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第四章-月齢27.5-

第4章 第63話

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 ペーター少尉がラモチュンに連れられ、宮殿地下の内裏内裏で謁見に臨もうとするその少し前。
 夕食後、もう少し勉強を続けたいと希望したケシュカルとその付き添い兼教師役のモーセス・グースは、図書室に居た。
 生活に必要な最低限の読み書きこそなんとか出来るが、とても仏法の経典を読むことなど出来ない程度の学力であったケシュカルにとって、初歩の初歩から学び直す機会は相当に嬉しかったらしく、モーセスが苦笑する位の熱意と集中力で読み書きの練習に励んでいたが、夕食から少々時間が経った頃、モーセスはふと、ケシュカルが筆を止めている事に気付いた。
「疲れましたか?」
 ずっと頭を使ってるし、食後だし、疲れて眠くなっても道理だと思ったモーセスは、そうケシュカルに声をかけた。
「あ、いや、違います、お坊様」
 顔を上げたケシュカルは、あわてて否定する。
 その顔に、若干の迷いの表情を見せながら。
「ちょっと、考えてました。俺、これでいいのかって」
「これでいいのか、とは?」
 努めて優しく、モーセスは聞き返す。
「……俺、今、この都に来て、すごくよくしてもらえて、すごく幸せです」
 ケシュカルは、少ない語彙から言葉を選びつつ、答える。
「でも、だから、これでいいのかって、さっきから思ってて……俺は、こんなによくしてもらって良い人間じゃない気がして」
「人の価値はそれぞれです。あなたが自分で思う自分の価値と、外から見たあなたの価値は、違っているものです。あなたには、それだけの価値がある。拙僧はそう思います」
「俺が……人を、殺しているとしても……ですか?」
 モーセスの目を見つめて、ケシュカルは絞り出すように言う。
 瞬時、言葉を返せなかったモーセスに向けて、ケシュカルは言葉を重ねる。
「昨日、ユキにぶっ叩かれてから、俺、頭の中がなんかすごいスッキリしているんです。それまでは、なんて言うか……起きてても寝ぼけているような、記憶が抜けてる時間があるような……でも、ユキにぶっ叩かれて、目が覚めたみたいになって……そしたら、いろんな事を思い出してきたんです。チェディと会った事とか、何を話したとか。それから、どうして俺が死んだのかとか……」
「ケシュカル君……」
「俺、多分死んだんです。兄さん達に追われて、チェディと逃げて、途中で足をくじいて、逃げ切れないと思ったから、チェディと分かれて兄さん達を崖の方に連れて行って……」
 視線を机に落したケシュカルは、何かを思い出して、体を震わせる。
「……そうだ、夜、崖のところで俺、ミルゴンに出くわしたんだ。そうだ、アレがミルゴンだったんだ。熊の皮を被って、でもでっかい鉤爪があって、何か変なぐるぐるぶよぶよした頭で……」
「ミルゴン、ですか?」
「はい」
 険しい声で確認するモーセスの、声以上に険しい顔は、視線を机に落しているケシュカルの目には入らない。
「話に聞いた事のある、気を付けろって言われてた山の悪霊の、ミルゴン。はじめは本当に熊かと思って、でもすぐに熊じゃないのはわかったけど、じゃあなんだかわからなくて、人みたいに立って歩いてたけど、途中で熊の皮がズレて、ぐるぐる色の変わる変な頭と、大きな鉤爪が見えて」
 ケシュカルの声は、わずかに震えている。
「そいつ、俺を見て『こっちに来い』って言ったんです。すごく聞き取りづらい、ぶんぶん唸るみたいな声というか音だったけど、確かにそう言ったんです。それで俺、そいつの言葉が聞こえたら、ものすごく恐くなって、逃げようとしたら崖から落ちて……覚えてるんです、何度も崖にぶつかって、途中から痛くなくなって、最後には川に落ちて、沈んで、息が出来なくて、でも、なんか気持ちよくなって……その後、気が付いたら、ドルマさんが俺の顔を見ていて。あれ、ここのどこかだったんですね?でも、俺はその時は何もわからなくて、ドルマさんのことも知らなかったから、大声出しながら逃げて……」
 渋い顔をしたまま、言葉を挟まずケシュカルを見つめているモーセスに、目に涙を溜めたケシュカルが、吐露する。
「……なんにもわからなかったけど、ただ恐くて、とにかく逃げて……ここなら大丈夫、安心出来るって、そう思えるところに逃げて、でも、そこで……」
 話の矛先に気付いて、モーセスは席を立ち、机の周りを回ってケシュカルの側に来る。
「……俺、すごく怖がられて……殴ったり切られたりして……気が付いたら……みんなを、殺して……」
 ケシュカルの声は、いつか泣き声になっている。モーセスは、そのケシュカルの肩に手を置く。
「……俺、父ちゃんと母ちゃんを……婆ちゃんと、姉ちゃん達も……」
 ケシュカルの言葉は、嗚咽で塗りつぶされる。
 モーセスは、そのケシュカルの肩を抱く。
「……その後、ドルマさんが来て・・・・・・・・、その時、俺、わかったんです、ドルマさんは、おんなじだ・・・・・って……だから、ドルマさんに連れられて、ここに戻ってきて……その事も、ユキにぶっ叩かれるまで、ぼんやりしてて……お坊様、俺、だから、こんなふうによくしてもらっていいのかって思って……」
「……一つ、お話をしましょう」
 ケシュカルを抱き込んだまま、モーセスは話はじめる。
「昔、ある所に暴れ者の猿の化生が居ました。その猿は、狼藉の果てに仏に仏罰を当てられ、改心してある修行僧の供をし、その功績から仏となりました」
 モーセスは、ケシュカルの目を見ながら話を続ける。
「過ちは誰にもあります。そして、取り返しのつかない過ちもままあります。どんなに悔やんでも、過ぎたことは戻りません。どんなに辛くとも、自分の行いを無かったことにすることは仏にすら出来ません。ならば、仏ならぬ我らに出来るのは、ただ悔やむだけではなく、悔い改め、善く生きようと努力する事です」
 モーセスは、ケシュカルに優しく微笑む。
「ケシュカル少年、そのようなあなたがここに居ること、拙僧やドルマに出会ったこと、これら全てには必ず意味があります。悔やんでも良いですし、哀しんでも良いのです。罪を自覚し、赦しを請うのも良いでしょう。ただ、前を向き、前に進むことを諦めてはなりません。赦されずとも、悲しみが癒えずとも、人は生きねばならないのです。何故なら、生きるとはすなわち苦しむことと同義なのですから」
 顔を上げたケシュカルに、モーセスはさらに語りかける。
「苦しみに耐えかねてつまずく時もあるでしょう。その時は、遠慮なく誰かを頼るべきです。人は、誰も一人では生きられません。痛みを、悲しみを分かち合い、悦びをも分かち合う仲間が必要であり、必ずそのような者が現れます。少なくとも、ケシュカル少年、あなたもお気づきの通り、ドルマと拙僧は・・・・・・・、あなたの仲間なのですから」
 言われて、ケシュカルはその言葉を咀嚼しつつ、改めて尋ねる。
「……俺、あの白人の旦那の格好で酷い事しました。あれも、赦されるのですか?」
「それは、わかりません。赦す赦さないはその人が決めることですから。しかし、それとは別に、ケシュカル少年、あなたが自分の罪を告白し、懺悔すること、これには意味があります。それこそが己に対し正直になる事、己を見つめること、それを繰り返すことが、悟りへの道の一つなのです」
「お坊様……」
「モーセスで結構ですよ」
「モーセス様、俺……モーセス様のように・・・・・・・・・なれますか?」
 モーセスは、そのケシュカルの言葉の意味を完全に理解し、満面の笑みと共に、答えた。
「もちろん。あなたなら、成れますとも」

