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第四章 月齢27.5
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そもそもから言って、私が、というより私を含む医療チームが欧州大戦に派遣されたのは、傷病兵の手当てをするためではなく、急速に使用が広まる生化学兵器の実情を調査する事であった。
少し前までの私にとって、生化学兵器は非常に魅力的だった。安価で、建築物その他に損傷を与えず、兵士だけを無力化できるコスト的にも倫理的にも非常に優れた兵器だと思っていたからだ。もちろん、実際の生化学兵器はそんな都合よいものではなく、また倫理的に良いどころか、非常に残忍で倫理的にも問題のある兵器だと、今では理解している。欧州大戦に参戦した経験は、私のマインドセットをそのように変化させるには充分過ぎるほどに過酷であったが、同時に私は、改良を施して倫理面の問題を何とかすれば、これは非常にコストに優れ、また効果的な兵器であろうという理解も植え付けた。
だから、私は『ウェンディゴ症候群』の調査員募集に手を上げたのだ。生化学兵器の倫理上の問題は、戦闘員と非戦闘員の区別がつかない事と、苦痛が長引く事である。ならば、選択的に効果が出るような仕組みに出来れば?『ウェンディゴ症候群』は、私にはそれにうってつけの感染病であると思えたのだ。つまり、例えば一個大隊の中に数名の『ウェンディゴ症候群』患者が発生し、制服を着用した軍人のみをその爪と牙で殺害し始めたとしたら?患者つまり感染者自身が襲う相手を選択し、必ずとどめをさしてくれたなら?前述の問題点の多くは、解決したも同然となる。
だから、私は、その研究を進めるために、生きた患者を調査し、死んだ患者からも資料を、血液や髄液、肉片や粘膜片などを収集してまわっていたのだ。
罪深い行為であるとか、人の道にもとる行為であるとか、そういう事は、今の今まで思った事はなかった。合衆国の国益のため、我が陸軍の戦力の向上の為、それすらも私には口実に過ぎなかった。
私はただ、研究し、成果を得たかったのだ。完成させたかったのだ。新兵器を。画期的な、生化学兵器を。1発で、大隊規模あるいはそれ以上の軍集団を無力化でき、そして安価で安全で運用の簡単な新兵器を。
私は、傲慢で、欲深い、罪人だ。
その時の事は、よく覚えていない。しかし私は、そのような事を堰を切ったように彼に語ったに違いない。ただ闇の中で、心に煮こごっていた何かを洗いざらい吐き出したような、爽快感ではない脱力感だけが残っている。きっと、暗闇の中で会話する事で、私の意識が内側に向いた事に関係しているのだと思う。とにかく、私は彼に私の調査の理由を語ってしまった。欧州大戦の調査の折、生化学兵器によって酷いびらん症状を起こした帝政ドイツ軍の、後方の補給部隊所属の老兵士から、楽にしてくれた礼だと言って彼の古い小銃、彼が普仏戦争に従軍した折の記念に持っていた、単発の時代遅れの小銃を譲り受けた事も。その彼に私が施した施術は、致死量のモルヒネを射つ事だけだった事も。
はっきりした事は覚えていないが、私はその時の事を思い出し、涙を流していたのかも知れなかった。
ずっと忘れていた、心の中にこびりついた汚泥のような記憶を、私はその時、久しぶりに思い出していた。
「なるほど……いや、大変興味深いお話しを聞かせていただきました」
私が言葉を切り、嗚咽を噛みしめていると、彼はそう切り出した。
