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雨あがり
①
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―――――それから3年後……
「階堂さん。お客様がお見えですよ。」
事務員の女の子に声を掛けられ、パソコンのキーボードを打つ手を止めた。
「あちらの方です。」
女の子の指さす方を見ると、数日前に営業で回った近所の和食屋を営む夫婦が来ていた。
「ありがとう。」
急いで席を立つと、応接室にそのご夫婦を迎えた。
「佐藤さん。会社に来て下さるなんて、有難うございます。連絡を頂ければ、こちらからお伺いしましたのに。」
「ああ、いいんだいいんだ。実際の物も見てみたかったから。」
そう言って、ご主人は会社の入口に飾ってある小さなショールームを見た。
「今回の改装、椅子やテーブルは階堂さんとこの会社に任せようと思ってね。」
「ありがとうございます!!」
俺は嬉しさのあまり、勢いよく頭を下げた。
「うちは小さな店舗でしょう?だから高級感を出すよりも、階堂さんのおっしゃる通りアットホームな感じにしましょうって、主人とも話してたよ。」
「そう仰って頂けて、嬉しいです。」
俺の言葉に、そのご夫婦も満足そうな笑みを浮かべてくれた。
「階堂さんの家も、さぞかしホッとするようなお家なんでしょうね。」
奥さんが親しげにそう言ってきた。
「いえ。しがない一人暮らしですから。寂しいものですよ。」
「あら。ご結婚されていないの?」
「ええ。まだ独身です。」
「そんないい歳して独身とはな。いいなぁと思う人はいなかったのか?」
夫婦揃って、心配そうに俺を見ている。
まるで遠くに住む親戚のようだ。
「いました。とびっきりいいなぁと思う人がね。でも振られてしまいました。」
「まあ。お気の毒に。」
奥さんのそのセリフに、会社の同僚からクスクス笑い声が聞こえてくる。
そんな事にも、最近は慣れてきた。
俺の客になる人は大抵、俺が独身だと聞くと、同じセリフを言うからだ。
「では、2、3日のうちに見積書を持って、お伺いします。」
「ああ、頼むよ。」
俺は会社の出口まで、そのご夫婦を見送った。
席に戻った後、事務員の女の子が笑いながら、応接室を片づけてくれた。
「またあのセリフ言われてましたね。階堂さん。」
「仕方ないよ。事実なんだから。」
早速あのご夫婦の為の、見積書を計算する。
「階堂さん、この会社に来る前は、ご自分で会社を経営されてたんでしょう?」
隣の女の子が、しゃしゃり出てきた。
「ああ、そうだよ。」
「じゃあ、社長さんだったの?」
「そうなるかな。」
そこで近くからキャーという声が飛び交う。
「それじゃあ、女なんてより取り見取りじゃないですか。」
若い同僚が、からかいついでに言ってきた。
「まさか!仕事仕事で女と遊んでる暇なんて、なかったよ。」
「へえ~」
若い奴らに混ざって、一から営業をするのは、正直大変だと思ったが、この環境にも慣れた。
あれから出会いがなかったわけじゃないけれど、心のどこかで美雨の事が気になって、恋愛には踏み切れなかった。
あの日―――
美雨といつも通りに別れた後、菜摘さんが神妙な顔つきで、俺の部屋に入ってきた。
「美雨さん、何か言ってた?」
「ん?何かって?」
「愛してるとか……」
俺は力が抜けた。
「そんな言葉、いつも言ってるからなぁ。」
菜摘さんに当てつけるかのように言ったのに、聞こえてきたのは、彼女の鼻をすする音だった。
「菜摘さん?」
そして彼女は、俺に泣きながらこう言った。
「美雨さん。あなたにお別れを言う為に、ここに来たのよ。」
ワカレヲ イウタメニ?
何も考えずに、気づいたら部屋を出て、エレベータのボタンを押していた。
今なら間に合う。
だが無常にも、エレベーターはなかなか最上階まで来なくて、イライラしながら何度も何度もボタンを押した。
「階堂さん!」
見かねた菜摘さんが、俺の腕を掴んだ。
「彼女の気持ちもわかってあげて。」
「美雨の気持ちって何だよ!」
「美雨さん、あなたの今の姿を見て、別れを決心したのよ。」
胸がズキッと痛んだ。
「今のあなた…あなたらしくないって。階堂さんにはもっと生き生きと仕事をしてほしいのよ!!」
足の力が抜けて、まだ来ないエレベーターの前に、しゃがみ込んだ。
「私もこれ以上、あなたの苦しむ姿を見たくないわ。もう終わりにしましょう?」
俺が苦しんでる?
