西王母の谷-金色にして漆黒の獣魔女、蝕甚を貫きて時空を渡る-Schlucht der Königinmutter des Westens

二式大型七面鳥

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第五章-月齢28.5-

第5章 第70話

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 朝食後部屋に戻り、さてこれからどうしようか、図書室にでも行って読める本でも探すか、メークヴーディヒリーベ少尉も誘って……いや、自室に戻ってないのだったか?などと考えつつ愛用のパイプの手入れをしていたオーガスト・モーリー米陸軍軍医中佐は、扉をノックする音と、室内の様子をうかがう声に気付いた。
「モーリーさん、失礼してもよろしいですかな?」
 声の主は、モーセス・グース氏に間違いない。オーガスト・モーリーは確信し、パイプを懐に仕舞う。
「どうぞ、お入りください、ミスタ・グース」

「朝早くに申し訳ありません」
 部屋に入るなり一礼して詫びるモーセス・グースに、オーガストは微笑んで答える。
「いえ、お気になさらず。もはやさほど早いとは言えない時間ですし」
「そうでした、この都市では生活時間がずれているので、つい」
「して、御用の向きは?」
 モーセスに文机の椅子を勧めつつ、自分はベッドに腰を下ろして、オーガストは話を促す。
「はい。他でも無い、一昨日の出来事につきまして、詳しい話をお聞かせ頂きたく」
「ああ……」
 すぐに、オーガストは思い出す。半ば偶然に遭遇した、異様な光景を。そして、それをきっかけに懐かしい顔に再会したことと、またぞろ面倒ごとに巻き込まれたことを。
「お話しするのはやぶさかではありません、ん?……」
 一瞬、何かに気付いたようにオーガストは眉を上げ、寸秒の後に顎に手を当ててしばし考え、改めて顔を上げる。
「……ユモさんとユキカ……ユキさんにも聞いていただいておくべきと、小官は考えます。メークヴーディヒリーベ少尉にも聞いていただいた方が良いかと」
「さて……そうですね、ケシュカル君に関する事ですから、その方が良いかも知れません。皆さんは、お部屋にいらっしゃいますか?」
「お二人は」
 モーセスに聞き返されて、オーガストは頷いて答える。
「先ほどまで一緒に朝食を摂っておりましたから。メークヴーディヒリーベ少尉は、お部屋にはいらっしゃらないようですが……」
「少尉殿が?」
 やや驚いた様子のモーセスに、オーガストは頷く、少し硬い表情で。
「朝食にもいらっしゃいませんでした。体調不良などでなければ良いのですが」
「……とりあえず、お部屋に伺ってみましょう。いらっしゃらないようならば、誰かを探しにやりましょう」
 言って、モーセスは腰を上げる。
「昼前であれば、図書室には人は居ないはずです。あまり他人に聞かれるのもどうかと思いますので、拙僧としては昼前に済ませてしまいたいと思っております」
 吊られるようにベッドから腰を上げたオーガストは、モーセスの目を見て、頷いた。
 先ほど耳の奥に聞こえた、ニーマントの言葉を思い出しながら。

「……というわけで、お二人がこちらに向かっています」
「オーガストに、上手いことお願い出来たって事ね」
「ほんっと、便利ですよね、ニーマントさんのそれ」
「お褒めいただき光栄です」
「で?少尉さんは部屋に居るのよね?」
「はい。先ほどミス・ドルマが出て行かれて以降、ベッドに入ったまま動きはありません」
「寝ちゃったかな?」
「ミスタ・メークヴーディヒリーベが御自分で語られたとおり、徹夜明けだとしたら、無理からぬ事でしょう」
「まあ、その辺はあたし達は知らないふりでいいとして、よ」
 ユモは、眉根を寄せて、雪風とニーマントに言う。
「何があったか、おおざっぱに見当ついてるけど、それをケシュカルに言った方がいいかどうか、どう思う?」

