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「小僧は逃げたと。逃がしたと。健気よのう、娘、おまえ、一人前におまえもあの小僧を好いておるか。半端者のケダモノの分際で」
小馬鹿にして、桐崎はあたしを蔑む。
「うるさいわよ。どうでもいいじゃない」
「そうだな、どうでも良い。どうせ小細工などお見通しだからな!」
桐崎が、跳ぶ。人の跳躍力ではない。明らかに、ここが夢時空である事を利用した、夢の力でブーストした跳躍力。さっきまでは、桐崎は手加減と言うより遊んでいた。今だって、全力は出していない。あたし達相手に、全力を出す必要はないと、タカをくくっているんだ。
けど、夢の中の戦いそのものは、あたしだって初めてじゃあ、ない。とどめこそ鰍や婆ちゃんに任せてたけど、だからこそあたしはいつも、「削り役」に徹していたけれども。
戦い方は、知っている。
「せっ!」
タイミングを計って、突っ込んでくる桐崎をあたしは木刀で突く。まるで羽が生えているように、桐崎はその突きを避ける。その桐崎の居た空間には、槍のような結晶体。
「りゃあ!」
読み通り。来ると読めていたから、突いた木刀から奔る白い斬撃で、そのままあたしは槍を打ち上げる。
あたしの後ろで、演台が大きな音をたてて砕けた。振り向いたあたしが見たのは、着地のついでに演台を蹴り壊し、破片をまき散らしながらその向こうに着地し、右の結晶の刃を振り上げつつ振り向いた桐崎の姿。
その一瞬、桐崎はあたしを見た。桐崎も読んでいたのだ、あたしの後ろの演台、そこに信仁が隠れて隙を窺っているのを。そして、狙っていたのだ。策を読まれたあたしが、信仁が殺されるのを見て、絶望するその瞬間を。
夢魔にとって、恐怖、苦痛、絶望といった負に振り切った感情は、最高のごちそうだって婆ちゃんから聞いている。桐崎は、まさにそれを狙っていたんだ。
ほんの一瞬、でも認識はスローモーションのように流れる状況の中、勝ち誇ってあたしを見た桐崎は、しかし、表情を変えた。あたしが、この状況でなお、動揺していないのに気付いたのだ。
あたしは、槍を弾き上げた木刀を逆手に握り直す。桐崎の表情が曇る、驚きの色が浮かぶ。
演台の下に隠れていたのは、アニキと、もう一人のチンピラだった。桐崎は、今それに気付いた。でも、もう遅い。
舞台の奥、背後のカーテンから飛び出してきていた信仁が、桐崎に背後からタックルをかける。桐崎の姿勢が崩れる。桐崎の刃があらぬ宙を薙ぐ。
その桐崎を羽交い締めにするように、信仁があたしに桐崎の胸を開いて向け、その真ん中にあたしの生徒手帳を当てる。
あたしは、全身の力を込めて、満身の念を込めて、逆手に持った木刀で生徒手帳ごと桐崎の胸を突いた。
桐崎の断末魔の叫びが、講堂を揺らした。鼓膜が破れるかと思ったほど大きく、気が狂うほどの汚い不協和音。吐き気を催す悲鳴が消えた後は、遠く、正面入り口から聞こえる雨音だけが講堂の中に響いていた。
「……やった、か?」
呼吸を整えつつ、信仁が呟く。
「多分、ね。夢時空が消えてる」
あたしは、入り口から外を見て、言った。気配でもわからなくはないが、目で見る外の雰囲気、小さいが確かに見える、結界の外の景色の色が戻っている。
「こ、これが、桐崎……?」
気の抜けたアニキの声がする。そこにあるのは、信仁に羽交い締めにされている、季節外れの趣味の悪いアロハとパンツにいくつもの弾痕を残す、魂の抜けた屍みたいな男の体。
「……死ぬほど血色悪いな。生きてんのか?これ?」