そうだ。
確かに俺は苦しくて、いつもいつももがいている。
だけどそれは、他の誰でもなく……
美雨を幸せにしてやりたくて。
「ごめん。」
俺は菜摘さんに謝ると、立ち上がって非常階段への扉を開き、一気に階段を駆け降りた。
「階堂さん!」
遥か遠くで菜摘さんの声がしたけれど、構っている暇はなかった。
今、走らなければ、俺は一番大切なモノを失ってしまう。
待ってくれ。
俺を置いて、一人で行かないでくれ。
そんな祈る気持ちで、夢中で階段を降りた。
やっと会社の外に出たと思ったら、いつの間にか雨が降っていた。
チャンスだと思った。
この雨ならそう遠くへは行けないはずだ。
「美雨?どこにいる?美雨!」
横から後ろまで、見える範囲をグルグル回りながら、美雨を探した。
「美雨!美雨!!」
もう気が狂いそうだった。
あんなに愛してると囁きあったのに。
あんなに二人は傍にいたのに。
たったあれだけの言葉で、俺の元を離れて行くなんて。
「美雨!どこにいるんだ!!返事をしろ!!!」
返ってこない声が、余計に俺を虚しくさせた。
「どうして……!さっきも俺の事を愛してるって言ったのに!どうしていなくなったり……するんだよ!」
ありったけの想いを口にして、俺はその場に倒れ込んだ。
胸の中に、ぽっかりと穴が開く。
もう何も考えられない。
「階堂さん……」
代わりに聞こえてきたのは、菜摘さんの声だった。
「もう帰りましょう。」
菜摘さんに導かれるように、また会社のビルに入り、エレベータに乗って、部屋に戻った。
さっきまで真剣に向き合っていた書類が、今はただの紙切れに見えた。
俺は一体、何をしてたんだろう。
寝る間も惜しんで。
次々と会社を離れて行く部下達を見ながら、がむしゃらに働いて。
資金が無くなれば、下げたくもない奴らにも頭を下げて。
誰に何を言われても、頑張れたのは美雨のおかげだったと言うのに。
「はははっ…今の俺を見たくない?」
チラッと棚のガラスに映った自分を見ると、むさ苦しいオヤジが、一人そこにいた。
「本当だ。誰がこんな男、相手にするんだよ。」
ヨレヨレのシャツで、目から溢れそうになる涙を拭った。
その時、後ろから誰かに抱き締められた。
「階堂さん。私がいるわよ。」
菜摘さんだった。
「私があなたの傍にいるわ。」
彼女の体は震えていた。
どうして君は、震えてる?
いつもなら聞くこともできるのに、その時はそんな気力もなかった。
「階堂さん。お客様がお見えですよ。」
事務員の女の子に声を掛けられ、パソコンのキーボードを打つ手を止めた。
「あちらの方です。」
女の子の指さす方を見ると、数日前に営業で回った近所の和食屋を営む夫婦が来ていた。
「ありがとう。」
急いで席を立つと、応接室にそのご夫婦を迎えた。
「佐藤さん。会社に来て下さるなんて、有難うございます。連絡を頂ければ、こちらからお伺いしましたのに。」
「ああ、いいんだいいんだ。実際の物も見てみたかったから。」
そう言って、ご主人は会社の入口に飾ってある小さなショールームを見た。
「今回の改装、椅子やテーブルは階堂さんとこの会社に任せようと思ってね。」
「ありがとうございます!!」
俺は嬉しさのあまり、勢いよく頭を下げた。
「うちは小さな店舗でしょう?だから高級感を出すよりも、階堂さんのおっしゃる通りアットホームな感じにしましょうって、主人とも話してたよ。」
「そう仰って頂けて、嬉しいです。」
俺の言葉に、そのご夫婦も満足そうな笑みを浮かべてくれた。
「階堂さんの家も、さぞかしホッとするようなお家なんでしょうね。」
奥さんが親しげにそう言ってきた。
「いえ。しがない一人暮らしですから。寂しいものですよ。」
「あら。ご結婚されていないの?」
「ええ。まだ独身です。」
「そんないい歳して独身とはな。いいなぁと思う人はいなかったのか?」
夫婦揃って、心配そうに俺を見ている。
まるで遠くに住む親戚のようだ。
「いました。とびっきりいいなぁと思う人がね。でも振られてしまいました。」
「まあ。お気の毒に。」
奥さんのそのセリフに、会社の同僚からクスクス笑い声が聞こえてくる。
そんな事にも、最近は慣れてきた。
俺の客になる人は大抵、俺が独身だと聞くと、同じセリフを言うからだ。
「では、2、3日のうちに見積書を持って、お伺いします。」
「ああ、頼むよ。」
俺は会社の出口まで、そのご夫婦を見送った。
席に戻った後、事務員の女の子が笑いながら、応接室を片づけてくれた。
「またあのセリフ言われてましたね。階堂さん。」
「仕方ないよ。事実なんだから。」
早速あのご夫婦の為の、見積書を計算する。
「階堂さん、この会社に来る前は、ご自分で会社を経営されてたんでしょう?」
隣の女の子が、しゃしゃり出てきた。
「ああ、そうだよ。」
「じゃあ、社長さんだったの?」
「そうなるかな。」
そこで近くからキャーという声が飛び交う。
「それじゃあ、女なんてより取り見取りじゃないですか。」
若い同僚が、からかいついでに言ってきた。
「まさか!仕事仕事で女と遊んでる暇なんて、なかったよ。」
「へえ~」
若い奴らに混ざって、一から営業をするのは、正直大変だと思ったが、この環境にも慣れた。
あれから出会いがなかったわけじゃないけれど、心のどこかで美雨の事が気になって、恋愛には踏み切れなかった。
あの日―――
美雨といつも通りに別れた後、菜摘さんが神妙な顔つきで、俺の部屋に入ってきた。
「美雨さん、何か言ってた?」
「ん?何かって?」
「愛してるとか……」
俺は力が抜けた。
「そんな言葉、いつも言ってるからなぁ。」
菜摘さんに当てつけるかのように言ったのに、聞こえてきたのは、彼女の鼻をすする音だった。
「菜摘さん?」
そして彼女は、俺に泣きながらこう言った。
「美雨さん。あなたにお別れを言う為に、ここに来たのよ。」
ワカレヲ イウタメニ?