「あたし達も『窃盗事件』の当事者というか被害者だから、真相を聞く権利はあるわよね」
 部屋の入り口に立って、ノックの後から現れたオーガストとモーセスの二人からこれからの予定を聞いたユモは、そういって座布団の上の雪風に振り向く。
「気持ちの良い話じゃないとは思いますけど、聞いとかないとダメだとは思います」
 雪風は、ユモ越しにモーセスとオーガストを見ながら、答え、立ち上がる。
「という事で、あたし達二人も会議に参加で」
「わかりました」
 モーセスは、頷く。
「では、少尉殿を呼びに参りましょう」

 部屋の扉をノックし、声をかけてみても、ペーター・メークヴーディヒリーベ少尉の答えはなかった。
――中にはいらっしゃいます。ただ、死んだように・・・・・・眠っていらっしゃる御様子です――
 部屋の中の様子を伺ったニーマントが、ユモと雪風、そしてオーガストの耳に囁いた。
「……やはり、いらっしゃらないのですかな?」
 扉の際に立っていたモーセスが、一同に振り向いて言った。
「部屋に居たとしても、返事が無いなら居ないのと同じです。少尉には、後ほど、小官から直接、内容を伝えておきましょう」
 オーガストが、妥協案を示す。
「そうしていただけると助かります。では、お手数ですが、図書室にいらして下さい」
 そう言って、モーセス・グースは図書室に向かって歩き出した。

 午前中のこの時間、来訪者ゲストも含め『都』で活動している人間は、一部の召使いを除いてほぼ居ない。
「いつ頃から、何故、生活時間帯がずれたのか、拙僧も存じ上げません」
 図書室に向けて歩きつつ、モーセス・グースが言う。
「拙僧は普段は殆ど『都』にはらず、街の僧院でお勤めをしておりますから、どうしても早起きになってしまいますが……ですので、昼食後までは、まず誰も図書室に来ないであろうと思います」
 そう言って、モーセス・グースは図書室の扉を開ける。
「どうぞ、お入りください」
 書物が日焼けしない程度に日光の差し込む図書室は、人工灯の廊下や客室――この時間は天井ガラスにカバーがかけられ、来訪者ゲストの安眠を阻害しないようになっている――に比べるとやはり温かみが違う。
 誰もいない図書室に小走りに入ったユモは、あたりを見まわして、
「どっか、こじんまりして声の響かないところがいいわよね?」
 言いながら、そぐわしい場所を探す。
「でしたら」
 モーセスが、基本的に円形の図書館の一角を指さしながら、言う。
「あのあたりの本棚の影が良いでしょう」
 指し示されたそこは、入口から見ていくつかの本棚の影になるような位置関係であり、それでいて誰かが入って来たらすぐ分かる、入口入ってすぐの位置には視線が通る、そんな配置に置かれた洋風のテーブルと椅子のセットだった。
「……うん、まあ、いいか」
 早速椅子に座ったユモは、
「話長くなるようなら、お茶とお茶菓子が欲しいところよね」
「いーかげんにしなさいよ」
 隣に腰を下ろした雪風が、苦笑しつつユモをたしなめる。
「調子乗りすぎ……でも、言われてみりゃこの『都』って、その手のものって見かけないですよね?」
 素朴な疑問を、雪風はモーセスに振る。
「確かに、『都』の中では食堂での食事以外の飲食は基本的に禁じられています。水を飲むのは例外ですが、嗜好品の類いは『都』には用意されておりませんし、同胞団の団員はもちろん、そもそも殆どの外来者ゲストもその手のものは必要としないのです」
「そりゃまたどういう……宗教的なアレですか?仏教徒が生臭なまぐさ食べない、的な?」
「特にそういう戒律が、この『都』にあるわけではないのですが。嗜好品、刺激物の類いは思考の邪魔になると考える方が多いのでしょう、自然にこのようなことになり、それが定着したようです」
「何とも、寂しくはありますね」
 大きめのため息をつきながら、オーガストが感想を述べる。
「酒はともかく、煙草もコーヒーも無いというのは、なかなかに辛いものです」
「お気持ちはよく分かります。ですが、それもまた修行。拙僧などは、そう考えています。だからこそ、寺院に戻った際のお茶プージャが美味しいのです。もっとも、拙僧は殆どの時間はここではなく、『都』の外で過ごしていますが……おかげで、どうしても短期の滞在では、『都』の生活時間帯にリズムが合わないのですが」
 言って、モーセスは苦笑する。
「だとしたら、あんた、朝ご飯はどうしてるの?」
 素朴な質問を、ユモはモーセスに尋ねた。
「摂っておりません。それもまた修行の一つかと」
「うわぁ……あたし、絶対無理」
 遅刻してでも朝食は食べる派の雪風が、心底嫌そうに言う。
「あれ、でも、そしたらドルマさんとかケシュカル君とかも、どうしてるんだろ?」
「ドルマはここ数日は少尉殿と行動を共にしていたようですから、朝もご一緒されていたのでは?ケシュカル君は、実は彼の希望で、一段落したら街の寺院で拙僧の元で小沙弥として身を修める事になろうかと思いますので、今から修行のつもりで飢えと向き合うように言ってあります」
 言葉を切ったモーセスは、ちょっとだけ、表情に憂いを見せる。
「ケシュカル君は、元々、貧農の出であるらしく、そういうのは我慢出来ると言っていましたが……親兄弟も亡くし、誠に不憫なことですが、それでも彼の気質は聡明で前向きで、きっと素晴らしい僧になれるでしょう」
「そうね、ケシュカルが素朴で良い子なのはあたりもそう思うわ」
 明らかにケシュカルの方が年上なはずなのだが、あからさまに上から目線でユモはそう言いきる。
「ケシュカルの事も気になるけど、まずは用事を済ませましょ。おととい、この上で何が起きたか、説明してくれるのよね?」

