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「いやあ、真籬城ちゃんは本当に気が利くっすよね」
着替えと一緒に差し入れられたココアをあたしに渡しながら、信仁が言った。
学生寮の裏口を執行部権限で――うやむやのうちに持っている――合い鍵で開け、寮の夕飯時のこの時間ならまず確実に人目につかない抜け道を通って忍び込んだ生徒会第二会議室の準備室。信仁は寿三郎と真籬城に連絡を取り、話せるようになったら必ずわけを話すという約束で着替えとタオル類を持って来てもらっていた。
この二人も、色々と隠し事が多い、らしい。そもそも二人とも帰国子女、おおざっぱにはドイツとの二重国籍って言ってるけど、実際には国境にある都市国家レベルのところらしいし、従姉同士だって言ってるけどそのあたりの家族関係も複雑だってのは聞いた事がある。それもあって、この二人の口の硬さと義理堅さは信用がおけるし、実際信用してる。
その真籬城ちゃんが、あたしと信仁の着替えやら何やら一式をまとめて持って来るついでに、熱くて甘いココアと簡単なサンドイッチを差し入れてくれた。余計な事も聞かず、中を覗く事もせず。本当に、良い娘だと思う。
有り難くて、涙が出た。その有り難い仲間と、もう一緒に居られなくなる、そう思うと、余計に。
もうほんの数日遅ければ。そうすれば、卒業さえしておけば。分かれるにしても、もう少しマシだったろうに。それが、悔しい。
あたしは、サンドイッチの載った小さなガラステーブルを前に、オンボロのソファに腰掛け、マグカップを両手で握ったまま、俯く。こぼれそうになる涙を、堪える。堪え切れてなかったけど。
「らしくねぇぜ、姐さん」
あたしの斜め向かいの壁に立ったまま寄りかかって、信仁は言う。ヒーター全開の準備室は、どんどん暖かくなる。信仁はもう、上着もシャツも脱いで、体と髪を拭いている。
「切り替えていきやしょうぜ。戻れないわけがないんだ。だろ?」
努めて明るく、信仁が言う。こういう時のコイツは、腹が立つほど前向きだ。言いたいことの意味はわかる。人の姿に戻れないわけはない、今のあたしが出来ないだけ。でも、問題はそこじゃない。
「無理よ……ごめん、信仁、あたし、やっぱ出てくわ」
下腹に力を込めて、顔を上げて、あたしは言う。
「悪いけど、荷物は実家に送ってちょうだいって、真籬城ちゃんにお願いしといて。それと、お願い……」
「……誰にも言うつもりはねぇ、絶対にな」
あたしの言いたい事をくみ取って、信仁が返す。さっきもそうだ、わかってもらえてないんじゃなくて、信仁はその一歩か二歩先を考えてたんだ。
でも、今のそれは、あたしのお願いとはちょっと違う。
「……うん。ついでにお願い。あたしの事、きれいさっぱり、忘れて」
あたしは、マグカップを置いて、立ち上がる。
「みんなに知られなくても、あんたには知られちゃったんだ。あたしは、もうここには居られない……あんたに迷惑かかるから、二度と会わない」
後ろ手で、あたしは窓を開ける。
「待て姐さん!そりゃないぜ、俺は……」
「駄目。あたし達には掟があるの。あんたを、殺させるわけには行かないもの……」
「……穏やかじゃねぇな……」
ゆっくり、信仁は壁から体を離す。マグカップをテーブルに置く。
「穏やかじゃないのよ。あたし達をなんだと思ってるの?あたしが何に見える?」
あたしは、両腕を広げてみせる。
「あたしは人狼、アイツの言ったとおり、ケダモノなのよ。敵は殺す、仲間だって、必要があれば掟に従って殺す。あたし達は、そういう生き物よ……どう?」
あたしは、笑ったつもり。自嘲的な笑いだけど。でも、声が震えているのが、自分でもわかった。涙がこぼれた。
「人の姿に戻れないけど、あたし多分、今、獣の姿なら成れる。見せてあげる。あたしの、本当の姿。見て、そして忘れて……さよなら!」
どうすればそうなれるのか、言葉で説明するのは難しい、多分、説明出来ない。でも、頭の中にそっちの道筋があるのは感じていた。戻る道筋がないのも。
