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プロローグ
001 プロローグ
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かちゃり。
真鍮のドアノブのロックが外れる音に続いて、重厚なオーク材のドアが、ヒンジの擦れる微かな音と共に薄く開く。
その隙間から、溢れんばかりの好奇心に満ち満ちた仔猫のような碧の瞳が覗いた。その瞳は、一瞬、キョロキョロと部屋の中を見渡すと一度引っ込み、すぐさまに、小柄な少女がドアの隙間からするりと部屋に忍び込む。カーテンの引かれた薄暗い部屋の、そのカーテンの隙間から差す日差し、冬の朝の鋭くも低い光線に、少女の体を追った長い金の髪がきらめく。
サイズの合っていない、床を引き摺りそうなウールの軍用コートを着た少女は、もう一度部屋の隅々に目配せしつつ後ろ手に慎重にドアを閉め、内鍵をかけ直し、やっと肩の力を抜いてため息をつく。
ママの書斎。優しく、綺麗で、偉大で強大な魔女であるママの、その知識と経験と秘密の詰まった書斎。
魔女の娘は、今、その知識の泉に足を踏み入れていた。
――いつも通り、部屋には鍵をかけておきます。でも、あなたはいつでも入って良くてよ――
出かける直前、自分と同じ目線から、ママの、眼鏡越しの優しい黒い視線がまっすぐに少女の目を覗き込み、言った。
――いつも通り、あなたが私の呪いを解けたなら。期待してますよ、私の、可愛い生徒……――
その偉大で強大な魔女は、自分の先生がかつて自分にそうしたように、自分の娘の進度に合わせて難度を変えた呪いを自分の書斎のあらゆるものに施していた。生徒が興味を持ちそうなものに先回りして、今の生徒の技量で解ける、ギリギリよりちょっと上の呪いを。
だから、少女は必死に、そしてそれ以上に面白がって、その呪いに挑んでいた。そうすることで、めきめきと自分の技量が上がる実感が得られる、その満足感と共に、呪いを解かれたことに気付いた時の、先生の、いやママの満足そうな、優しい微笑みが見たくて。
だから。それが当たり前の関係、当たり前の行動になってしまっていたから。少女は自分の力量を見誤っていたし、魔女もまた少女の技量を、成長の進度を低く見積もってしまっていた事に、二人とも気付いていなかった。
それが、本当に偶然だったのか、もしかすると誰かが、あるいは人知の及ばぬ何かの関与があった、かもしれない。
だが、あのような事故が起こってしまう程度には、スイスチーズモデルにおける不慮の積み重ねで説明される程度には、それは偶然であると思えた。
それは、1961年2月15日の、日食の日の事だった。
少女は、改めて部屋の中を、勝手知ったる『先生の書斎』を見まわす。小さな中庭に面する窓には、貴重な書物の日焼けを防ぐ為のカーテンが引かれ、その隙間からわずかに漏れた冬の朝の低い日差しが幾本か、壁という壁を埋め尽くす本棚をなめる。
こつり。こつり。羽衣のような少女の体重を支えるロングブーツの軽やかな足音が響き、書斎の、頑丈だが古い床板をほんの僅かだけきしませる。少女の目指すのは、先生の、偉大なる魔女の巨大で立派な書斎机。素人には意味不明な様々な構造物と、読み方も分からないであろう複数の異国の文字で綴られた書物が堆く積み上げられた、恐れ多き机。
天井まで届く本棚を背にするその机の上、これ見よがしに置かれた、見慣れない小箱。黒光りし、頑丈そうな、大人の男性の握りこぶし大のその箱は、見た目に違わず厳重に南京錠がかけられ、あまつさえ多重に呪いがかけられているのが、見た目にそぐわぬ経験と知識を持つ『魔女見習い』である少女には、一目で分かった。