「そうですね」
 オーガストが、椅子の上で居住まいを正す。
「どこから話しましょうか……ユモさんとユキさんはご存じのはずですが、ミスタ・グース、私、オーガスト・モーリー米陸軍軍医中佐は、軍からの指令によってこのチベットに参りました。密入国ではなく、私が国内にいることはチベット政府も認知しているはずです。ただし」
 ちょっとだけ、オーガストの片眉と片頬が持ち上がる。
「知っているのは、ほんの一握りのはずですが」
「……なるほど。では、事情を詳細に伺うことは……」
「……残念ながら、御期待に添うことは難しいでしょう。同じ理由で、私は、メークヴーディヒリーベ少尉とは『仕事の話』は一切しておりません。私は、折角彼と結んだ友情を反故にしたくはありませんので」
「賢明なことと思います。では、そのあたりの事は棚上げするとしましょう。拙僧としては、政府の考えより、先日何が起きたかの方が重大でもありますし」
「ありがとうございます……そもそも、私がそれを目撃したのは、早朝にナチスのキャンプから荷物が持ち出されるのを、たまたま・・・・、発見したからです」
「たまたま、ね」
「たまたま、です」
 ユモの突っ込みに、オーガストも微笑んで返す。
「ナチスの将校が、チベット人の人足を率いて大荷物をどこかに持ち運んでいる。興味を覚えた私は、付かず離れず後を追跡つける事にしました。さほどの苦労はありませんでした。彼らは、回りや後ろを気にするそぶりが全くありませんでしたから」
 一呼吸、オーガストは回りを見まわしてから、話を続ける。
「この峡谷を進む間、彼らに目立った異変はありませんでした。ただ黙々とどこかへ進む、それだけだったのですが……あの石版、この『都』の手前三、四百ヤード程の所に建てられている石版が見えるか見えないかの所まで来た時、異変は起こりました」
 もう一度、オーガストは一同の顔を見まわす。
「先頭の将校が急に立ち止まり、回りを見まわし、振り向いたかと思うと、人足の先頭の者を指差して、大声を上げました。例えるなら、自分に寄り添っていた誰かが、実は殺人犯であった事に今気付いた、映画や小説ならそんな感じのシーンで役者が演じるような、そんな叫びと身振りでした。私は百ヤードちょっと離れた崖の上からそれを見ていましたし、そこまでチベット語に堪能ではないので何を言っていたのかはわかりませんが、その将校は明らかに錯乱した様子になり、頭を抱えて地面にうずくまり、そして……『変身』したのです」
 ちらりと、ほんの一瞬だけ、オーガストの視線が雪風に流れた事を、ユモと雪風は気付いた。
「そうです、あれは『変身』としか言いようのないものです。黒い制服を着た将校のうずくまった体が、急にディテールのはっきりしない黒い塊のようになった時、私は自分の目を疑いました。急に目がかすんだのか、そう思って目を擦ってからもう一度その将校をよく見ましたが、その時はもうそれは『黒い制服を着たナチスの将校』ではなく、『得体の知れない、おぞましく黒光りする塊』でした」
 オーガストは、言って、大きく息を吸う。
「私は、一瞬で理解しました。服や靴、帽子を含め、さっきまで私が見ていたナチスの将校は、この得体の知れない黒い塊が化けていたのだ、と。そして、私が理解するより早く、その黒い塊は手近な人足の首を刎ね、胴体を両断し、手足を引き千切りました。何か大きな音をたてながら、次から次へと人足達を惨殺し始めたのです。それはおぞましく、むごたらしい光景でしたが、同時に私はあっけにとられて視線を外す事も出来ず、ただそれを見つめていました」
