「ああ……」

そう返事をする時も、心ここにあらずと言った感じだ。


「何かあったのですか?」

「ああ……」

気のない返事に、本当にあったのかなかったのか、見当がつかない。

「お話下さいませ。私と王の仲では、ございませんか。」

忠仁は、信志が幼い頃よりの、武芸の師匠であり、第1の忠臣であり、今や義理の父親だ。

「忠仁……」

「はい。」

「黄杏に、捨て置いてくれと言われた。」

忠仁は、目を丸くして信志を見た。

一国の王が、数人いる妃の一人に、拒まれたと言っても、大した事でないだろうに。

まるで、世界の終わりみたいな、顔をしているではないか。


「黄杏様はなぜ、そのような事を申されたのですか?」

「子ができぬ自分の元へ通う事で、私に子ができる好機を失ってほしくないそうだ。」

「それで?王は、分かったと帰って来たのですか?」

「ああ……」

忠仁はわざとらしく、大きなため息をついた。


「……そう言えば黄杏様は、多宝村のご出身でございましたな。」

「そうだ。」

「懐かしいですね。多宝村に一行で向かってから、もうすぐ1年でございます。」

忠仁は椅子を持って来て、信志の隣に座った。

「覚えていらっしゃいますか?黄杏様は最初、お妃候補ではなく、台所で宴会用のお食事を作っておられた。」

「ああ、そうだ。」

信志は、それがどうした?と言う顔だ。

「その方を、王は見初められた。」

信志からの返事はない。

「お妃になれぬ方には、お会いになられますな。私がそう申しても、あなた様は黄杏様を諦めなさらなかった。」

静かに手を握りしめる信志。

「そこには、条件などなかったはず。今と同じ状況なのでは?」

すると信志は、黙って立ち上がった。

「王?」

「黄杏の元へ行ってくる。」

信志はそれだけ告げると、部屋を出て行ってしまった。


まだ昼間だというのに、屋敷に顔を出した信志に、黄杏は戸惑った。

「信寧王様……」

昨日、子を成す為ここには来ないでくれと、告げたばかりだと言うのに。

黄杏は、下を向いたまま、玄関に立ち尽くした。

「黄杏!」

そんな黄杏を、信志は玄関で抱きしめた。

それを見た女中達は皆、屋敷の奥へといなくなってしまった。

「王……。ここにはもうお訪ねにならぬようにと、昨日……」

「そのような事、構わぬ。」

黄杏は、顔を歪ませた。

「私がそなたの元へ訪ねるのは、子を成す為ではない。」

「いえ、あの……」

戸惑う黄杏は、信志から離れた。

「覚えているか?私達の出会いを。」


黄杏にとって、愛する信志との出会いは、忘れたくても忘れられない、一番大切な思い出だ。

月明かりの夜。

村では見かけない洗練された男が、月に見とれるあまり、そのまま池に入ってしまった。

見かけと中身のあまりの差に、信じられず止める事もできなかったが、ハッと我に返った黄杏は、急いで池からその男を救い出した。

それに加え、地位を表す帽子を池に忘れる始末。

王とは知らない黄杏は、信志に呆れるばかりだった。

だがそれもつかの間、その瞳の美しさに、黄杏は夢中になってしまった。


忘れられる訳がない。

知らずに黄杏の目から、涙が零れる。


「待ってくれ、黄杏。」

引き留める信志に、簡単に捕まってしまう。

本当は、この手を繋いでいて欲しいのだ。

「あの時、そなたはお妃候補ではなかった。でも、私はそなたを諦められなかった。今もその時と同じ気持ちだ。」

「王……」

信志の目に、涙で顔がグチャグチャになっている黄杏が映る。

「いつものように、信志と呼んでくれ。私は出会った時と同じように、そなたが恋しくしてたまらないのだ。」

二人は見つめ合うと、顔を少しずつ寄せ、唇を重ねた。

久しぶりに近づいた信志は、黄杏を抱き上げると、そのまま寝台へと横たわらせた。

「信志様、まだ湯も浴びていないというのに。」

「いいのだ。私とそなたの仲ではないか。」

信志と黄杏は、まだ陽が落ちていない中、着ている物を剥いで、情事にふけった。


黄杏の肌の匂いが、信志の鼻腔をくすぐる。

甘くて、自分の側にいると感じられる匂いだ。

首元に舌を這わせると、黄杏から甘い声が漏れる。

「ああ、黄杏……久しぶりに、そなたの体を触れる……」

その柔らかい肌に触れる度に、黄杏の体が気持ちよさそうに、うねっていく。

その様子を見るのも、信志の楽しみの一つだ。

やがて一つに繋がった二人の体は、汗でお互いの体の境界線が分からない程に、とろけ合ったのだった。
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