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第三章 月齢26.5
304
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「いやいやいやいや!あり得ないでしょ!」
ユモの言葉を聞いて、即座にユキが言い返す。
「あんたみたいな体力無しが雪ん中歩いて馬追っかけるとかマジあり得ないっしょ!雪なめてんの?」
「うるさいわね!雪くらい知ってるわよ!あたしの家の周りだって、これくらい降るもの!」
「じゃあなおさらよ!こないだだって、熊のところ行っただけで顎出してるあんたが馬追っかけられるわけないでしょ!」
「行くもん!行くったら行くんだから!」
「まあまあまあま。二人とも、落ち着いて」
売り言葉に買い言葉から始まって、早くも水掛け論の様相を呈してきた娘同士の言い争いに、たまらずスティーブが口を挟むが、同時に振り向いた双方からものすごい眼力で見据えられてしまい、思わず寝床の上で半身ほど体を引いた。
「歩いて追うってのは賛成出来ない。体力以前の問題だ」
チャックが、冷静な声で意見を述べる。
「そうとも。大体、ジュモー、君は大尉がどこに向かっているか、わかっているのかい?」
「ジュノー郡の陸軍の基地でしょ!ここから真南に馬で五日!ちゃんと覚えてるわ!」
「その馬で五日を、人の足で追うつもりかい?」
「五日もいらないわ!すぐ追いついてみせるわよ!」
あくまでユモは主張を曲げようとはしない。
「無理だ。途中には沼沢地がある。一つの沼の右か左か、その違いだけでもう追いつく事はできない」
このあたりの地理に詳しいチャックが、あくまで冷静に指摘する。
「そもそも、人の足で馬に追いつくのは無理だ。速度もそうだが、持久力が違いすぎる」
「でも……」
チャックの当たり前の指摘に、ユモは歯噛みし、下を向く。
――追いつけるもん。歩くんじゃなく、飛べば……――
ユモは、心の中で反論する。
――箒は無いけど。無くたって、飛べるんだから――
魔女にしろ魔術師にしろ、多くの場合は、自身が持つ『空を飛ぶ魔法』を効果的に発動するための道具として、箒を使う。別に箒でなくてもいいのだが、十五世紀頃からイメージが固定化しており、今更それに逆らっても面倒という理由で多くの魔術師は箒に乗っている、乗り心地自体は決して良くないのだが。
まれに、『空を飛ぶ魔法』をしこたま封じ込み、自律的に働く『空飛ぶ箒』も作られるが、かけるコスト――金銭的にも、魔術的にも――と得られる結果が見合わない――どう頑張っても、今のところ音より早く飛んだ魔法使いの話は聞かない――事から、好事家の道楽以上のものではない。
故に、箒に限らず魔導具のほとんどは術者の源始力の消費を抑えるためのものであり、それら魔導具に仕事をさせるためには、使用者である術者自身がその魔法を使える事が必須であった。
とはいえ。そんな事をこの場で口に出す程は、ユモは愚かではないし、そこまで分別をなくすほど激昂しているわけでもなかった。
そして、魔法を抜きにすれば、スティーブやチャックが言っていることは至極まともな意見だという事も理解していた……ユキに同じ事を指摘されるのは、その言い方も含めて癪に障るのだが。
その結果として。
「……ふん!」
ユモは、すごい勢いで踵を返すと、そのまま寝床に戻って、頭まで毛布を被ってしまった。
――気持ちは、わかるのよ――
ユキは、小雪の舞う中、丸太に腰掛け、外の焚き火でスープの鍋をかき回していた。
