百花繚乱

日下奈緒

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深雪 ~みゆき~

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「えっ…何か……変なこと言った?」

私は首を振りました。

「いいえ…嬉しいんです。そう言ってもらえて…」

私がそう言うと、紳太郎様はほっとしたようでした。

「よかったぁ…」

そしてまた、私の好きな笑顔を見せてくれました。


でもその一方で私は、胸が張り裂けそうになるくらいに悲しかったのです。

紳太郎様の心の中に、私はいない。

分かりきっていたはずの事なのに、現実を突きつけられると、胸の痛さに涙がこぼれる。


そして、あれだけ私を想ってくれる人がいるのに、私はその胸に飛び込めない。

これだけ想いは実らないというのに、私には紳太郎様しか考えられない。


私はいっそ、この家を出ようと思いました。

このままでは、想いを寄せる紳太郎様にも、私を想ってくれる倫太郎様にも、申し訳ないと思ったんです。


暇を頂きたいと願いを出した一週間後、旦那様は私を部屋に呼びました。

「旦那様、深雪です。」

「入りなさい。」

戸を開けた先には、倫太郎様と紳太郎様もいらっしゃいました。

「二人にも、深雪の事を話そうと思ってね。」

「はい……」

顔を上げなくても、倫太郎様と紳太郎様が、不思議がっているのが分かりました。


「実は深雪が、暇を欲しいと言ってきてるんだ。」

「えっ…」

声を上げたのは、紳太郎様の方でした。

「理由は……何なんですか?」

倫太郎様の声は、震えていらっしゃいました。

「……私事です。どうか、ご理解下さい。」

それだけ言いました。


「どうするか、おまえ達に任せよう。」

旦那様はそう、仰いました。

倫太郎様は、手を強く握りました。

「深雪が……そう望むのなら……」

自分の気持ちよりも、私の気持ちを尊重してくれる、倫太郎様らしい答えでした。


「紳太郎は?」

旦那様は、紳太郎様にもお聞きになりました。

「僕は、嫌です!!」

紳太郎様ははっきりと、そう仰って下さいました。

「兄さんは、どうしてそんなに、物分かりがいい振りをするんだよ。」

「紳太郎……」

「俺は嫌だ!深雪がいなくなるなんて、絶対に嫌だ!!」

紳太郎様の眼には、涙が溜まっていました。


「だってそうじゃないか。深雪は母さんが亡くなってあと、ずっと俺達の面倒を見てくれたんだ。俺達にとっては、母親みたいなものじゃないか!」

「そんな!…」

私は思わず、大きな声を出してしまいました。

「お二人の母親は、亡くなった奥様だけです。そんなふうに言われると、私は奥様に、申し訳が立ちません。」

「だったら、姉さんだ!」

紳太郎様は続けて、そう叫びました。

「深雪は…俺達の姉弟だよ……家族だよ。」

家族……

そう仰ってくれた紳太郎様の言葉に、胸が震えました。


「深雪……母さんや風音達みたいに、俺達の前からいなくならないでくれ。頼む。」

「紳太郎様……」

「俺たちには…深雪が必要なんだ。お願いだ…この家からいなくならないでくれ……」

紳太郎様のお気持ちを、私はこの時、初めて知りました。


「そう言うことだ、深雪。」

旦那様は静かに、そう仰いました。

「これからも、真木家を支えてくれよ。」

「…はい。」

自然に、そう答えられました。

「では、決まったところで、私は仕事に戻るとしよう。」

そして旦那様は、部屋を出て行かれました。


紳太郎様は手で涙を拭うと、照れ笑いを見せていました。

「そうだ、学校の課題が残っていたんだ。」

そう言って、泣いた顔を見られないようにと、旦那様と同じように、部屋を出て行かれました。


あっという間に部屋には、私と倫太郎様が残りました。

「……僕のせいですね。」

倫太郎様が、ボソッと呟きました。

「思い返してみれば、自分の気持ちを、一方的に押し付けるだけで、あなたの気持ちを、考えることはしなかった……」

倫太郎様は、私の前に来ると、両手をついて頭を下げた。


「私を、許して下さい。」

「倫太郎様……」

私は慌てて、側に近づいた。

「頭を上げて下さい。この家を継ぐ人が、使用人へ頭を下げてはいけませんよ。」