「なるほど、なんとも痛ましいお話しでした。モーリーさん、きっとあなたは、色々な物を見て、聞いて、色々な経験をされたのでしょう。実に痛ましい経験をされたのだと思います……ですが、残念な事に、感情というものを、どうにも私は持ち合わせていないようでして。きっと、痛ましい経験をされたのだろう、そう頭では理解出来るのです。ですが、他人の心に共感する、共に笑ったり、泣いたりという部分が、どうやら私にはからっきし欠けているようなのです。だから、そうなのです、正直申し上げて、私はあなたの気持ちというのが、何をそんなに哀しんでいるのか、何がそうさせたのかが、理解出来ません。ですが、あなたの心が大変に乱れているのは理解出来ました」
彼の、私の手を握る力が強まった。
「ありがとうございます、モーリーさん。あなたの告白は、そんな私に、参考になるエピソードでした。あなたのおかげで、私はまた一つ、人間の感情というものを知る事が出来た。こういう時に人は哀しむんだと、学習する事が出来ました。お礼を申し上げます」
言いながら、彼は私の前に片膝をつき、私の顔を見上げた。
その顔は、まったくもって無邪気な、満面の笑みだった。
普通なら、何を笑っているのかと憤る場面だろう。しかし、その時の私は、憤る事など思いつきもせず、ただ、その笑顔に魅せられてしまっていた。
それほどまでに、彼の無邪気な笑顔は、魅力的、いや、蠱惑的だった。
その蠱惑的な笑顔が、真っ暗闇の中でも、くっきりと、私の網膜に焼き付いていた。
「そして、私にとって重要な手がかりも得られました。そのメーリングという村で雑貨屋をしているという娘さんは、どうやら私が探している人の関係者で間違いないようです」
彼は、私の手を握る力を緩めた。
「私は、モーリーさん、あなたに何かお返しを差し上げなければなりません。誠意を見せなければ、紳士として風上にも置けない、そういうものなのでしょう?これだけ色々と戴いたのです、ギブ&テイクと言うやつです。約束や誠意は、守ってこそ意味のあるもの。そうでしょう?」
彼の足音が闇の中に聞こえる。窓の方に向かっているようだ。
「金銀財宝を差し上げてもよいのですが、あなたはそんなものより、この世界の真理についての知識を得る事を望む人に思えます。なので、私は、あなたが『ウェンディゴ症候群』と呼ぶものについて、その正体をお教え出来るかもしれません。お知りになりたいでしょう?」
「あ、ああ、勿論です」
虚を突かれ、私は慌てて答えた。彼が、それを知っていると言うのか?
「あなたがそれを理解出来るかどうか、私には分かりませんが、後ほどまた迎えに参ります、案内を連れて」
彼は、窓に手をかけたようだ。雪と風が暴れる音を伝える漆黒の窓硝子が揺れ、鍵を開ける音がそこに付け加わった。
「そうと決まれば、私は用意があるのでこれでお暇します。手伝いを残す事は出来ませんので、御容赦下さい」
「手伝い?」
「……人間は、このような手伝いの者を使役するのでしょう?」
その声は、確かに今まで彼がいた場所から聞こえてきた。しかし、それは明らかに、あの老婆の声だった。
私は、闇に目をこらした。しかし、この暗闇で何かが見えるはずもない。私は咄嗟に、手近なランプを点けようと手を伸ばした。
「なかなか上手でしたでげしょう?旦那様、勉強したんでげすよ」
同じ所から、今度はあの下男の声。芝居がかった、へりくだった奴隷のような言い回し。
私は、震える手でランプの火屋を開け、マッチを擦った。燐の発火する一瞬の強い光の中、視界の隅で私は見た。下男だったものが、彼の姿に変わる、その途中のたった一瞬を。
しかし、その一瞬だけで、私は理解してしまった。彼は、人ではなかったのだ、と。彼の肌も、服も、全ては別な何かがそう見えているだけなのだ、と。顔ですらただ外見だけであって、目も鼻も口も、色も形も確かにそうであっても、そこにはなんの機能も無いのだと。無限の闇をその目がたたえるのも当然だろう、それはそもそも目ですらないのだから。ただそれは、無数の細い蔓状の何かが寄り集まり、隙間無くそのような形と色になっているだけなのだ、と。