不寝番の仕事の一つが、翌朝の朝食の用意でもある。乾燥させた豆を水で戻し、煮込むのだが、戻すのにそれなりに時間がかかり、普段なら漬けておけば済むのだがこの気温ではそのまま凍結してしまうため、戻る前に煮えてしまわない程度に焚き火の傍で温め続ける必要があった。不寝番は、その調整も受け持つわけで、離脱逃亡を決め込んだ割には律儀に豆を鍋で漬ける準備を整えていたオーガストの後をひきついでチャックが戻した豆を、ユキは残り少なくなってきた熊肉と、保存用の塩漬け肉と一緒に煮込んでいた。
――でもさぁ。そりゃ、あたしだって、さぁ――
本音から言うと、ユキだって居ても立ってもいられない。今すぐ走り出したい気持ちでいっぱいだった。少なくとも、走るのなら、今なら、自分なら、追いつける自信があった。
だが。それは、出来ない。
隠さなければいけないから。自重しろと、きつく言いつけられているから。
――でも。もう、あたしも、限界かも……――
ユキは、膝に額をつけて、大きなため息をついた。
「被害は手綱と腹帯と鐙、だが修理は可能だ」
テントの中で朝食を摂りながら、チャックが言う。
「そうか。俺も手伝うよ。とはいえこの背中だからな」
「重いものは無理だろう。手綱と鐙を外して持ってくる」
「頼む」
男達の相談を聞きながら、のろのろとユキはスプーンを進める。
「……ユキ、君は、馬具が直り次第ジュモーを連れてダルースに向かえ」
スティーブが、唐突にそう言い出す。
「……え?」
予想外のその一言に、テンション最低のユキも思わず問い返す。
「大尉の追跡にはチャックに行ってもらうしかないが、場合によっては往復で十日かかる。俺は馬に乗れるようになるまで、もう二~三日かかりそうだし、君たちみたいなお嬢さんを、無目的にいつまでもここに置いておくのもどうかと思う。第一、三人で馬一頭はいくら君たちが軽くても無理だ。手紙を書くから、ダルースの保安官事務所で保護してもらうといい」
「……それも、アリ、かな……」
「大丈夫、コグバーン保安官は大酒飲みだが話の分かる男だ。それに、俺の馬は賢い。君たちを乗せてもちゃんと言うことを聞くさ」
努めて明るくスティーブは話す。そのスティーブに、ユキは小さく微笑み返す。
その時。テントの奥の寝床が蠢き、ユモが這い出してくる。靴を履き直し、テントの入り口に向かって歩き出す。
「どこに行く?」
声を掛けそぐねたスティーブと、気後れしたユキに替わって、チャックがユモに声をかけた。
「お花を摘んでくるの。ついて来ないでよ」
足も停めず、そう言い捨ててユモは乱暴に入り口をまくって外に出る。
「……やれやれだ」
スティーブは、肩を落としてため息をついた。
「……じゃあ、作業に戻る」
堅パンとスープの食事を終えたチャックは、立ち上がりながらそう宣言した。
「ああ、よろしく頼む」
皿の内側をパンで拭いながら、スティーブが答える。その傍らで、ユキは、もそもそと、いつになく食が進まぬ様子でスプーンを動かしている。
スティーブは、そのユキを横目で見て、木皿をキレイに拭ったパンを口に放り込み、もぐもぐしながら、言った。
「……それにしても、ずいぶんと長いな?」
主語がない文章だが、何を、あるいは誰を指しているのかは一目瞭然のその言葉に、チャックは渋い顔でカウボーイハットを被り直す。
「……あのバカ……」
スプーンを停めたユキが、小さく、低く、呟く。呟いて、突然ものすごい勢いで皿に残ったスープをかっ込みはじめる。ちょっと唖然としてそれを見つめる男達の前で、一瞬で皿を空にしたユキはその皿をコトリと置き、
「……ごちそうさまでした」
日本語できちんと言って手を合わせると、次の瞬間に脱兎の如くにテントを飛び出した。
「とっ捕まえてきます!」
の声を残して。
「……我が周囲に五芒星燃え、我が頭上に六芒星輝く。精霊よ……」
テントからそこそこ離れた、まばらに低木が生えるだけの雪に覆われた平地で、ユモは呪文を振動させた。