私がそう言っても、倫太郎様は、顔を上げては下さいませんでした。

「これは使用人にとしての深雪にではなく、僕の初恋だったあなたに言わせて下さい。」

「倫太郎様?」

「もう二度と……あんな事はしません。ですから……」

倫太郎様の身体が、小刻みに震えているのが分かりました。

「紳太郎の為にも……この家から、離れないで下さい。」

自分の事よりも、大切な人の事を先に考える。

倫太郎様はそういう方でした。

「はい…」

私の返事にやっと、倫太郎様は顔を上げてくれました。


「ずっと……お二人のお側にいます。」

倫太郎様はやっと、笑顔になりました。

「よかった。」

倫太郎様はほっとしたのか、足を崩されました。

「あなたが、この家を出て行くと聞いた瞬間、僕は……」

倫太郎様は、そっと私を見ました。

「生きた心地がしなかった。」

お二人にそう思われるなんて、私はなんて幸せ者なんだろうと思いました。


それから、20年程経った頃でしょうか。

その間、倫太郎様も紳太郎様もご結婚されて、お子様にも恵まれました。

紳太郎様は結婚して2年後くらいに、お向かいの敷地に家を建て、そちらに移り住みましたけどね。

私はその時、本家の……倫太郎様の家の使用人達を、まとめる立場にありましたから、気軽に移ることなんてできなかったんです。


それは寂しい時もありましたよ。

今までは当たり前のように、紳太郎様のお側にいたのに、会うことすらできなくなったんですから。


それでも時々、紳太郎様は私の家に来て下さって、二人でお酒を酌み交わす事もありましてね。

その時だけは、癒されるというか、苦労の全てを忘れることができたんです。


「いつも家を訪ねて悪いね、深雪。」

「いいえ。お気になさいますな。」

いつもそう言っては、ほら隣の部屋にある、洋風の椅子に座って、二人で飲んでいたんですよ。

そんな時決まって、紳太郎様がお話するのは、奥様の詩野様の事でした。

「こうしている時も、せっかくのお二人の時間を、お邪魔してしまいましたね。」

私がそう言うと、紳太郎様は私の言葉を、笑い飛ばしていました。

「家にいる時は、いつも詩野と二人きりだよ。」

「まあ、ご馳走様です。」

私なんかは邪魔なんかにもならないほど、お二人の仲は良かったんですね。


「兄貴は元気か?」

「ええ。気になさるなら、本家の方にも、顔をお出しになればよろしいのに。」

「一旦家を出ると、なかなか行きづらいものがあってね。」

倫太郎様と紳太郎様の間に、何があったかは知りませんでしたが なんとなく、お二人の間には、見えない溝があったような気がしましたね。

男兄弟というものがそういうものなのか、どちらとも上に立つ立場だからなのか、そんなふうにも考えましたけれどね。


「深雪、ほら。」

一緒に呑んでいる時は、いつも決まって紳太郎様が、お酒を注いでくれました。

「しかしこうしていると、本当に姉弟みたいだな。」

「そうですか?」

「ああ……13の頃から俺の面倒を、見てくれているからかな。近くに住んでいる姉の元へ、訪ねているようだよ。」

「ふふふ。」

「ところで、姉さん。」

「何でしょう?」

紳太郎様の冗談に、乗ったつもりでした。


「今、幸せか?」

紳太郎様の質問は、いつも突然でした。

「ええ…幸せですよ。一体どうしたんですか?」

紳太郎様は、穏やかな顔で話し始めました。

「深雪は…結婚も断って、真木家に仕えてくれているだろう?もし、この家に来なかったら、人並みの幸せも手に入ったのにと、思わないのかなってね。」

「結婚は……縁がなかったのです。いいんですよ、私は今のままで。」

「そうか……それなら、いつまでもこうして、深雪を酒を酌み交わせるなあ……」

「そう…ですね……」

その日は珍しく、二人で夜更けまで、お酒を飲んでいましたね。



幼い頃、女の幸せは結婚して子供を産むことだと、母から聞かされていました。

ですが私は社会に出て、別の幸せもあるという事を知ったんです。

好きな人と、自分の想う人と、こうして二人だけでお酒を酌み交わす。



ええ、そうです。

それが私の、幸せだったんですよ。
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