 一呼吸、オーガストは間を置く。
「そして、私は気付いたのです。その黒い塊、あちこちにある、歯の生えた口のたてる音、それは慟哭の叫びである事。同じようにあちこちにある目が流す液体が、涙である事。人足達が、ただただ鏖殺おうさつされ、逃げも隠れも、抵抗もせず棒立ちである事。そして、殺され、人の形を留めずバラバラになった人足達の遺骸から、殆ど血が流れていない事を。どうしてそのようにするのかはわかりませんでしたが、その黒い塊は執拗に人足達の顔を潰し、体を切り刻み、歪め、それはまるで、人の形をしている事が罪であるかのような、溢れる怒りでそれを断罪するかのような、そのようなそぶりに見えました」
 オーガストは、息を呑んで居る一同が無言で話の続きを促している視線を確認し、言葉を続ける。
「無慈悲な殺戮は、時間にすればほんの数秒であったかも知れません。あっけにとられて見ていた私の視野の中で、その黒い塊は、再び人の形、明らかに異形で、とても人とは言えませんが、では何に似ているかと言われれば人と答えるしか無い、その程度には人の形を取りもどして、急に走り出しました。最初、それは私の方に向かってくるように見えましたので、私は大いに慌てましたが、すぐに角度が少し違う、私の横十ヤードほどの所を通過するだろうと気付いて、その黒いものは私に気付いて私もバラバラにしようとしているのでは無さそうだと自分に言い聞かせ、全力で逃げ出したいのをどうにかこらえて観察を続けました。その人に似た黒い何かは、足を踏み出す度に足が三本だったり四本だったり、よく見れば足ではなく手であったりしましたが、とにかくものすごい勢いで走り、崖を駆け上がり、予想通り私から少し離れた所を通って、私には目もくれずに走り去りました。私はしばらくその行方を目で追ってから、今見た事は一体何だったのだろうと考えました。少なくとも、私がこのチベットの山地の空気の薄さと孤独にさいなまれて妄想した悪夢ではない事は、谷底に散らばる哀れな遺骸が証明してくれています。それは、悪夢よりも酷い光景ではありましたが……有難い事に、軍医としての私の経験は、それらの遺骸程度で冷静さを失う事を許すほど私に甘くはありませんでしたが、それにしてもあの黒い塊は衝撃的でした。現実感というものがまるで無い、不定形の塊でありながら人の部品を模した何か、人にして人では無い、むしろ、言うなれば、人がその目的の為だけに必要な部品、器官のみを生成し使役したかのような、悪魔的におぞましくもありつつも機能美に優れているような、自分自身の審美眼すら破壊し上書きされてしまうような衝撃……もし私に、経験と知識から来る自制心と冷静さと、あえて思考と感情を切り離す訓練が無ければ容易に気が触れてしまったかも知れない、それほどの衝撃。時間が経つにつれふつふつと体の内側で膨らみ、心をむさぼり、精神を蝕むそれに半ば打ちのめされて呆然としていた時、ミスタ・グース、貴方と、何よりも懐かしき我が救世主、ユモさんとユキさんが現れたのです。ユモさんとユキさんはともかく、この地の無関係な僧侶ラマであろうミスタ・グースに見られる事は任務上本意ではありませんから咄嗟に身を隠そうとしましたが」
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