自分の体を聖水と聖灰をわずかに振りかけ、自らに重力を軽減する呪いをかけたユモは、途端に、足が浮くのを感じる。
「……よし、じゃあ、これで……」
この呪いだけでは、ふわりと浮き上がる事は出来ても、推進力が無い。そこでユモは、別の呪いを自分に上掛けする。
「オムニポテンス アエテルネ デウス……」
自分を中心に展開した魔法陣に意識を集中し、ユモはあまり得意ではない呪文を唱える。どういうわけか、ユモは体を使う術の類いが得意ではない。手先は器用だが体力も体術も良くてやっと平均でしかない父親に似たのかも、そう言って母が首を傾げたのを、ユモは良く覚えている。
――でも、今はこの組み合わせが一番合理的。やってみせる――
ユモは、心に堅くそう言い聞かせ、慎重に呪文を唱える。
「……遅れる事なく現れ出でて、我にその力、天翔る翼を授けたまえ!アテー マルクト……」
呪文に合わせ、目をつぶったユモは強くイメージする。自分の背中から生える、白銀に光る、強く、大きな翼を。その翼が、自分を天高く舞い上がらせる姿を。
両足が自分の重さを支えていない事を、ユモは気付いた。目をつぶったまま、ユモは背中の翼が羽ばたくのをイメージする。羽ばたいて、体が真っ直ぐに天に向かって駆け上る様子を。
冷たい風が、顔を撫でる。いや、撫でるなんて生やさしいものではない。小雪混じりの空気が、顔に、体に、衝突してくる。羽ばたく度に、それは冷たさを増し、衝撃を増し、激しさを増す。
十回ほども羽ばたいたところで、ユモは耐えきれず、羽ばたきを停め、目を開いた。
「……えっ?」
一面が薄ねずみ色の、上下も分からないそこは、ユモにとって未知の空間に等しかった。
安定した大地の上で行動し、情報取得の大半を視覚に頼る人類は、その視覚を封じられると、いとも簡単に平衡感覚を失う。熟練のパイロットであっても条件が揃えば簡単に陥る、怖ろしいこの現象は、空間識失調として知られている。
イメージに集中するあまりに目をつぶったまま急上昇し、目を開けた時には低く垂れ込める鉛色の雲の中に入ってしまっていたユモは、まさにその状態にあった。どちらを向いても、水平も垂直もわからない。羽ばたきを停めた体はそれまでの惰性でまだ上昇を続けているが、羽ばたきという推進力を失ったため、その軌道は放物線を描き、重力に引かれて上昇速度を失うその体はほぼ無重量状態に置かれている。
自分は、上を向いているのか、下を向いているのか。どんな姿勢でいるのか、わからない。いや、そもそもどこに居るのかすら、わからない。大地に足を踏みしめて生きる人間としての、その大地を失う根源的な恐怖に襲われ、ユモは軽くパニックに陥り、集中が乱れる。
「……いやあっ!」
大地で暮らすようになる以前は樹上生活者であった人類にとって、無重量状態とはすなわち落下を意味し、それはつまり本能的に死に繋がる恐怖の代名詞でもある。たとえ魔女であっても、人間である限りはこの呪縛から逃れる事は出来ず、恐怖からパニックに陥ったユモは呪いを維持することが出来ない。
放物線の頂点に達したユモは、今度は重力加速度に従って落下する軌道を描きはじめる。全身が強ばり、頬に手を当てて固まってしまっているユモは、雲底から飛び出し、鉛色の雲の下の景色が見えるようになってやっと、自分が落下していることに気付く。
固まったまま、悲鳴を上げ続けていたユモは、この期に及んでやっと、自分の置かれている状況を理解した。
ユキの見る限り、ユモは確かに最初は『お花を摘みに』出たらしい。なので、その部分はスルーして、ユキはその後のユモの足跡を辿る、全速力で。
小雪の舞うこの状況では、浅い足跡はあっという間に見えなくなってしまう。ここ数日天候が安定していたせいもあって、積雪は場所によってはくるぶしほども無いから、油断は出来ないし猶予も無い。ユキは、歯を食いしばって、走る。