私は、目が見て、脳が認識したそれを理解したくはなかった。しかし、見てしまった以上、脳が理解するのを止める手段は、私は持っていなかった。
取り落としたマッチが消える寸前に、彼はほんの少しだけ開けた窓の隙間から染み出るように消え失せた。私は、呼吸する事すら忘れて、その一点を見つめ続けていた。
「……あれは……一体……」
どれほど後だったか、幸運にも私の肺が呼吸する事を思い出した時、私は荒い息が落ち着くのも待たず、呟いた。
呟きながら、私は理解していた。彼は、最初からここに居た、私を待っていたのだと。私には見えも、聞こえもしなかっただけで、我々の物理現象の認識の外に、彼は存在していたのだと。
そうだ、彼こそが、我々の科学の限界を示す証拠そのものであり、彼は、我々にとって全ての意味で未知の存在なのだ、と。
「だから言ったのです」
テーブルの上の、ミスタ・ニーマントのペンダント、彼が輝かない多面体と呼んだ鉱物が、言った。
「ここには、あなた以外、人間は誰もいないと」
あれからどれくらいの時間が経ったか、ひたすらにこのメモを書いていた私は、既に時間の間隔を失っている。だが、いいところ数時間であろうとは思う。
そして今、私の前に、彼が案内と呼んだ何者かが到着したようだ。
筆を置く前に、記載しておく。それは恐らく、この一帯に吹きすさぶ吹雪そのものであると同時に巨大な人型であり、赤黒く光る双眸が、先ほどから私を見つめているのだ。
そして、私は聞いた。いや、今も聞いている。この吹雪の中、確かに聞こえるそれは、あの聞き覚えのある、ベイフィールド半島の先端部で聞いたフルートの音色だ。付け加えるならば、以前よりはその音は音楽らしくなっているのが、私には妙に可笑しかった。
そして、その双眸が窓の外にあり、フルートの音色が聞こえる事に気付いた時、同時に私も気付いた。我々の隣には、常にこのような目に見えぬ隣人が居たのだ、と。我々の物理化学知識にも、それに基づいた認識にも限界があり、しかし、世界はその外にも続いているのだと。
私は、これからきっと、それを体験するのだろう。魔法使いと呼ばれる者達が、自己研鑚の末にたどり着いたであろう、その領域を体験するのだ。研鑽を積んでいない私がそれを体験すればどうなるか、研鑽を積む意味さえ理解していない私がそれを体験し理解し得るのか、分からない。
だが、私は知りたい。神よ、知識欲の権化たるこの私を許し給え。私は、自分の知識欲のために欧州大戦で戦傷者を、この地では『ウェンディゴ症候群』の感染者をもてあそび、さらにはこの数日で協力者と、いたいけな少女達の好意をも踏みにじった外道だ。それでも、知識欲は私にとって何よりも優先され、そして私は好奇心を抑える事が出来ないのだ。
きっと私はこの先いつか、近い将来、何らかの形で神罰を、酷い破滅を迎えるだろう。だが、出来る事ならその前に、何らかの形で私の知り得た事を誰かに伝えたいと願う。私は知識欲の権化であると同時に、私の知った事を誰かに伝え、私が成した事を知って欲しい、自己顕示欲の権化でもあるようだ。そして、このメモは、その最初の一歩であるのだ。
このメモを読んだ者に、再度、お願いする。
あなたがこれを読んでいるという事は、私はここに居ないという事だろう。その場合、私は今後ここに戻って来る保証も無いと思う。
あなたには、ここに書かれた一切を忘れる事をお勧めする。その上で、私はあなたに、このメモを軍に届けていただけるようお願いする。届けていただけるなら、謝礼として、私が宿舎に残した私財の一切をあなたに譲る事をここに約束する。
ああ、ドアの外で彼の呼ぶ声がする。私は、もう行かなくてはならない。
これを読んだあなたに、そして願わくば、私自身にも、幸運のあらん事を。
1925年1月22日深夜 アメリカ合衆国陸軍軍医大尉 オーガスト・モーリーが記す。