あたしは、獣に変じた。制服を、濡れて、ズタズタに破けてるセーラー服と下着を脱いでおくべきだったかも知れないけど、その余裕は無かったし、うん、信仁の前で裸になるのもちょっと、この期に及んで正直、まだ決心て出来なかった。
だから、獣に変じて、そのまま後ろに飛んで窓から飛び出そうとして、ちょっと失敗した。
出来ない事はないんだけど、獣の、狼の後ろ足で、直立した姿勢から後ろに飛ぶのは、まだ慣れてないあたしには、ちょっと難しかった。
跳んでから変じれば良かったんだって、今なら思う。でも、この時のあたしは、そこまで頭が回ってなかった。
だから、飛び出す直前、伸びきった無防備な胴を、あたしは信仁に抱きすくめられてしまったんだ。
「あっ!やっ、離して!」
あたしは、抱きつかれたまま横倒しに倒され、もがいた。
「あ痛て!あ、暴れるな姐さん!痛てこの、暴れるなってんだよ!」
夢中でもがいていたあたしは、血の臭いに気付いて、ハッとした。あたしの手――今は前足――で引っかかれた信仁の顔から、血が出ている。
「あ……ごめ……あっ!」
あたしがたじろいだその一瞬で、信仁はあたしに馬乗りになる。両手であたしの両前足を掴み、後ろ足の付け根に右膝をねじ込んで。
「離さねぇ、離してやらねぇよ、絶対に」
あたしの顔に、狼そのものだろう顔のその耳元に口を近付けて、信仁が言う。
「やめて……」
顔を背けて、あたしは言う。きっと、声としては、人の声には、ほとんど人の言葉としては聞こえていない。でも、言いたいことは伝わっている。きっと、離れて見たら、滑稽な光景だったろう。大柄で半裸の男子が、セーラー服を着た超大型犬――ぱっと見、きっとあたしはバカでかいハスキーか何かに見えると思う、獣に変じても体重はそのままらしい――を組み敷いてその耳元に口を寄せ、その犬は歯を食いしばって顔を背けている、そんなおかしな光景。
「言えよ。なんで逃げるんだよ。掟って何だよ、教えろよ」
ちょっとだけ顔をひいて、あたしの目を見て、信仁が言う。
今のあたしの力は、きっと同じ体格の犬や狼の倍じゃ利かない。力で信仁をはね除けるくらい、わけない。
けど、それは出来ない。やりたくない。
絶対、怪我させてしまうから。
ちょっと引いた彼の、信仁の顔を見ながら、その頬に走る軽いひっかき傷を見ながら、あたしは思う。
でも。言えない。掟の事も、今はあんたと一緒に居る事自体が辛いんだって事も。
「……俺が悪いのか?だったら謝るから。居なくなるのだけはかんべんしてくれ……頼むから」
あたしの、獣の胸元に頭を垂れて、信仁はそう言い、そして付け加えた。
「……俺は、あんたが好きなんだ、本当に」
やめて。
「人かどうかなんてどうだっていいんだ。おれは、あんたが好きなんだ」
お願い、もうやめて。あたしは、意地でも目をあわせたくなくて、遠くの床の隅を見ていた。
そのあたしの右向いている顔を、そっぽ向いてる獣の顔を、信仁は左手で力強く、自分の方に向けようとする。あたしは、抵抗した。けど、獣とは言え首の力では男の腕の力には敵わない。力負けする。
あたしは、必死で目を逸らす。でも、どうしても視界に、信仁の目が入ってしまう。
駄目。わかってる、けど、駄目。だって、あたしは……
「駄目なら駄目で、きちんと理由を言ってくれ。納得出来りゃ、諦めもするさ……そう簡単にゃ、納得も諦めもしねぇけどな」
我慢出来ず、一瞬だけ、あたしは視線を合わせた。合わせてしまった。初めて見る、信仁の、本気の目。闘犬だろうが灰色熊だろうが視線を逸らさせるあたしの、人狼の目を、真正面から見つめる、強い目。
気が付いたら、あたしは、半獣の姿に戻っていた。あたしの目を射貫く信仁の視線が、ぼやけた。目尻から涙が伝い、頬の毛の間に吸い込まれるのが分かった。
心臓が、内臓が、握りつぶされたように縮む感触。思わず背を、膝を丸めてしまう、体の奥から全身を蝕む、辛さ。父さんと母さんが死んだ時に感じた悲しさとは違う、もっと体の奥底の何かが絞り上げられるような、辛さ。