――っとに、バカなんだから!――
ユキは、ユモの短慮を心の中でなじる。気持ちは理解出来なくもないが、だからといって短慮が過ぎる、と。
そう思って、ユキが頭に血を上らせつつ足跡を追っていた矢先。突然、足跡が消えた。驚いたユキは、数メートル滑りながら急ブレーキをかけ、それでも若干行きすぎてしまい、大慌てでとって返す。
見れば、足跡が途絶えたその地点は、そこに立ち止まり、そこで何度か足踏みするようにしていた形跡がある。
「……なにを……」
ユキは、考える。ユモは、ジュモーは、ここで何をして、どこに行ったのか。ユキは、白い息を荒く吐いて、考える。
――ジュモーは、魔女だ。きっと、魔法を使って……――
ユキは、鉛色の空を見上げる。
――だとしたら、空しかあり得ない。人の身では、何をしても馬に追いつくのは無理なことくらい、ジュモーだって百も承知のはず。だとしたら。鳥にでも化けたか、それとも箒にでも跨がって……箒は持ってなかったか。とにかく、足跡が途絶えてるここから、飛んだ、それしかあり得ない。だとしたら――
ユキは、見上げた視線をそのまま南へ、上りかけの太陽が雲間から薄く光る東の空を左手に、おおむね南と思える方に顔を向け、目をこらす……見えない、何も。音も、聞こえない。鉛色の空は見るもの全てを曖昧に照らし、舞い積もる雪は些細な音は全て飲み込んでしまう。
しかし。ユキは見た、聞いた。常人の肉眼では見えない光を、耳には聞こえない振動を。さほど遠くない空中に。
それは、呪文がエーテルに干渉して発生する魔法陣の光であり、エーテルを振動させる声そのものだった。
ユモの言葉を聞いて、即座にユキが言い返す。
「あんたみたいな体力無しが雪ん中歩いて馬追っかけるとかマジあり得ないっしょ!雪なめてんの?」
「うるさいわね!雪くらい知ってるわよ!あたしの家の周りだって、これくらい降るもの!」
「じゃあなおさらよ!こないだだって、熊のところ行っただけで顎出してるあんたが馬追っかけられるわけないでしょ!」
「行くもん!行くったら行くんだから!」
「まあまあまあま。二人とも、落ち着いて」
売り言葉に買い言葉から始まって、早くも水掛け論の様相を呈してきた娘同士の言い争いに、たまらずスティーブが口を挟むが、同時に振り向いた双方からものすごい眼力で見据えられてしまい、思わず寝床の上で半身ほど体を引いた。
「歩いて追うってのは賛成出来ない。体力以前の問題だ」
チャックが、冷静な声で意見を述べる。
「そうとも。大体、ジュモー、君は大尉がどこに向かっているか、わかっているのかい?」
「ジュノー郡の陸軍の基地でしょ!ここから真南に馬で五日!ちゃんと覚えてるわ!」
「その馬で五日を、人の足で追うつもりかい?」
「五日もいらないわ!すぐ追いついてみせるわよ!」
あくまでユモは主張を曲げようとはしない。
「無理だ。途中には沼沢地がある。一つの沼の右か左か、その違いだけでもう追いつく事はできない」
このあたりの地理に詳しいチャックが、あくまで冷静に指摘する。
「そもそも、人の足で馬に追いつくのは無理だ。速度もそうだが、持久力が違いすぎる」
「でも……」
チャックの当たり前の指摘に、ユモは歯噛みし、下を向く。
――追いつけるもん。歩くんじゃなく、飛べば……――
ユモは、心の中で反論する。
――箒は無いけど。無くたって、飛べるんだから――
魔女にしろ魔術師にしろ、多くの場合は、自身が持つ『空を飛ぶ魔法』を効果的に発動するための道具として、箒を使う。別に箒でなくてもいいのだが、十五世紀頃からイメージが固定化しており、今更それに逆らっても面倒という理由で多くの魔術師は箒に乗っている、乗り心地自体は決して良くないのだが。