首筋に指を当て、頸動脈で心拍を確認した信仁が答える。心臓は動いているらしい。弾痕も、切断したはずの腕も、傷跡はあるが穴も無ければ切断もしていない。とはいえ全体に痩せさらばえてどす黒く、まるで集中治療室から抜け出してきた末期ガンの患者のようだ。
「精気のほとんどを吸われたんでしょ。生きてるだけめっけもんよ」
あたしは、木刀を収めながら、言った。
夢時空に封じられた空間の中では、想像力が物を言う。つまり、出来ると思えば何でもできる。文字通り、夢の中だから。
とは言っても、はいそうですかと他人の夢の中で自由に行動出来る奴は滅多に居ない。そもそも夢魔の支配する空間なのだ、当然、邪魔というか妨害というか、思い通りにはさせてもらえない。それを撥ね除けつつ、他人の夢の中で戦えるのが「協会」のハンターの中でも特に「夢魔狩人」と呼ばれる一握りの人材、あたしも一応その一人ではある。
さっき、そんな事を信仁に伝えた後、あたし達は、この演台の下にアニキ達が隠れていた事に気付いた。道場から逃げ出したはいいけど、夢時空からは当然出られなくて、怖くなってここに隠れていたんだそうだ。
あたしの容姿を見てビビるアニキ達を見て、信仁は咄嗟の作戦を思いつき、説明し、実行に移した。つまり、ビビって使い物にならないアニキ達はそのままここでじっとしてれば良い、そのかわり何があっても動かず、声も出すな、と言い聞かせた。
要は、道場で仕掛けた罠と同じ事をもう一度やっただけだが、相手の数を見誤っていると、驚くほど簡単に同じ罠にかかる。相手を見くびっている時はなおさら、そんな事を桐崎は身をもって証明してみせたって、そういう事だった。
あたしの生徒手帳の護符を使う事も信仁の発案だ。結界を抜けられたんだから、本体にも効くだろう。その程度の思いつきだって言ってたけど、逆に言えばそれ以上の効果的な武器は、あたし達は持っていなかったから、そこに賭けるしかなかった。あたしの念を、半獣の姿だからこその、人の姿の時を上回る念をたたき込めればあるいはと思ったけど、結果オーライだったって事だ。
「ここで見た事は他言無用だ、分かってるとは思うけど」
信仁は、アニキにそう言い含める。
「姐さんも俺もここには居なかった、あんた達は組に不義理をしたコイツを追ってここに来て、相打ち同然になった、そんなところか。住居不法侵入と器物損壊と、場合によっちゃ銃刀法違反は背負ってもらうが、そっちの業界なら勲章だろ?」
「……クソ!なんでこんな事に……」
どうやら警備員は暴力ではなく桐崎に眠らされたらしいが、下手をすると器物損壊に傷害致傷がつく。そのあたりも取り引き材料に、信仁は幕引きを提案した。
「コイツが質の悪い、いわゆるキツネ憑きみたいな状態だった、そいつにまんまとあんた達は化かされた、そんなところか。証拠は……まあ、ねぇよなぁ……けど、心当たりはあるんだろ?」
「……畜生……」
アニキもチンピラも、心当たりはあるらしい。
「セキュリティが落ちてるから、もういつ警備会社が来るかわからねぇ。俺たちはフケるぜ。後はお互い見ず知らずだ、よろしく頼むぜ。余計な事口滑らしたら……」
「クソ!どいつもこいつもタチ悪い、てめぇ絶対いい死に方しねぇぞ!」
持出の多い取り引きだが、それでも最悪よりはマシ、アニキもそう計算したらしい。
「そりゃ、心配していただいて恐縮だ。せいぜい舌先三寸で警備会社を煙に巻いてくれ。じゃあよろしく」
言って、信仁はあたしの手を引いて講堂の外に、雨の中に走り出した。
「ちょ、ちょっと待って信仁、待って!」