「もう、許して……ダメなんだよ……だって……」
あたしは獣だ、人狼だ。だから、あんたと、一緒にはなれない。そう言えば簡単だろうけど、それは、口に出せない。その一言を口に出したら、あたしはそれを望んでいると、自分で認めてしまうことになるから。
それは、絶対に望んではいけない、許されないことなのだから。
「ね……お願いだから、こんなケダモノの、バケモノの事なんか忘れて。こんな……醜い、あたしの事なんか」
自分で言っていて、自分でそれを認めてるのが、悲しい。あたしは、バケモノなんだ。人と結ばれるなんて、あり得ないし、許されないんだ、と。
「嫌だ」
けど、信仁は、きっぱり言い切りやがった。
「関係ねぇ。俺があんたを好きなんだ。関係ねぇし、絶対忘れてやらねぇ」
「お願い、もう止めて、苦しめないで、分かって……」
「分かってやらねぇよ!ふざけんなよ!」
吐き捨てるように、信仁が言った。
「勝手に決めんなよ!バケモノだ?醜いだ?ざけんな!あんたは綺麗なんだよ!どんな姿でも、俺にとっちゃ大好きな姐さんなんだよ!あんたこそ分かれよ!」
信仁は、あたしの腹の上に馬乗りになると、左手であたしの両手をまとめて頭の上に押さえつけ、右手であたしの頤を掴んだ。
「なんで俺があんたを好きになっちゃダメなんだよ?そんな決まりでもあるのかよ?つかあるんだよな!だったら、んなもん俺がぶち壊してやるよ!」
言って、信仁は軽く俯き、目を閉じる。
「……バカ言わないでよ!何言ってんのよ!あんたなんかが勝てるわけないじゃない!殺されるわよ!」
あたしは、つい口走ってしまった。売り言葉に買い言葉、それに、なんとしてもそんな事やらせちゃいけない、そうも思ったからだ。
けど。だけど、信仁の返事は、あたしの予想外だった。
信仁は、ゆっくり顔を上げて、少し体を引いて、静かに、言ったんだ。
――……あさましいものだ……――
------------------------
「横井 真籬城」の外見イラストをhttps://www.pixiv.net/artworks/91973997に投稿しました。
よろしければご覧下さい。
着替えと一緒に差し入れられたココアをあたしに渡しながら、信仁が言った。
学生寮の裏口を執行部権限で――うやむやのうちに持っている――合い鍵で開け、寮の夕飯時のこの時間ならまず確実に人目につかない抜け道を通って忍び込んだ生徒会第二会議室の準備室。信仁は寿三郎と真籬城に連絡を取り、話せるようになったら必ずわけを話すという約束で着替えとタオル類を持って来てもらっていた。
この二人も、色々と隠し事が多い、らしい。そもそも二人とも帰国子女、おおざっぱにはドイツとの二重国籍って言ってるけど、実際には国境にある都市国家レベルのところらしいし、従姉同士だって言ってるけどそのあたりの家族関係も複雑だってのは聞いた事がある。それもあって、この二人の口の硬さと義理堅さは信用がおけるし、実際信用してる。
その真籬城ちゃんが、あたしと信仁の着替えやら何やら一式をまとめて持って来るついでに、熱くて甘いココアと簡単なサンドイッチを差し入れてくれた。余計な事も聞かず、中を覗く事もせず。本当に、良い娘だと思う。
有り難くて、涙が出た。その有り難い仲間と、もう一緒に居られなくなる、そう思うと、余計に。
もうほんの数日遅ければ。そうすれば、卒業さえしておけば。分かれるにしても、もう少しマシだったろうに。それが、悔しい。
あたしは、サンドイッチの載った小さなガラステーブルを前に、オンボロのソファに腰掛け、マグカップを両手で握ったまま、俯く。こぼれそうになる涙を、堪える。堪え切れてなかったけど。
「らしくねぇぜ、姐さん」
あたしの斜め向かいの壁に立ったまま寄りかかって、信仁は言う。ヒーター全開の準備室は、どんどん暖かくなる。信仁はもう、上着もシャツも脱いで、体と髪を拭いている。
「切り替えていきやしょうぜ。戻れないわけがないんだ。だろ?」