まれに、『空を飛ぶ魔法』をしこたま封じ込み、自律的に働く『空飛ぶ箒』も作られるが、かけるコスト――金銭的にも、魔術的にも――と得られる結果が見合わない――どう頑張っても、今のところ音より早く飛んだ魔法使いの話は聞かない――事から、好事家の道楽以上のものではない。
故に、箒に限らず魔導具のほとんどは術者の源始力の消費を抑えるためのものであり、それら魔導具に仕事をさせるためには、使用者である術者自身がその魔法を使える事が必須であった。
とはいえ。そんな事をこの場で口に出す程は、ユモは愚かではないし、そこまで分別をなくすほど激昂しているわけでもなかった。
そして、魔法を抜きにすれば、スティーブやチャックが言っていることは至極まともな意見だという事も理解していた……ユキに同じ事を指摘されるのは、その言い方も含めて癪に障るのだが。
その結果として。
「……ふん!」
ユモは、すごい勢いで踵を返すと、そのまま寝床に戻って、頭まで毛布を被ってしまった。
――気持ちは、わかるのよ――
ユキは、小雪の舞う中、丸太に腰掛け、外の焚き火でスープの鍋をかき回していた。
不寝番の仕事の一つが、翌朝の朝食の用意でもある。乾燥させた豆を水で戻し、煮込むのだが、戻すのにそれなりに時間がかかり、普段なら漬けておけば済むのだがこの気温ではそのまま凍結してしまうため、戻る前に煮えてしまわない程度に焚き火の傍で温め続ける必要があった。不寝番は、その調整も受け持つわけで、離脱逃亡を決め込んだ割には律儀に豆を鍋で漬ける準備を整えていたオーガストの後をひきついでチャックが戻した豆を、ユキは残り少なくなってきた熊肉と、保存用の塩漬け肉と一緒に煮込んでいた。
――でもさぁ。そりゃ、あたしだって、さぁ――
本音から言うと、ユキだって居ても立ってもいられない。今すぐ走り出したい気持ちでいっぱいだった。少なくとも、走るのなら、今なら、自分なら、追いつける自信があった。
だが。それは、出来ない。
隠さなければいけないから。自重しろと、きつく言いつけられているから。
――でも。もう、あたしも、限界かも……――
ユキは、膝に額をつけて、大きなため息をついた。
「被害は手綱と腹帯と鐙、だが修理は可能だ」
テントの中で朝食を摂りながら、チャックが言う。
「そうか。俺も手伝うよ。とはいえこの背中だからな」
「重いものは無理だろう。手綱と鐙を外して持ってくる」
「頼む」
男達の相談を聞きながら、のろのろとユキはスプーンを進める。
「……ユキ、君は、馬具が直り次第ジュモーを連れてダルースに向かえ」
スティーブが、唐突にそう言い出す。
「……え?」
予想外のその一言に、テンション最低のユキも思わず問い返す。
「大尉の追跡にはチャックに行ってもらうしかないが、場合によっては往復で十日かかる。俺は馬に乗れるようになるまで、もう二~三日かかりそうだし、君たちみたいなお嬢さんを、無目的にいつまでもここに置いておくのもどうかと思う。第一、三人で馬一頭はいくら君たちが軽くても無理だ。手紙を書くから、ダルースの保安官事務所で保護してもらうといい」
「……それも、アリ、かな……」
「大丈夫、コグバーン保安官は大酒飲みだが話の分かる男だ。それに、俺の馬は賢い。君たちを乗せてもちゃんと言うことを聞くさ」
努めて明るくスティーブは話す。そのスティーブに、ユキは小さく微笑み返す。
その時。テントの奥の寝床が蠢き、ユモが這い出してくる。靴を履き直し、テントの入り口に向かって歩き出す。
「どこに行く?」
声を掛けそぐねたスティーブと、気後れしたユキに替わって、チャックがユモに声をかけた。
「お花を摘んでくるの。ついて来ないでよ」