講堂から渡り廊下越しに教室棟一階に入り、あたしが倒した一人目のチンピラを跨ぎ越し――行きがけの駄賃に信仁は武装を鹵獲し――再び走り出そうとした時。あたしは、思い切って、言った。
「あたし……戻れない」
思いきって言ったけど、そう言うのが精いっぱい。
「え、何、戻れないって……え?」
信仁の問いに、あたしは小さく頷く。
「えっと、元に戻れない、って事?」
もう一度、あたしは小さく頷く。信仁は気付いているんだろうか、あたしの言葉にも、信仁のその聞き返しにも、二重の意味があるって事に。
「いつまでそのカッコで居るんだろうって思ってたけど、まさか姐さん……」
さっきより大きめに、あたしは頷く。やっぱこっちの意味で取るわよね。当然だと、あたしも思うし、実際それは事実だ。
無理矢理に桐崎に、「奴」に人狼の姿にさせられたから、あたしは、戻り方がわからない。
「色々試したけど、戻れないの……だから、あたし、もう戻れない」
二つ目の意味に重きを置いて、あたしは言う。通じたのかどうか、少し考えたふうの信仁が、言う。
「わかった、詳しい事は寮で話やしょう、さあ」
だから、そうじゃない。あたしの肩を抱くようにして走り出そうとする信仁に、あたしの体は抵抗する。立ち止まったまま、踏み出すのを拒む。
俯いたあたしの横顔を見て、一呼吸して、信仁が続ける。
「……とにかく、一旦寮に戻りやしょう。ここに居ると絶対面倒になる」
「だから、戻れないの!あたし、こんなだよ!みんなのところ、戻れるわけ、ないじゃん!」
信仁に、全部じゃないけど、見られた、知られてしまった。この姿のまま寮に帰ったら、みんなにも、知られる。知られたら、もうそこには居られない。だから、あたしはもう、今まで居たところには戻れない。それを、わかってくれていない。そう感じて、あたしは声を荒げてしまった。わかってほしいのに、わかってくれないから。
「だからって!……とにかく着替えて風呂くらい浴びなよ。いくら何でも酷いカッコだぜ……俺は嫌いじゃないけどな」
最期の台詞は軽くおどけながら、あたしの、セーラー服に空いた穴に指をかけて軽く引っ張りながら、信仁が言う。
「やっ!」
反射的に、あたしは右胸のその穴のところを退き、腕でかばう。今更だってのはわかってるけど、血まみれだけど、でも、下着を見られるのはやはり恥ずかしい。
「な?とにかく着替えだけでも、さ。寮の裏口から準備室に入ろう。あそこなら人目につかねぇ」
学生寮は元帝女の校舎、寮に改修されたのは半分くらいで、残りは特別教室や部室に割り当てられている。その中に生徒会の第二会議室があり、元理科室だか社会科室だったかを改修した為、奥に準備室が残っていて、生徒会役員の簡単な打合せだったり、大声では言えないけど秘密のお茶会に使われたりする。そして、特に執行部風紀委員はその役目上、学校や寮の裏口とそこまでの抜け道はほぼ全部把握している。
そして、今のあたしの顔もそうだけど、尻尾は有り難い事にあたしの長いスカートに隠れて見えないけど、セーラーの上着の穴と血糊は間違いなく人目につく。戻らないにしろ何にしろ、着替えはした方がいい、それは確かに間違いはない。
信仁の言うことは、説得力はあった。あるように思えた。思えてしまった。だから、答えた。
「……うん……」
ううん、違う。
今のあたしは、知ってる。その時のあたしは、説得されたって体が、欲しかったんだ、って。
あたしは、信仁のメットを借りて――フルフェイスじゃないから顎は大丈夫、あたしのよりサイズが大きいから尖った耳も問題無く収まった――かぶり、信仁のMVXのタンデムシートに跨がり、信仁の腰に回した腕に力を込めながら、でもそれをかたくなに認めないよう、心を閉じようとしていた。
