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第一章 月齢24.5
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「……マジかあああああっ!」
雪原に、ユキの絶叫が響き渡った。
その時のユキの高度、およそ25メートル。速度、垂直水平方向共におよそ秒速14メートル、合成ベクトルは斜め下45度に向かっておよそ秒速17メートル。
ユキが絶叫する、その直前。
金髪の少女をかかえたユキが魔法陣――らしきもの――を踏んだ瞬間。ユキは、ほぼ同時に、あり得ない二つの感触を得ていた。
いや、感触を得られなかった、というべきかも知れない。一つは、あるべきはずのコンクリの護岸擁壁、そこに足の裏が激突する衝撃が感じられなかったこと。
そして、もう一つは。
「……え?」
あろうことか、その護岸に貼り付くように描かれた魔法陣の、その中に己の足が沈み込む、何の抵抗感もなく潜り込むその違和感。
「えええ?」
実際にはほんの一瞬の事のはずだが、まるでスローモーションのように進行する認識の中、金髪の少女を抱きしめた際に感じた猛烈な脱力感を感じたまま、ユキは自分の身に起こっている状況を理解出来ず、混乱する。
「えー?」
そして、抱きしめた金髪の少女ごとコンクリの護岸に頭のてっぺんまで埋まり込んだ、その次の瞬間。
ユキは、全身を張り倒されたような衝撃を感じた。
それはまるで、縦横2メートルほどある手のひらで、真正面から横綱の張り手をもらったような衝撃だった。一瞬、視界が暗転し、脱力感のせいもあって思わず気が遠くなりかけたユキは、
「……なにくそぉ!」
一声吠えて自分に気合いを入れ、カッと目を開ける。
そのユキが見たものは。
満天の星空を照り返す、一面の雪原だった。
「……マジかあああああっ!」
何が起こったのか、ここがどこなのか。そんな事は後回しにして、ユキは、今の状況に絶対に必要な情報を手に入れようと、眼下の雪原に目をこらす。
凹凸の見当たらない真っ白な雪原、しかも夜、星明かりのみ。距離感が、掴めない。雪原といっても、実際の雪の深さはそれほどでも無さそうで、あちこちに立木があり灌木が隠れており、地面も水平ではなく緩い起伏があるようだが、それがかえってタチが悪い。
充分に雪が深ければ。雪をクッションにして、落着の衝撃を和らげることも出来る、その代償として雪に埋まり込むことになるが。逆に、雪がなければ。正確に距離感が掴めるから、落着の瞬間の予想はたやすく、タイミングを合わせやすければ衝撃を逃がす事もまたたやすかろう、衝撃そのものはものすごかろうけれど。
だが。今のこの、どう見ても1メートルもない積雪量では、衝撃を吸収させることも出来ないし、雪が細かい凹凸を隠してしまって距離感が本当に掴みづらい。
それでも。ユキは、猛烈な脱力感でへこたれそうになる体に活を入れつつ、決心する。
あたしは、どうなってもいい。でも。
この子は、絶対に、護る。護ってみせる。
ユキは、思う。強く。本当に、強く。
ママだったら。あるいは、パパだったら。
こんな時でも、いや、どんな時でも。絶対に、諦めたりしないから、と。
気を緩めると力が抜けてしまう足に、体に活を入れつつ、ユキは軽く膝を曲げ、足を揃える。同時に、腕の中の少女の頭を自分の胸の押しつけるように左手で、少女の足が振り回されないように右手で、しっかりと抱き込む。
その上で、カッと見開いた目で、つま先の先に見える地面を、雪原を睨みつける。もう、いつ接地しても、落着してもおかしくはない。
落下速度が増し、冷たい風になぶられる肌が切り裂かれるように痛い。だが、ユキはうめき声一つあげず、瞬きもせず、正確に、落下予想地点の地表を見つめ続ける。
その白い大地の細かいディテールが、急にはっきりと見えた。
――来た!――
頭で思うより早く、ユキの足が反応する。
踵が地面に触れた、猛烈な衝撃で足が持って行かれそうになるその瞬間。ユキは膝を軽く縮め、同時に膝を左に、上体を右にひねる。