そして、その呪いの大半が先生のものであり、しかし、最深層にかけられている封印の魔法は、先生のものに酷似してはいるが、ごくわずかに違っている事も、そしてその呪いは、先生と同程度以上の技量を持つ何者かの手によるものだという事も、少女は見抜いていた。
だからこそ。少女は、その何者か、少女の知る限り最高の魔女である先生と同列と言えるその何者かのかけた呪いを解錠してみたくて、たまらなくなってしまっていた。
その小箱が書斎机の上に放置されていたのは、少女にとっては全くの偶然であり、少女の母であり、魔法の先生でもあるその魔女にとっては、純粋に不注意であり、また見落としであった。
数日前。いつものように、数日出かける間の店番を娘に託し、日食の観測に、夫の運転するサイドカーで出かける直前。魔女は、その小箱も観測に持っていき、現場でその小箱に対する日食の影響を測定するつもりであった。だが、出かける直前になって舞い込んできた連絡、別の魔法使いが使い魔経由で連絡してきた、複数の魔法使いや錬金術師と現場で落ち合い、意見交換をしないかという申し出に、魔女は逡巡した。自分以外の誰かが居るところにこの小箱を持ち出すのは、厳重に幾重にも呪いを重ねて封じてあるとはいえ、中身が中身だけに不安を拭いきれなかった。
結局、夫の催促に答えて小箱を机の上に置き、魔女は観測機器の入ったバッグを手に書斎を出た、出てしまった。
娘が、自分からは魔術の才を、夫からは碧眼と金色の髪を受け継いだ魔女見習いの少女が、この小箱に興味を持つ可能性を失念して。
「さあて。今日こそ、解いてみせるわ」
ぶかぶかの、使い込み、着慣れたウールの軍用コート――肩幅身幅こそ上手に繕い直してある程度詰めてあるが、袖丈着丈はそのまま――の袖をまくり、少女は力強く独りごちる。
今日で三日目。店の開店準備を僕達に任せ、どうにか捻出した、誰にも干渉されない自由時間。そのわずかな時間の全てを、この箱を発見した三日前からつぎ込み続けてきた。
いかにも挑戦してみろと、やれるものならやってみろと言わんばかりに無防備に、書斎机の真ん中に放り出された、見覚えのない黒い小箱。
自分の力では、技量では、到底解けないと諦めかけた封錠の呪い。だが、ダメ元で挑戦してみれば、複雑ではあるが基本に忠実に組み上げられた術式の封錠の呪い。
出来なくはない、手が届かなくはない。あと1歩、ほんの少し。ほんの一段の踏み段さえあれば、手が届く。そんな感覚。その段差を埋めるのに、二日かかった。二日の間に、客の来ない店番の間も、夕食後の時間も、全てを術式の勉強に充てた。夢の中でまで、呪文と魔法陣が浮かび、寝ぼけて体が印を結ぶ、それ程の集中力。齢十二歳の、少女であるからこその盲目の純粋さ。その結果、先生がよく使う封錠の術が実は簡略形、短縮形であり、深層にかけてある呪いはその原型の正式版である事を発見。それが故に教わっていなかった呪文のキーワードと必要な印を本棚の――これまた封錠されていたが――古い書物から見つけ出し、今の少女の力量では見える範囲に存在しないその封錠の呪文を組み立て直し、印を結び直し、さらにそれを解錠する逆呪文と印を再構成し、その詠唱の手順を覚え直すのにかかった時間が丸二日。
「我ながら驚異的なスピードだわ。さすがは偉大なる先達、大魔法使いマーリーンに連なる血筋って事よね」
腰に手を当てて軽くふんぞり返り、得意げに独りごちながら、鼻息荒く少女は言う。
「さあ、そこまでして封じる、何がこのちっちゃな箱の中にしまわれているのか。見せてもらうわよ……」