努めて明るく、信仁が言う。こういう時のコイツは、腹が立つほど前向きだ。言いたいことの意味はわかる。人の姿に戻れないわけはない、今のあたしが出来ないだけ。でも、問題はそこじゃない。
「無理よ……ごめん、信仁、あたし、やっぱ出てくわ」
下腹に力を込めて、顔を上げて、あたしは言う。
「悪いけど、荷物は実家に送ってちょうだいって、真籬城ちゃんにお願いしといて。それと、お願い……」
「……誰にも言うつもりはねぇ、絶対にな」
あたしの言いたい事をくみ取って、信仁が返す。さっきもそうだ、わかってもらえてないんじゃなくて、信仁はその一歩か二歩先を考えてたんだ。
でも、今のそれは、あたしのお願いとはちょっと違う。
「……うん。ついでにお願い。あたしの事、きれいさっぱり、忘れて」
あたしは、マグカップを置いて、立ち上がる。
「みんなに知られなくても、あんたには知られちゃったんだ。あたしは、もうここには居られない……あんたに迷惑かかるから、二度と会わない」
後ろ手で、あたしは窓を開ける。
「待て姐さん!そりゃないぜ、俺は……」
「駄目。あたし達には掟があるの。あんたを、殺させるわけには行かないもの……」
「……穏やかじゃねぇな……」
ゆっくり、信仁は壁から体を離す。マグカップをテーブルに置く。
「穏やかじゃないのよ。あたし達をなんだと思ってるの?あたしが何に見える?」
あたしは、両腕を広げてみせる。
「あたしは人狼、アイツの言ったとおり、ケダモノなのよ。敵は殺す、仲間だって、必要があれば掟に従って殺す。あたし達は、そういう生き物よ……どう?」
あたしは、笑ったつもり。自嘲的な笑いだけど。でも、声が震えているのが、自分でもわかった。涙がこぼれた。
「人の姿に戻れないけど、あたし多分、今、獣の姿なら成れる。見せてあげる。あたしの、本当の姿。見て、そして忘れて……さよなら!」
どうすればそうなれるのか、言葉で説明するのは難しい、多分、説明出来ない。でも、頭の中にそっちの道筋があるのは感じていた。戻る道筋がないのも。
あたしは、獣に変じた。制服を、濡れて、ズタズタに破けてるセーラー服と下着を脱いでおくべきだったかも知れないけど、その余裕は無かったし、うん、信仁の前で裸になるのもちょっと、この期に及んで正直、まだ決心て出来なかった。
だから、獣に変じて、そのまま後ろに飛んで窓から飛び出そうとして、ちょっと失敗した。
出来ない事はないんだけど、獣の、狼の後ろ足で、直立した姿勢から後ろに飛ぶのは、まだ慣れてないあたしには、ちょっと難しかった。
跳んでから変じれば良かったんだって、今なら思う。でも、この時のあたしは、そこまで頭が回ってなかった。
だから、飛び出す直前、伸びきった無防備な胴を、あたしは信仁に抱きすくめられてしまったんだ。
「あっ!やっ、離して!」
あたしは、抱きつかれたまま横倒しに倒され、もがいた。
「あ痛て!あ、暴れるな姐さん!痛てこの、暴れるなってんだよ!」
夢中でもがいていたあたしは、血の臭いに気付いて、ハッとした。あたしの手――今は前足――で引っかかれた信仁の顔から、血が出ている。
「あ……ごめ……あっ!」
あたしがたじろいだその一瞬で、信仁はあたしに馬乗りになる。両手であたしの両前足を掴み、後ろ足の付け根に右膝をねじ込んで。
「離さねぇ、離してやらねぇよ、絶対に」
あたしの顔に、狼そのものだろう顔のその耳元に口を近付けて、信仁が言う。
「やめて……」
顔を背けて、あたしは言う。きっと、声としては、人の声には、ほとんど人の言葉としては聞こえていない。でも、言いたいことは伝わっている。きっと、離れて見たら、滑稽な光景だったろう。大柄で半裸の男子が、セーラー服を着た超大型犬――ぱっと見、きっとあたしはバカでかいハスキーか何かに見えると思う、獣に変じても体重はそのままらしい――を組み敷いてその耳元に口を寄せ、その犬は歯を食いしばって顔を背けている、そんなおかしな光景。
「言えよ。なんで逃げるんだよ。掟って何だよ、教えろよ」
ちょっとだけ顔をひいて、あたしの目を見て、信仁が言う。