踵だけで衝撃を受けず、むしろ踵からは衝撃を逃がしながら、つんのめるように、その実体を右にひねりながら、膝下全体で左から接地、そのまま腿の左外から左上半身の背中側に接地面をずらしつつ、前方に倒れ込む。そのまま背中から右肩の後ろで接地、抱き込んだ少女の足が地面に当たらないように強く引きつけつつ、勢いの止まらない体を丸めて後ろ回りに数回でんぐり返る。五点接地からの連続バク転。わずかに回転が鈍ったところで、高く上がった足がもう一度地面につこうとする動きに逆らわず、むしろその回転を利用してユキは体を起こし、肩幅に開いた両足で力強く雪原を踏み、そのまま数メートル後ろ向きに腰だめの姿勢のまま滑走して、停まる。
「……っはあ……」
大きく息を吐き、今度こそ完全に脱力して、ユキは少女を抱いたまま尻餅をつき、後ろにのけぞり、倒れる。
抱え込んだ金髪の少女に、怪我をさせていないことを一瞥して確認した後、もう一度少女の頭を優しく自分の胸に抱き込んで、限界に達したユキは、失神した。
その熊は、飢え、いらだち、憤り、そして怒っていた。
冬眠から起きるには、まだ早い時期だった。しかし、しばらく前から続く、聞いたことのない、おかしな鳴き声に邪魔され、眠りが浅くなっていたところに、先ほどの爆音と衝撃だ。
否応なくたたき起こされた熊は、空腹と、寝起きの混乱と、何より寝足りなさから憤り、その怒りのぶつけどころと、空腹を満たす何かを求めてねぐらを離れていた。
そして、見つけた。
おかしな匂いはするが、とりあえず腹の足しになりそうな、若い、毛の生えていない猿の雌。それも二匹。
おあつらえ向きに、寝ているのか死んでいるのか、雪の上におり重なって倒れて動かない。
毛のない猿は、熊は今まで喰ったことはなかったが、ちょくちょく森の端で見かけたことはあった。たいがいは、大きな音のする棒を持った雄だったが。一度だけ、酷く痛い思いをしたこともあったので、極力、その熊は、毛のない猿と接触することをそれ以降避けていた。
だが、どうやら、今目の前に居るこの二匹の雌、多分若い雌は、そういったおっかないものは持っていないようだった。ならば。
折角だ、喰ってみてもよかろう。腹の足しに、腹いせに、丁度よい。
熊は、冬眠から叩き起こされた憤りを、ここでぶちまけることに決めた。
そうは言っても、用心するに越したことはない。それなりに場数を踏んでいるその雄の成体の熊は、過去の経験から、慎重に毛のない猿に近づいていった。
毛のない猿は、たいていおかしな匂いがする。一匹一匹がまるで違う匂いである事も珍しくない。今も、目の前の二匹は、片方は強い草の匂いがするし、もう一匹は花とも蜜とも違う匂いと、強い独特の獣臭さを放っている。
だが。食ってしまう分には、そこは問題ではない。爪で引き裂けば、どっちにしろ血の臭いで塗りつぶされるのだ。
血の臭い。積極的に狩りをすることは滅多にない熊も、冬眠明けのこの時期は屍肉を漁ったり、動物性のものを捕食する事が多くなる。そして。
この熊も、今の時期は、暖かい肉に飢えていた。
だから、熊は、警戒しつつも大胆に、重なって倒れ伏す毛のない猿に近づき、まずはその鼻で上に乗っている猿を小突いてひっくり返し、食べやすく猿の腹を表に向けようとした。
その瞬間。熊は、鼻先を横殴りにされる衝撃と、続けてその鼻先が熱くなるのを感じた。
熊は、吠えた。何が起きたか分からず、ただ、鼻を殴られ、傷つけられた痛みに、顔を背けて吠えた。鼻が熱く、ぬるりとした何か、鉄の匂いのするヌメヌメした何かが垂れる。口の中にしたたり落ちてきたそれは、鉄と塩の味、血の味だった。
その気配に気付いた熊は、見た。そこに、決して出会ってはいけない獣がいる事に。体を低くした、鋭い牙と爪を持つ、四足獣。熊は、知っていた。自分たちと並び、この森で最強の四足獣を。食性が重ならないから、滅多に出会うことはない。体格も、こちらの方が明らかに大きい。だが、万が一出会い、やり合ったら只では済まない、怖ろしい相手。
熊は、混乱した。今まで、そこにはそいつは居なかったはず、毛のない猿しか居なかったはずだった。
いや、違う。アレは、確かに猿だ。四つ足だが、いや、今、立ち上がったが、立ち上がったからこそ、アレは毛のない猿だ。だが。
あの目は、あの、夜の闇を貫く目は……
熊は、再度、吠えた。相手を、威嚇するために。自分を、鼓舞するために。本能的に、熊は立ち上がった。自分を、大きく見せるために。