言い終わるなり、少女はコートの前を開き、その下の黒いワンピースの腰を締めるベルトに着けた弾薬盒と銃剣に手を伸ばした。
真鍮のドアノブのロックが外れる音に続いて、重厚なオーク材のドアが、ヒンジの擦れる微かな音と共に薄く開く。
その隙間から、溢れんばかりの好奇心に満ち満ちた仔猫のような碧の瞳が覗いた。その瞳は、一瞬、キョロキョロと部屋の中を見渡すと一度引っ込み、すぐさまに、小柄な少女がドアの隙間からするりと部屋に忍び込む。カーテンの引かれた薄暗い部屋の、そのカーテンの隙間から差す日差し、冬の朝の鋭くも低い光線に、少女の体を追った長い金の髪がきらめく。
サイズの合っていない、床を引き摺りそうなウールの軍用コートを着た少女は、もう一度部屋の隅々に目配せしつつ後ろ手に慎重にドアを閉め、内鍵をかけ直し、やっと肩の力を抜いてため息をつく。
ママの書斎。優しく、綺麗で、偉大で強大な魔女であるママの、その知識と経験と秘密の詰まった書斎。
魔女の娘は、今、その知識の泉に足を踏み入れていた。
――いつも通り、部屋には鍵をかけておきます。でも、あなたはいつでも入って良くてよ――
出かける直前、自分と同じ目線から、ママの、眼鏡越しの優しい黒い視線がまっすぐに少女の目を覗き込み、言った。
――いつも通り、あなたが私の呪いを解けたなら。期待してますよ、私の、可愛い生徒……――
その偉大で強大な魔女は、自分の先生がかつて自分にそうしたように、自分の娘の進度に合わせて難度を変えた呪いを自分の書斎のあらゆるものに施していた。生徒が興味を持ちそうなものに先回りして、今の生徒の技量で解ける、ギリギリよりちょっと上の呪いを。
だから、少女は必死に、そしてそれ以上に面白がって、その呪いに挑んでいた。そうすることで、めきめきと自分の技量が上がる実感が得られる、その満足感と共に、呪いを解かれたことに気付いた時の、先生の、いやママの満足そうな、優しい微笑みが見たくて。
だから。それが当たり前の関係、当たり前の行動になってしまっていたから。少女は自分の力量を見誤っていたし、魔女もまた少女の技量を、成長の進度を低く見積もってしまっていた事に、二人とも気付いていなかった。
それが、本当に偶然だったのか、もしかすると誰かが、あるいは人知の及ばぬ何かの関与があった、かもしれない。
だが、あのような事故が起こってしまう程度には、スイスチーズモデルにおける不慮の積み重ねで説明される程度には、それは偶然であると思えた。
それは、1961年2月15日の、日食の日の事だった。
少女は、改めて部屋の中を、勝手知ったる『先生の書斎』を見まわす。小さな中庭に面する窓には、貴重な書物の日焼けを防ぐ為のカーテンが引かれ、その隙間からわずかに漏れた冬の朝の低い日差しが幾本か、壁という壁を埋め尽くす本棚をなめる。
こつり。こつり。羽衣のような少女の体重を支えるロングブーツの軽やかな足音が響き、書斎の、頑丈だが古い床板をほんの僅かだけきしませる。少女の目指すのは、先生の、偉大なる魔女の巨大で立派な書斎机。素人には意味不明な様々な構造物と、読み方も分からないであろう複数の異国の文字で綴られた書物が堆く積み上げられた、恐れ多き机。
天井まで届く本棚を背にするその机の上、これ見よがしに置かれた、見慣れない小箱。黒光りし、頑丈そうな、大人の男性の握りこぶし大のその箱は、見た目に違わず厳重に南京錠がかけられ、あまつさえ多重に呪いがかけられているのが、見た目にそぐわぬ経験と知識を持つ『魔女見習い』である少女には、一目で分かった。
そして、その呪いの大半が先生のものであり、しかし、最深層にかけられている封印の魔法は、先生のものに酷似してはいるが、ごくわずかに違っている事も、そしてその呪いは、先生と同程度以上の技量を持つ何者かの手によるものだという事も、少女は見抜いていた。