何も考えずに、気づいたら部屋を出て、エレベータのボタンを押していた。
今なら間に合う。
だが無常にも、エレベーターはなかなか最上階まで来なくて、イライラしながら何度も何度もボタンを押した。
「階堂さん!」
見かねた菜摘さんが、俺の腕を掴んだ。
「彼女の気持ちもわかってあげて。」
「美雨の気持ちって何だよ!」
「美雨さん、あなたの今の姿を見て、別れを決心したのよ。」
胸がズキッと痛んだ。
「今のあなた…あなたらしくないって。階堂さんにはもっと生き生きと仕事をしてほしいのよ!!」
足の力が抜けて、まだ来ないエレベーターの前に、しゃがみ込んだ。
「私もこれ以上、あなたの苦しむ姿を見たくないわ。もう終わりにしましょう?」
俺が苦しんでる?
そうだ。
確かに俺は苦しくて、いつもいつももがいている。
だけどそれは、他の誰でもなく……
美雨を幸せにしてやりたくて。
「ごめん。」
俺は菜摘さんに謝ると、立ち上がって非常階段への扉を開き、一気に階段を駆け降りた。
「階堂さん!」
遥か遠くで菜摘さんの声がしたけれど、構っている暇はなかった。
今、走らなければ、俺は一番大切なモノを失ってしまう。
待ってくれ。
俺を置いて、一人で行かないでくれ。
そんな祈る気持ちで、夢中で階段を降りた。
やっと会社の外に出たと思ったら、いつの間にか雨が降っていた。
チャンスだと思った。
この雨ならそう遠くへは行けないはずだ。
「美雨?どこにいる?美雨!」
横から後ろまで、見える範囲をグルグル回りながら、美雨を探した。
「美雨!美雨!!」
もう気が狂いそうだった。
あんなに愛してると囁きあったのに。
あんなに二人は傍にいたのに。
たったあれだけの言葉で、俺の元を離れて行くなんて。
「美雨!どこにいるんだ!!返事をしろ!!!」
返ってこない声が、余計に俺を虚しくさせた。
「どうして……!さっきも俺の事を愛してるって言ったのに!どうしていなくなったり……するんだよ!」
ありったけの想いを口にして、俺はその場に倒れ込んだ。
胸の中に、ぽっかりと穴が開く。
もう何も考えられない。
「階堂さん……」
代わりに聞こえてきたのは、菜摘さんの声だった。
「もう帰りましょう。」
菜摘さんに導かれるように、また会社のビルに入り、エレベータに乗って、部屋に戻った。
さっきまで真剣に向き合っていた書類が、今はただの紙切れに見えた。
俺は一体、何をしてたんだろう。
寝る間も惜しんで。
次々と会社を離れて行く部下達を見ながら、がむしゃらに働いて。
資金が無くなれば、下げたくもない奴らにも頭を下げて。
誰に何を言われても、頑張れたのは美雨のおかげだったと言うのに。
「はははっ…今の俺を見たくない?」
チラッと棚のガラスに映った自分を見ると、むさ苦しいオヤジが、一人そこにいた。
「本当だ。誰がこんな男、相手にするんだよ。」
ヨレヨレのシャツで、目から溢れそうになる涙を拭った。
その時、後ろから誰かに抱き締められた。
「階堂さん。私がいるわよ。」
菜摘さんだった。
「私があなたの傍にいるわ。」
彼女の体は震えていた。
どうして君は、震えてる?
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