今のあたしの力は、きっと同じ体格の犬や狼の倍じゃ利かない。力で信仁をはね除けるくらい、わけない。
けど、それは出来ない。やりたくない。
絶対、怪我させてしまうから。
ちょっと引いた彼の、信仁の顔を見ながら、その頬に走る軽いひっかき傷を見ながら、あたしは思う。
でも。言えない。掟の事も、今はあんたと一緒に居る事自体が辛いんだって事も。
「……俺が悪いのか?だったら謝るから。居なくなるのだけはかんべんしてくれ……頼むから」
あたしの、獣の胸元に頭を垂れて、信仁はそう言い、そして付け加えた。
「……俺は、あんたが好きなんだ、本当に」
やめて。
「人かどうかなんてどうだっていいんだ。おれは、あんたが好きなんだ」
お願い、もうやめて。あたしは、意地でも目をあわせたくなくて、遠くの床の隅を見ていた。
そのあたしの右向いている顔を、そっぽ向いてる獣の顔を、信仁は左手で力強く、自分の方に向けようとする。あたしは、抵抗した。けど、獣とは言え首の力では男の腕の力には敵わない。力負けする。
あたしは、必死で目を逸らす。でも、どうしても視界に、信仁の目が入ってしまう。
駄目。わかってる、けど、駄目。だって、あたしは……
「駄目なら駄目で、きちんと理由を言ってくれ。納得出来りゃ、諦めもするさ……そう簡単にゃ、納得も諦めもしねぇけどな」
我慢出来ず、一瞬だけ、あたしは視線を合わせた。合わせてしまった。初めて見る、信仁の、本気の目。闘犬だろうが灰色熊だろうが視線を逸らさせるあたしの、人狼の目を、真正面から見つめる、強い目。
気が付いたら、あたしは、半獣の姿に戻っていた。あたしの目を射貫く信仁の視線が、ぼやけた。目尻から涙が伝い、頬の毛の間に吸い込まれるのが分かった。
心臓が、内臓が、握りつぶされたように縮む感触。思わず背を、膝を丸めてしまう、体の奥から全身を蝕む、辛さ。父さんと母さんが死んだ時に感じた悲しさとは違う、もっと体の奥底の何かが絞り上げられるような、辛さ。
「もう、許して……ダメなんだよ……だって……」
あたしは獣だ、人狼だ。だから、あんたと、一緒にはなれない。そう言えば簡単だろうけど、それは、口に出せない。その一言を口に出したら、あたしはそれを望んでいると、自分で認めてしまうことになるから。
それは、絶対に望んではいけない、許されないことなのだから。
「ね……お願いだから、こんなケダモノの、バケモノの事なんか忘れて。こんな……醜い、あたしの事なんか」
自分で言っていて、自分でそれを認めてるのが、悲しい。あたしは、バケモノなんだ。人と結ばれるなんて、あり得ないし、許されないんだ、と。
「嫌だ」
けど、信仁は、きっぱり言い切りやがった。
「関係ねぇ。俺があんたを好きなんだ。関係ねぇし、絶対忘れてやらねぇ」
「お願い、もう止めて、苦しめないで、分かって……」
「分かってやらねぇよ!ふざけんなよ!」
吐き捨てるように、信仁が言った。
「勝手に決めんなよ!バケモノだ?醜いだ?ざけんな!あんたは綺麗なんだよ!どんな姿でも、俺にとっちゃ大好きな姐さんなんだよ!あんたこそ分かれよ!」
信仁は、あたしの腹の上に馬乗りになると、左手であたしの両手をまとめて頭の上に押さえつけ、右手であたしの頤を掴んだ。
「なんで俺があんたを好きになっちゃダメなんだよ?そんな決まりでもあるのかよ?つかあるんだよな!だったら、んなもん俺がぶち壊してやるよ!」
言って、信仁は軽く俯き、目を閉じる。
「……バカ言わないでよ!何言ってんのよ!あんたなんかが勝てるわけないじゃない!殺されるわよ!」
あたしは、つい口走ってしまった。売り言葉に買い言葉、それに、なんとしてもそんな事やらせちゃいけない、そうも思ったからだ。
けど。だけど、信仁の返事は、あたしの予想外だった。
信仁は、ゆっくり顔を上げて、少し体を引いて、静かに、言ったんだ。
――……あさましいものだ……――
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