小馬鹿にして、桐崎はあたしを蔑む。
「うるさいわよ。どうでもいいじゃない」
「そうだな、どうでも良い。どうせ小細工などお見通しだからな!」
桐崎が、跳ぶ。人の跳躍力ではない。明らかに、ここが夢時空である事を利用した、夢の力でブーストした跳躍力。さっきまでは、桐崎は手加減と言うより遊んでいた。今だって、全力は出していない。あたし達相手に、全力を出す必要はないと、タカをくくっているんだ。
けど、夢の中の戦いそのものは、あたしだって初めてじゃあ、ない。とどめこそ鰍や婆ちゃんに任せてたけど、だからこそあたしはいつも、「削り役」に徹していたけれども。
戦い方は、知っている。
「せっ!」
タイミングを計って、突っ込んでくる桐崎をあたしは木刀で突く。まるで羽が生えているように、桐崎はその突きを避ける。その桐崎の居た空間には、槍のような結晶体。
「りゃあ!」
読み通り。来ると読めていたから、突いた木刀から奔る白い斬撃で、そのままあたしは槍を打ち上げる。
あたしの後ろで、演台が大きな音をたてて砕けた。振り向いたあたしが見たのは、着地のついでに演台を蹴り壊し、破片をまき散らしながらその向こうに着地し、右の結晶の刃を振り上げつつ振り向いた桐崎の姿。
その一瞬、桐崎はあたしを見た。桐崎も読んでいたのだ、あたしの後ろの演台、そこに信仁が隠れて隙を窺っているのを。そして、狙っていたのだ。策を読まれたあたしが、信仁が殺されるのを見て、絶望するその瞬間を。
夢魔にとって、恐怖、苦痛、絶望といった負に振り切った感情は、最高のごちそうだって婆ちゃんから聞いている。桐崎は、まさにそれを狙っていたんだ。
ほんの一瞬、でも認識はスローモーションのように流れる状況の中、勝ち誇ってあたしを見た桐崎は、しかし、表情を変えた。あたしが、この状況でなお、動揺していないのに気付いたのだ。
あたしは、槍を弾き上げた木刀を逆手に握り直す。桐崎の表情が曇る、驚きの色が浮かぶ。
演台の下に隠れていたのは、アニキと、もう一人のチンピラだった。桐崎は、今それに気付いた。でも、もう遅い。
舞台の奥、背後のカーテンから飛び出してきていた信仁が、桐崎に背後からタックルをかける。桐崎の姿勢が崩れる。桐崎の刃があらぬ宙を薙ぐ。
その桐崎を羽交い締めにするように、信仁があたしに桐崎の胸を開いて向け、その真ん中にあたしの生徒手帳を当てる。
あたしは、全身の力を込めて、満身の念を込めて、逆手に持った木刀で生徒手帳ごと桐崎の胸を突いた。
桐崎の断末魔の叫びが、講堂を揺らした。鼓膜が破れるかと思ったほど大きく、気が狂うほどの汚い不協和音。吐き気を催す悲鳴が消えた後は、遠く、正面入り口から聞こえる雨音だけが講堂の中に響いていた。
「……やった、か?」
呼吸を整えつつ、信仁が呟く。
「多分、ね。夢時空が消えてる」
あたしは、入り口から外を見て、言った。気配でもわからなくはないが、目で見る外の雰囲気、小さいが確かに見える、結界の外の景色の色が戻っている。
「こ、これが、桐崎……?」
気の抜けたアニキの声がする。そこにあるのは、信仁に羽交い締めにされている、季節外れの趣味の悪いアロハとパンツにいくつもの弾痕を残す、魂の抜けた屍みたいな男の体。
「……死ぬほど血色悪いな。生きてんのか?これ?」
首筋に指を当て、頸動脈で心拍を確認した信仁が答える。心臓は動いているらしい。弾痕も、切断したはずの腕も、傷跡はあるが穴も無ければ切断もしていない。とはいえ全体に痩せさらばえてどす黒く、まるで集中治療室から抜け出してきた末期ガンの患者のようだ。