足も停めず、そう言い捨ててユモは乱暴に入り口をまくって外に出る。
「……やれやれだ」
スティーブは、肩を落としてため息をついた。
「……じゃあ、作業に戻る」
堅パンとスープの食事を終えたチャックは、立ち上がりながらそう宣言した。
「ああ、よろしく頼む」
皿の内側をパンで拭いながら、スティーブが答える。その傍らで、ユキは、もそもそと、いつになく食が進まぬ様子でスプーンを動かしている。
スティーブは、そのユキを横目で見て、木皿をキレイに拭ったパンを口に放り込み、もぐもぐしながら、言った。
「……それにしても、ずいぶんと長いな?」
主語がない文章だが、何を、あるいは誰を指しているのかは一目瞭然のその言葉に、チャックは渋い顔でカウボーイハットを被り直す。
「……あのバカ……」
スプーンを停めたユキが、小さく、低く、呟く。呟いて、突然ものすごい勢いで皿に残ったスープをかっ込みはじめる。ちょっと唖然としてそれを見つめる男達の前で、一瞬で皿を空にしたユキはその皿をコトリと置き、
「……ごちそうさまでした」
日本語できちんと言って手を合わせると、次の瞬間に脱兎の如くにテントを飛び出した。
「とっ捕まえてきます!」
の声を残して。
「……我が周囲に五芒星燃え、我が頭上に六芒星輝く。精霊よ……」
テントからそこそこ離れた、まばらに低木が生えるだけの雪に覆われた平地で、ユモは呪文を振動させた。
自分の体を聖水と聖灰をわずかに振りかけ、自らに重力を軽減する呪いをかけたユモは、途端に、足が浮くのを感じる。
「……よし、じゃあ、これで……」
この呪いだけでは、ふわりと浮き上がる事は出来ても、推進力が無い。そこでユモは、別の呪いを自分に上掛けする。
「オムニポテンス アエテルネ デウス……」
自分を中心に展開した魔法陣に意識を集中し、ユモはあまり得意ではない呪文を唱える。どういうわけか、ユモは体を使う術の類いが得意ではない。手先は器用だが体力も体術も良くてやっと平均でしかない父親に似たのかも、そう言って母が首を傾げたのを、ユモは良く覚えている。
――でも、今はこの組み合わせが一番合理的。やってみせる――
ユモは、心に堅くそう言い聞かせ、慎重に呪文を唱える。
「……遅れる事なく現れ出でて、我にその力、天翔る翼を授けたまえ!アテー マルクト……」
呪文に合わせ、目をつぶったユモは強くイメージする。自分の背中から生える、白銀に光る、強く、大きな翼を。その翼が、自分を天高く舞い上がらせる姿を。
両足が自分の重さを支えていない事を、ユモは気付いた。目をつぶったまま、ユモは背中の翼が羽ばたくのをイメージする。羽ばたいて、体が真っ直ぐに天に向かって駆け上る様子を。
冷たい風が、顔を撫でる。いや、撫でるなんて生やさしいものではない。小雪混じりの空気が、顔に、体に、衝突してくる。羽ばたく度に、それは冷たさを増し、衝撃を増し、激しさを増す。
十回ほども羽ばたいたところで、ユモは耐えきれず、羽ばたきを停め、目を開いた。
「……えっ?」
一面が薄ねずみ色の、上下も分からないそこは、ユモにとって未知の空間に等しかった。
安定した大地の上で行動し、情報取得の大半を視覚に頼る人類は、その視覚を封じられると、いとも簡単に平衡感覚を失う。熟練のパイロットであっても条件が揃えば簡単に陥る、怖ろしいこの現象は、空間識失調として知られている。
イメージに集中するあまりに目をつぶったまま急上昇し、目を開けた時には低く垂れ込める鉛色の雲の中に入ってしまっていたユモは、まさにその状態にあった。どちらを向いても、水平も垂直もわからない。羽ばたきを停めた体はそれまでの惰性でまだ上昇を続けているが、羽ばたきという推進力を失ったため、その軌道は放物線を描き、重力に引かれて上昇速度を失うその体はほぼ無重量状態に置かれている。