だからこそ。少女は、その何者か、少女の知る限り最高の魔女である先生と同列と言えるその何者かのかけた呪いを解錠してみたくて、たまらなくなってしまっていた。
その小箱が書斎机の上に放置されていたのは、少女にとっては全くの偶然であり、少女の母であり、魔法の先生でもあるその魔女にとっては、純粋に不注意であり、また見落としであった。
数日前。いつものように、数日出かける間の店番を娘に託し、日食の観測に、夫の運転するサイドカーで出かける直前。魔女は、その小箱も観測に持っていき、現場でその小箱に対する日食の影響を測定するつもりであった。だが、出かける直前になって舞い込んできた連絡、別の魔法使いが使い魔経由で連絡してきた、複数の魔法使いや錬金術師と現場で落ち合い、意見交換をしないかという申し出に、魔女は逡巡した。自分以外の誰かが居るところにこの小箱を持ち出すのは、厳重に幾重にも呪いを重ねて封じてあるとはいえ、中身が中身だけに不安を拭いきれなかった。
結局、夫の催促に答えて小箱を机の上に置き、魔女は観測機器の入ったバッグを手に書斎を出た、出てしまった。
娘が、自分からは魔術の才を、夫からは碧眼と金色の髪を受け継いだ魔女見習いの少女が、この小箱に興味を持つ可能性を失念して。
「さあて。今日こそ、解いてみせるわ」
ぶかぶかの、使い込み、着慣れたウールの軍用コート――肩幅身幅こそ上手に繕い直してある程度詰めてあるが、袖丈着丈はそのまま――の袖をまくり、少女は力強く独りごちる。
今日で三日目。店の開店準備を僕達に任せ、どうにか捻出した、誰にも干渉されない自由時間。そのわずかな時間の全てを、この箱を発見した三日前からつぎ込み続けてきた。
いかにも挑戦してみろと、やれるものならやってみろと言わんばかりに無防備に、書斎机の真ん中に放り出された、見覚えのない黒い小箱。
自分の力では、技量では、到底解けないと諦めかけた封錠の呪い。だが、ダメ元で挑戦してみれば、複雑ではあるが基本に忠実に組み上げられた術式の封錠の呪い。
出来なくはない、手が届かなくはない。あと1歩、ほんの少し。ほんの一段の踏み段さえあれば、手が届く。そんな感覚。その段差を埋めるのに、二日かかった。二日の間に、客の来ない店番の間も、夕食後の時間も、全てを術式の勉強に充てた。夢の中でまで、呪文と魔法陣が浮かび、寝ぼけて体が印を結ぶ、それ程の集中力。齢十二歳の、少女であるからこその盲目の純粋さ。その結果、先生がよく使う封錠の術が実は簡略形、短縮形であり、深層にかけてある呪いはその原型の正式版である事を発見。それが故に教わっていなかった呪文のキーワードと必要な印を本棚の――これまた封錠されていたが――古い書物から見つけ出し、今の少女の力量では見える範囲に存在しないその封錠の呪文を組み立て直し、印を結び直し、さらにそれを解錠する逆呪文と印を再構成し、その詠唱の手順を覚え直すのにかかった時間が丸二日。
「我ながら驚異的なスピードだわ。さすがは偉大なる先達、大魔法使いマーリーンに連なる血筋って事よね」
腰に手を当てて軽くふんぞり返り、得意げに独りごちながら、鼻息荒く少女は言う。
「さあ、そこまでして封じる、何がこのちっちゃな箱の中にしまわれているのか。見せてもらうわよ……」
言い終わるなり、少女はコートの前を開き、その下の黒いワンピースの腰を締めるベルトに着けた弾薬盒と銃剣に手を伸ばした。
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