「精気のほとんどを吸われたんでしょ。生きてるだけめっけもんよ」
あたしは、木刀を収めながら、言った。
夢時空に封じられた空間の中では、想像力が物を言う。つまり、出来ると思えば何でもできる。文字通り、夢の中だから。
とは言っても、はいそうですかと他人の夢の中で自由に行動出来る奴は滅多に居ない。そもそも夢魔の支配する空間なのだ、当然、邪魔というか妨害というか、思い通りにはさせてもらえない。それを撥ね除けつつ、他人の夢の中で戦えるのが「協会」のハンターの中でも特に「夢魔狩人」と呼ばれる一握りの人材、あたしも一応その一人ではある。
さっき、そんな事を信仁に伝えた後、あたし達は、この演台の下にアニキ達が隠れていた事に気付いた。道場から逃げ出したはいいけど、夢時空からは当然出られなくて、怖くなってここに隠れていたんだそうだ。
あたしの容姿を見てビビるアニキ達を見て、信仁は咄嗟の作戦を思いつき、説明し、実行に移した。つまり、ビビって使い物にならないアニキ達はそのままここでじっとしてれば良い、そのかわり何があっても動かず、声も出すな、と言い聞かせた。
要は、道場で仕掛けた罠と同じ事をもう一度やっただけだが、相手の数を見誤っていると、驚くほど簡単に同じ罠にかかる。相手を見くびっている時はなおさら、そんな事を桐崎は身をもって証明してみせたって、そういう事だった。
あたしの生徒手帳の護符を使う事も信仁の発案だ。結界を抜けられたんだから、本体にも効くだろう。その程度の思いつきだって言ってたけど、逆に言えばそれ以上の効果的な武器は、あたし達は持っていなかったから、そこに賭けるしかなかった。あたしの念を、半獣の姿だからこその、人の姿の時を上回る念をたたき込めればあるいはと思ったけど、結果オーライだったって事だ。
「ここで見た事は他言無用だ、分かってるとは思うけど」
信仁は、アニキにそう言い含める。
「姐さんも俺もここには居なかった、あんた達は組に不義理をしたコイツを追ってここに来て、相打ち同然になった、そんなところか。住居不法侵入と器物損壊と、場合によっちゃ銃刀法違反は背負ってもらうが、そっちの業界なら勲章だろ?」
「……クソ!なんでこんな事に……」
どうやら警備員は暴力ではなく桐崎に眠らされたらしいが、下手をすると器物損壊に傷害致傷がつく。そのあたりも取り引き材料に、信仁は幕引きを提案した。
「コイツが質の悪い、いわゆるキツネ憑きみたいな状態だった、そいつにまんまとあんた達は化かされた、そんなところか。証拠は……まあ、ねぇよなぁ……けど、心当たりはあるんだろ?」
「……畜生……」
アニキもチンピラも、心当たりはあるらしい。
「セキュリティが落ちてるから、もういつ警備会社が来るかわからねぇ。俺たちはフケるぜ。後はお互い見ず知らずだ、よろしく頼むぜ。余計な事口滑らしたら……」
「クソ!どいつもこいつもタチ悪い、てめぇ絶対いい死に方しねぇぞ!」
持出の多い取り引きだが、それでも最悪よりはマシ、アニキもそう計算したらしい。
「そりゃ、心配していただいて恐縮だ。せいぜい舌先三寸で警備会社を煙に巻いてくれ。じゃあよろしく」
言って、信仁はあたしの手を引いて講堂の外に、雨の中に走り出した。
「ちょ、ちょっと待って信仁、待って!」
講堂から渡り廊下越しに教室棟一階に入り、あたしが倒した一人目のチンピラを跨ぎ越し――行きがけの駄賃に信仁は武装を鹵獲し――再び走り出そうとした時。あたしは、思い切って、言った。
「あたし……戻れない」
思いきって言ったけど、そう言うのが精いっぱい。