自分は、上を向いているのか、下を向いているのか。どんな姿勢でいるのか、わからない。いや、そもそもどこに居るのかすら、わからない。大地に足を踏みしめて生きる人間としての、その大地を失う根源的な恐怖に襲われ、ユモは軽くパニックに陥り、集中が乱れる。
「……いやあっ!」
大地で暮らすようになる以前は樹上生活者であった人類にとって、無重量状態とはすなわち落下を意味し、それはつまり本能的に死に繋がる恐怖の代名詞でもある。たとえ魔女であっても、人間である限りはこの呪縛から逃れる事は出来ず、恐怖からパニックに陥ったユモは呪いを維持することが出来ない。
放物線の頂点に達したユモは、今度は重力加速度に従って落下する軌道を描きはじめる。全身が強ばり、頬に手を当てて固まってしまっているユモは、雲底から飛び出し、鉛色の雲の下の景色が見えるようになってやっと、自分が落下していることに気付く。
固まったまま、悲鳴を上げ続けていたユモは、この期に及んでやっと、自分の置かれている状況を理解した。
ユキの見る限り、ユモは確かに最初は『お花を摘みに』出たらしい。なので、その部分はスルーして、ユキはその後のユモの足跡を辿る、全速力で。
小雪の舞うこの状況では、浅い足跡はあっという間に見えなくなってしまう。ここ数日天候が安定していたせいもあって、積雪は場所によってはくるぶしほども無いから、油断は出来ないし猶予も無い。ユキは、歯を食いしばって、走る。
――っとに、バカなんだから!――
ユキは、ユモの短慮を心の中でなじる。気持ちは理解出来なくもないが、だからといって短慮が過ぎる、と。
そう思って、ユキが頭に血を上らせつつ足跡を追っていた矢先。突然、足跡が消えた。驚いたユキは、数メートル滑りながら急ブレーキをかけ、それでも若干行きすぎてしまい、大慌てでとって返す。
見れば、足跡が途絶えたその地点は、そこに立ち止まり、そこで何度か足踏みするようにしていた形跡がある。
「……なにを……」
ユキは、考える。ユモは、ジュモーは、ここで何をして、どこに行ったのか。ユキは、白い息を荒く吐いて、考える。
――ジュモーは、魔女だ。きっと、魔法を使って……――
ユキは、鉛色の空を見上げる。
――だとしたら、空しかあり得ない。人の身では、何をしても馬に追いつくのは無理なことくらい、ジュモーだって百も承知のはず。だとしたら。鳥にでも化けたか、それとも箒にでも跨がって……箒は持ってなかったか。とにかく、足跡が途絶えてるここから、飛んだ、それしかあり得ない。だとしたら――
ユキは、見上げた視線をそのまま南へ、上りかけの太陽が雲間から薄く光る東の空を左手に、おおむね南と思える方に顔を向け、目をこらす……見えない、何も。音も、聞こえない。鉛色の空は見るもの全てを曖昧に照らし、舞い積もる雪は些細な音は全て飲み込んでしまう。
しかし。ユキは見た、聞いた。常人の肉眼では見えない光を、耳には聞こえない振動を。さほど遠くない空中に。
それは、呪文がエーテルに干渉して発生する魔法陣の光であり、エーテルを振動させる声そのものだった。
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◆この作品はアルファポリスのほか、小説家になろうでも公開します。
◆過去作のヒロインと本作主人公の名前が丸被りしてたので、名前を変更しています。(2024/09/03)
◆9/2、HOTランキング11→7位!ありがとうございます!
9/3、HOTランキング5位→3位!ありがとうございます!
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