 白いシルクのローブを着た同胞団の高官に無言で促され、ペーター少尉はホール入り口と反対側、向かい側の壁面の左右にある扉のうち、より荘厳な飾り付けのある左の扉に向かう。扉に向かう間に自然に目に入るホール左右の通廊、どこに繋がっているのか皆目見当がつかないが、恐らく相当な長さを持つであろう扉のないトンネルにペーター少尉は非常に興味をそそられるが、立ち止まり覗き込みたい欲求を努力して抑え込み、何食わぬ顔を保ったまま、左の扉の前に立つ。
 今まで通った扉よりは小ぶりだが、細工はむしろさらに精緻を極めるその黄金の扉をくぐって、ペーター少尉はさらなる上り階段を上る。あいかわらず不思議な断面の階段だが、最前のホールと同じくここも証明は松明ではなく天井そのものが、いや、その他の壁面も天井ほどではないが明らかに発光している。ペーター少尉はそれが意味する事、未知の科学力、技術力に触れていることに身震いする程の興奮を覚え、しかし、努めて平静を保とうと渾身の努力を続ける。
 さほど長くない階段を上りきっり、踊り場からの扉をくぐった先は、これまた荘厳な広間だった。純白のシルクに金糸の刺繍がたっぷり入ったローブを着た式部官を先頭に九人の祭司長と思われる高位の同胞団員併せて十人がペーター少尉を迎え入れ、うやうやしく礼をし、さらに上の階につながる階段に無言で導く。扉のないその階段の入り口からは厳粛な雰囲気が漂い、ペーター少尉は目指す目的地、謁見の間がすぐそこである事を感じ取った。

 十人の同胞団員を引き連れて階段を上ったペーター少尉は、明らかに雰囲気の違う同胞団員、恐らくは貴き宝珠マニ・リンポチェの秘書官であろう二人に迎え入れられた。手前の階層から付いてきた十人の高官は、確かに秘書官にペーター少尉の身柄が引き継がれたことを確認すると、下の階にしずしずと下がる。
 肩越しにそれを見送ったペーター少尉は、薄く微笑みをその顔に貼り付けたまま微動だにしない秘書官に挟まれ、さてどうしたものかと思案する。
 失礼にならない程度に秘書官の顔と身なりを見てから、ペーター少尉は思い出す。考えてみれば、この秘書官もそうだが、先ほどの高官と言い、それ以外の、上層階に居る他のメンバーも、ありていに言って美男美女ばかり、男女比は女性が少ないとは言え、同胞団の選考基準には外見も含まれているのだろうかとペーター少尉は下世話なことを考えてしまう。だとしたら、自分はそのお眼鏡にかなっているのだろうか、とも。
 そんな事を考えていると、唐突に秘書官の表情が変わり、にっこりと笑顔をペーター少尉に向けて、言った。
「どうぞ、あるじ御前おんまえにおいでください」
 ペーター少尉は、一度深く深呼吸すると、両手でその荘厳極まる黄金の扉を静かに押し開き、謁見の間に歩み入った。
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