熊は、そうすべきではなかった。
雪原に、ユキの絶叫が響き渡った。
その時のユキの高度、およそ25メートル。速度、垂直水平方向共におよそ秒速14メートル、合成ベクトルは斜め下45度に向かっておよそ秒速17メートル。
ユキが絶叫する、その直前。
金髪の少女をかかえたユキが魔法陣――らしきもの――を踏んだ瞬間。ユキは、ほぼ同時に、あり得ない二つの感触を得ていた。
いや、感触を得られなかった、というべきかも知れない。一つは、あるべきはずのコンクリの護岸擁壁、そこに足の裏が激突する衝撃が感じられなかったこと。
そして、もう一つは。
「……え?」
あろうことか、その護岸に貼り付くように描かれた魔法陣の、その中に己の足が沈み込む、何の抵抗感もなく潜り込むその違和感。
「えええ?」
実際にはほんの一瞬の事のはずだが、まるでスローモーションのように進行する認識の中、金髪の少女を抱きしめた際に感じた猛烈な脱力感を感じたまま、ユキは自分の身に起こっている状況を理解出来ず、混乱する。
「えー?」
そして、抱きしめた金髪の少女ごとコンクリの護岸に頭のてっぺんまで埋まり込んだ、その次の瞬間。
ユキは、全身を張り倒されたような衝撃を感じた。
それはまるで、縦横2メートルほどある手のひらで、真正面から横綱の張り手をもらったような衝撃だった。一瞬、視界が暗転し、脱力感のせいもあって思わず気が遠くなりかけたユキは、
「……なにくそぉ!」
一声吠えて自分に気合いを入れ、カッと目を開ける。
そのユキが見たものは。
満天の星空を照り返す、一面の雪原だった。
「……マジかあああああっ!」
何が起こったのか、ここがどこなのか。そんな事は後回しにして、ユキは、今の状況に絶対に必要な情報を手に入れようと、眼下の雪原に目をこらす。
凹凸の見当たらない真っ白な雪原、しかも夜、星明かりのみ。距離感が、掴めない。雪原といっても、実際の雪の深さはそれほどでも無さそうで、あちこちに立木があり灌木が隠れており、地面も水平ではなく緩い起伏があるようだが、それがかえってタチが悪い。
充分に雪が深ければ。雪をクッションにして、落着の衝撃を和らげることも出来る、その代償として雪に埋まり込むことになるが。逆に、雪がなければ。正確に距離感が掴めるから、落着の瞬間の予想はたやすく、タイミングを合わせやすければ衝撃を逃がす事もまたたやすかろう、衝撃そのものはものすごかろうけれど。
だが。今のこの、どう見ても1メートルもない積雪量では、衝撃を吸収させることも出来ないし、雪が細かい凹凸を隠してしまって距離感が本当に掴みづらい。
それでも。ユキは、猛烈な脱力感でへこたれそうになる体に活を入れつつ、決心する。
あたしは、どうなってもいい。でも。
この子は、絶対に、護る。護ってみせる。
ユキは、思う。強く。本当に、強く。
ママだったら。あるいは、パパだったら。
こんな時でも、いや、どんな時でも。絶対に、諦めたりしないから、と。
気を緩めると力が抜けてしまう足に、体に活を入れつつ、ユキは軽く膝を曲げ、足を揃える。同時に、腕の中の少女の頭を自分の胸の押しつけるように左手で、少女の足が振り回されないように右手で、しっかりと抱き込む。
その上で、カッと見開いた目で、つま先の先に見える地面を、雪原を睨みつける。もう、いつ接地しても、落着してもおかしくはない。
落下速度が増し、冷たい風になぶられる肌が切り裂かれるように痛い。だが、ユキはうめき声一つあげず、瞬きもせず、正確に、落下予想地点の地表を見つめ続ける。
その白い大地の細かいディテールが、急にはっきりと見えた。
――来た!――
頭で思うより早く、ユキの足が反応する。
踵が地面に触れた、猛烈な衝撃で足が持って行かれそうになるその瞬間。ユキは膝を軽く縮め、同時に膝を左に、上体を右にひねる。
踵だけで衝撃を受けず、むしろ踵からは衝撃を逃がしながら、つんのめるように、その実体を右にひねりながら、膝下全体で左から接地、そのまま腿の左外から左上半身の背中側に接地面をずらしつつ、前方に倒れ込む。そのまま背中から右肩の後ろで接地、抱き込んだ少女の足が地面に当たらないように強く引きつけつつ、勢いの止まらない体を丸めて後ろ回りに数回でんぐり返る。五点接地からの連続バク転。わずかに回転が鈍ったところで、高く上がった足がもう一度地面につこうとする動きに逆らわず、むしろその回転を利用してユキは体を起こし、肩幅に開いた両足で力強く雪原を踏み、そのまま数メートル後ろ向きに腰だめの姿勢のまま滑走して、停まる。