少し前までの私にとって、生化学兵器は非常に魅力的だった。安価で、建築物その他に損傷を与えず、兵士だけを無力化できるコスト的にも倫理的にも非常に優れた兵器だと思っていたからだ。もちろん、実際の生化学兵器はそんな都合よいものではなく、また倫理的に良いどころか、非常に残忍で倫理的にも問題のある兵器だと、今では理解している。欧州大戦に参戦した経験は、私のマインドセットをそのように変化させるには充分過ぎるほどに過酷であったが、同時に私は、改良を施して倫理面の問題を何とかすれば、これは非常にコストに優れ、また効果的な兵器であろうという理解も植え付けた。
だから、私は『ウェンディゴ症候群』の調査員募集に手を上げたのだ。生化学兵器の倫理上の問題は、戦闘員と非戦闘員の区別がつかない事と、苦痛が長引く事である。ならば、選択的に効果が出るような仕組みに出来れば?『ウェンディゴ症候群』は、私にはそれにうってつけの感染病であると思えたのだ。つまり、例えば一個大隊の中に数名の『ウェンディゴ症候群』患者が発生し、制服を着用した軍人のみをその爪と牙で殺害し始めたとしたら?患者つまり感染者自身が襲う相手を選択し、必ずとどめをさしてくれたなら?前述の問題点の多くは、解決したも同然となる。
だから、私は、その研究を進めるために、生きた患者を調査し、死んだ患者からも資料を、血液や髄液、肉片や粘膜片などを収集してまわっていたのだ。
罪深い行為であるとか、人の道にもとる行為であるとか、そういう事は、今の今まで思った事はなかった。合衆国の国益のため、我が陸軍の戦力の向上の為、それすらも私には口実に過ぎなかった。
私はただ、研究し、成果を得たかったのだ。完成させたかったのだ。新兵器を。画期的な、生化学兵器を。1発で、大隊規模あるいはそれ以上の軍集団を無力化でき、そして安価で安全で運用の簡単な新兵器を。
私は、傲慢で、欲深い、罪人だ。
その時の事は、よく覚えていない。しかし私は、そのような事を堰を切ったように彼に語ったに違いない。ただ闇の中で、心に煮こごっていた何かを洗いざらい吐き出したような、爽快感ではない脱力感だけが残っている。きっと、暗闇の中で会話する事で、私の意識が内側に向いた事に関係しているのだと思う。とにかく、私は彼に私の調査の理由を語ってしまった。欧州大戦の調査の折、生化学兵器によって酷いびらん症状を起こした帝政ドイツ軍の、後方の補給部隊所属の老兵士から、楽にしてくれた礼だと言って彼の古い小銃、彼が普仏戦争に従軍した折の記念に持っていた、単発の時代遅れの小銃を譲り受けた事も。その彼に私が施した施術は、致死量のモルヒネを射つ事だけだった事も。
はっきりした事は覚えていないが、私はその時の事を思い出し、涙を流していたのかも知れなかった。
ずっと忘れていた、心の中にこびりついた汚泥のような記憶を、私はその時、久しぶりに思い出していた。
「なるほど……いや、大変興味深いお話しを聞かせていただきました」
私が言葉を切り、嗚咽を噛みしめていると、彼はそう切り出した。
「なるほど、なんとも痛ましいお話しでした。モーリーさん、きっとあなたは、色々な物を見て、聞いて、色々な経験をされたのでしょう。実に痛ましい経験をされたのだと思います……ですが、残念な事に、感情というものを、どうにも私は持ち合わせていないようでして。きっと、痛ましい経験をされたのだろう、そう頭では理解出来るのです。ですが、他人の心に共感する、共に笑ったり、泣いたりという部分が、どうやら私にはからっきし欠けているようなのです。だから、そうなのです、正直申し上げて、私はあなたの気持ちというのが、何をそんなに哀しんでいるのか、何がそうさせたのかが、理解出来ません。ですが、あなたの心が大変に乱れているのは理解出来ました」
彼の、私の手を握る力が強まった。