「え、何、戻れないって……え?」
信仁の問いに、あたしは小さく頷く。
「えっと、元に戻れない、って事?」
もう一度、あたしは小さく頷く。信仁は気付いているんだろうか、あたしの言葉にも、信仁のその聞き返しにも、二重の意味があるって事に。
「いつまでそのカッコで居るんだろうって思ってたけど、まさか姐さん……」
さっきより大きめに、あたしは頷く。やっぱこっちの意味で取るわよね。当然だと、あたしも思うし、実際それは事実だ。
無理矢理に桐崎に、「奴」に人狼の姿にさせられたから、あたしは、戻り方がわからない。
「色々試したけど、戻れないの……だから、あたし、もう戻れない」
二つ目の意味に重きを置いて、あたしは言う。通じたのかどうか、少し考えたふうの信仁が、言う。
「わかった、詳しい事は寮で話やしょう、さあ」
だから、そうじゃない。あたしの肩を抱くようにして走り出そうとする信仁に、あたしの体は抵抗する。立ち止まったまま、踏み出すのを拒む。
俯いたあたしの横顔を見て、一呼吸して、信仁が続ける。
「……とにかく、一旦寮に戻りやしょう。ここに居ると絶対面倒になる」
「だから、戻れないの!あたし、こんなだよ!みんなのところ、戻れるわけ、ないじゃん!」
信仁に、全部じゃないけど、見られた、知られてしまった。この姿のまま寮に帰ったら、みんなにも、知られる。知られたら、もうそこには居られない。だから、あたしはもう、今まで居たところには戻れない。それを、わかってくれていない。そう感じて、あたしは声を荒げてしまった。わかってほしいのに、わかってくれないから。
「だからって!……とにかく着替えて風呂くらい浴びなよ。いくら何でも酷いカッコだぜ……俺は嫌いじゃないけどな」
最期の台詞は軽くおどけながら、あたしの、セーラー服に空いた穴に指をかけて軽く引っ張りながら、信仁が言う。
「やっ!」
反射的に、あたしは右胸のその穴のところを退き、腕でかばう。今更だってのはわかってるけど、血まみれだけど、でも、下着を見られるのはやはり恥ずかしい。
「な?とにかく着替えだけでも、さ。寮の裏口から準備室に入ろう。あそこなら人目につかねぇ」
学生寮は元帝女の校舎、寮に改修されたのは半分くらいで、残りは特別教室や部室に割り当てられている。その中に生徒会の第二会議室があり、元理科室だか社会科室だったかを改修した為、奥に準備室が残っていて、生徒会役員の簡単な打合せだったり、大声では言えないけど秘密のお茶会に使われたりする。そして、特に執行部風紀委員はその役目上、学校や寮の裏口とそこまでの抜け道はほぼ全部把握している。
そして、今のあたしの顔もそうだけど、尻尾は有り難い事にあたしの長いスカートに隠れて見えないけど、セーラーの上着の穴と血糊は間違いなく人目につく。戻らないにしろ何にしろ、着替えはした方がいい、それは確かに間違いはない。
信仁の言うことは、説得力はあった。あるように思えた。思えてしまった。だから、答えた。
「……うん……」
ううん、違う。
今のあたしは、知ってる。その時のあたしは、説得されたって体が、欲しかったんだ、って。
あたしは、信仁のメットを借りて――フルフェイスじゃないから顎は大丈夫、あたしのよりサイズが大きいから尖った耳も問題無く収まった――かぶり、信仁のMVXのタンデムシートに跨がり、信仁の腰に回した腕に力を込めながら、でもそれをかたくなに認めないよう、心を閉じようとしていた。
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