「……っはあ……」
大きく息を吐き、今度こそ完全に脱力して、ユキは少女を抱いたまま尻餅をつき、後ろにのけぞり、倒れる。
抱え込んだ金髪の少女に、怪我をさせていないことを一瞥して確認した後、もう一度少女の頭を優しく自分の胸に抱き込んで、限界に達したユキは、失神した。
その熊は、飢え、いらだち、憤り、そして怒っていた。
冬眠から起きるには、まだ早い時期だった。しかし、しばらく前から続く、聞いたことのない、おかしな鳴き声に邪魔され、眠りが浅くなっていたところに、先ほどの爆音と衝撃だ。
否応なくたたき起こされた熊は、空腹と、寝起きの混乱と、何より寝足りなさから憤り、その怒りのぶつけどころと、空腹を満たす何かを求めてねぐらを離れていた。
そして、見つけた。
おかしな匂いはするが、とりあえず腹の足しになりそうな、若い、毛の生えていない猿の雌。それも二匹。
おあつらえ向きに、寝ているのか死んでいるのか、雪の上におり重なって倒れて動かない。
毛のない猿は、熊は今まで喰ったことはなかったが、ちょくちょく森の端で見かけたことはあった。たいがいは、大きな音のする棒を持った雄だったが。一度だけ、酷く痛い思いをしたこともあったので、極力、その熊は、毛のない猿と接触することをそれ以降避けていた。
だが、どうやら、今目の前に居るこの二匹の雌、多分若い雌は、そういったおっかないものは持っていないようだった。ならば。
折角だ、喰ってみてもよかろう。腹の足しに、腹いせに、丁度よい。
熊は、冬眠から叩き起こされた憤りを、ここでぶちまけることに決めた。
そうは言っても、用心するに越したことはない。それなりに場数を踏んでいるその雄の成体の熊は、過去の経験から、慎重に毛のない猿に近づいていった。
毛のない猿は、たいていおかしな匂いがする。一匹一匹がまるで違う匂いである事も珍しくない。今も、目の前の二匹は、片方は強い草の匂いがするし、もう一匹は花とも蜜とも違う匂いと、強い独特の獣臭さを放っている。
だが。食ってしまう分には、そこは問題ではない。爪で引き裂けば、どっちにしろ血の臭いで塗りつぶされるのだ。
血の臭い。積極的に狩りをすることは滅多にない熊も、冬眠明けのこの時期は屍肉を漁ったり、動物性のものを捕食する事が多くなる。そして。
この熊も、今の時期は、暖かい肉に飢えていた。
だから、熊は、警戒しつつも大胆に、重なって倒れ伏す毛のない猿に近づき、まずはその鼻で上に乗っている猿を小突いてひっくり返し、食べやすく猿の腹を表に向けようとした。
その瞬間。熊は、鼻先を横殴りにされる衝撃と、続けてその鼻先が熱くなるのを感じた。
熊は、吠えた。何が起きたか分からず、ただ、鼻を殴られ、傷つけられた痛みに、顔を背けて吠えた。鼻が熱く、ぬるりとした何か、鉄の匂いのするヌメヌメした何かが垂れる。口の中にしたたり落ちてきたそれは、鉄と塩の味、血の味だった。
その気配に気付いた熊は、見た。そこに、決して出会ってはいけない獣がいる事に。体を低くした、鋭い牙と爪を持つ、四足獣。熊は、知っていた。自分たちと並び、この森で最強の四足獣を。食性が重ならないから、滅多に出会うことはない。体格も、こちらの方が明らかに大きい。だが、万が一出会い、やり合ったら只では済まない、怖ろしい相手。
熊は、混乱した。今まで、そこにはそいつは居なかったはず、毛のない猿しか居なかったはずだった。
いや、違う。アレは、確かに猿だ。四つ足だが、いや、今、立ち上がったが、立ち上がったからこそ、アレは毛のない猿だ。だが。
あの目は、あの、夜の闇を貫く目は……
熊は、再度、吠えた。相手を、威嚇するために。自分を、鼓舞するために。本能的に、熊は立ち上がった。自分を、大きく見せるために。
熊は、そうすべきではなかった。
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