「ありがとうございます、モーリーさん。あなたの告白は、そんな私に、参考になるエピソードでした。あなたのおかげで、私はまた一つ、人間の感情というものを知る事が出来た。こういう時に人は哀しむんだと、学習する事が出来ました。お礼を申し上げます」
言いながら、彼は私の前に片膝をつき、私の顔を見上げた。
その顔は、まったくもって無邪気な、満面の笑みだった。
普通なら、何を笑っているのかと憤る場面だろう。しかし、その時の私は、憤る事など思いつきもせず、ただ、その笑顔に魅せられてしまっていた。
それほどまでに、彼の無邪気な笑顔は、魅力的、いや、蠱惑的だった。
その蠱惑的な笑顔が、真っ暗闇の中でも、くっきりと、私の網膜に焼き付いていた。
「そして、私にとって重要な手がかりも得られました。そのメーリングという村で雑貨屋をしているという娘さんは、どうやら私が探している人の関係者で間違いないようです」
彼は、私の手を握る力を緩めた。
「私は、モーリーさん、あなたに何かお返しを差し上げなければなりません。誠意を見せなければ、紳士として風上にも置けない、そういうものなのでしょう?これだけ色々と戴いたのです、ギブ&テイクと言うやつです。約束や誠意は、守ってこそ意味のあるもの。そうでしょう?」
彼の足音が闇の中に聞こえる。窓の方に向かっているようだ。
「金銀財宝を差し上げてもよいのですが、あなたはそんなものより、この世界の真理についての知識を得る事を望む人に思えます。なので、私は、あなたが『ウェンディゴ症候群』と呼ぶものについて、その正体をお教え出来るかもしれません。お知りになりたいでしょう?」
「あ、ああ、勿論です」
虚を突かれ、私は慌てて答えた。彼が、それを知っていると言うのか?
「あなたがそれを理解出来るかどうか、私には分かりませんが、後ほどまた迎えに参ります、案内を連れて」
彼は、窓に手をかけたようだ。雪と風が暴れる音を伝える漆黒の窓硝子が揺れ、鍵を開ける音がそこに付け加わった。
「そうと決まれば、私は用意があるのでこれでお暇します。手伝いを残す事は出来ませんので、御容赦下さい」
「手伝い?」
「……人間は、このような手伝いの者を使役するのでしょう?」
その声は、確かに今まで彼がいた場所から聞こえてきた。しかし、それは明らかに、あの老婆の声だった。
私は、闇に目をこらした。しかし、この暗闇で何かが見えるはずもない。私は咄嗟に、手近なランプを点けようと手を伸ばした。
「なかなか上手でしたでげしょう?旦那様、勉強したんでげすよ」
同じ所から、今度はあの下男の声。芝居がかった、へりくだった奴隷のような言い回し。
私は、震える手でランプの火屋を開け、マッチを擦った。燐の発火する一瞬の強い光の中、視界の隅で私は見た。下男だったものが、彼の姿に変わる、その途中のたった一瞬を。
しかし、その一瞬だけで、私は理解してしまった。彼は、人ではなかったのだ、と。彼の肌も、服も、全ては別な何かがそう見えているだけなのだ、と。顔ですらただ外見だけであって、目も鼻も口も、色も形も確かにそうであっても、そこにはなんの機能も無いのだと。無限の闇をその目がたたえるのも当然だろう、それはそもそも目ですらないのだから。ただそれは、無数の細い蔓状の何かが寄り集まり、隙間無くそのような形と色になっているだけなのだ、と。
私は、目が見て、脳が認識したそれを理解したくはなかった。しかし、見てしまった以上、脳が理解するのを止める手段は、私は持っていなかった。
取り落としたマッチが消える寸前に、彼はほんの少しだけ開けた窓の隙間から染み出るように消え失せた。私は、呼吸する事すら忘れて、その一点を見つめ続けていた。
「……あれは……一体……」
どれほど後だったか、幸運にも私の肺が呼吸する事を思い出した時、私は荒い息が落ち着くのも待たず、呟いた。
呟きながら、私は理解していた。彼は、最初からここに居た、私を待っていたのだと。私には見えも、聞こえもしなかっただけで、我々の物理現象の認識の外に、彼は存在していたのだと。
そうだ、彼こそが、我々の科学の限界を示す証拠そのものであり、彼は、我々にとって全ての意味で未知の存在なのだ、と。
「だから言ったのです」
テーブルの上の、ミスタ・ニーマントのペンダント、彼が輝かない多面体と呼んだ鉱物が、言った。
「ここには、あなた以外、人間は誰もいないと」
あれからどれくらいの時間が経ったか、ひたすらにこのメモを書いていた私は、既に時間の間隔を失っている。だが、いいところ数時間であろうとは思う。
そして今、私の前に、彼が案内と呼んだ何者かが到着したようだ。
筆を置く前に、記載しておく。それは恐らく、この一帯に吹きすさぶ吹雪そのものであると同時に巨大な人型であり、赤黒く光る双眸が、先ほどから私を見つめているのだ。
そして、私は聞いた。いや、今も聞いている。この吹雪の中、確かに聞こえるそれは、あの聞き覚えのある、ベイフィールド半島の先端部で聞いたフルートの音色だ。付け加えるならば、以前よりはその音は音楽らしくなっているのが、私には妙に可笑しかった。
そして、その双眸が窓の外にあり、フルートの音色が聞こえる事に気付いた時、同時に私も気付いた。我々の隣には、常にこのような目に見えぬ隣人が居たのだ、と。我々の物理化学知識にも、それに基づいた認識にも限界があり、しかし、世界はその外にも続いているのだと。
私は、これからきっと、それを体験するのだろう。魔法使いと呼ばれる者達が、自己研鑚の末にたどり着いたであろう、その領域を体験するのだ。研鑽を積んでいない私がそれを体験すればどうなるか、研鑽を積む意味さえ理解していない私がそれを体験し理解し得るのか、分からない。
だが、私は知りたい。神よ、知識欲の権化たるこの私を許し給え。私は、自分の知識欲のために欧州大戦で戦傷者を、この地では『ウェンディゴ症候群』の感染者をもてあそび、さらにはこの数日で協力者と、いたいけな少女達の好意をも踏みにじった外道だ。それでも、知識欲は私にとって何よりも優先され、そして私は好奇心を抑える事が出来ないのだ。
きっと私はこの先いつか、近い将来、何らかの形で神罰を、酷い破滅を迎えるだろう。だが、出来る事ならその前に、何らかの形で私の知り得た事を誰かに伝えたいと願う。私は知識欲の権化であると同時に、私の知った事を誰かに伝え、私が成した事を知って欲しい、自己顕示欲の権化でもあるようだ。そして、このメモは、その最初の一歩であるのだ。
このメモを読んだ者に、再度、お願いする。
あなたがこれを読んでいるという事は、私はここに居ないという事だろう。その場合、私は今後ここに戻って来る保証も無いと思う。
あなたには、ここに書かれた一切を忘れる事をお勧めする。その上で、私はあなたに、このメモを軍に届けていただけるようお願いする。届けていただけるなら、謝礼として、私が宿舎に残した私財の一切をあなたに譲る事をここに約束する。
ああ、ドアの外で彼の呼ぶ声がする。私は、もう行かなくてはならない。
これを読んだあなたに、そして願わくば、私自身にも、幸運のあらん事を。
1925年1月22日深夜 アメリカ合衆国陸軍軍医大尉 オーガスト・モーリーが記す。
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❇❇❇❇❇❇❇❇❇
2024年10月追記
お読みいただき、ありがとうございます。
こちらの作品は完結しておりますが、10月20日より「番外編 バストリー・アルマンの事情」を追加投稿致しますので、一旦、表記が連載中になります。ご了承ください。
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