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第四章-月齢27.5-
第4章 第62話
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「どうぞ、こちらへ」
夜も更けた頃、あてがわれた自室で一日の記録をつけていたペーター・メークヴーディヒリーベ一般親衛隊少尉は、ラモチュンに連れられて、『宮殿』の扉の前――木綿の外套を着た生気の無い目をした召使い四人が左右に二人ずつ、石像のごとくに守っている――に立っていた。
「『宮殿』の庭園とその周囲はその限りではありませんが、『宮殿』の内部は、我らの主である貴き宝珠の内裏は、みだりに踏み入ることは禁じられています。そして、貴き宝珠への謁見を許されたと言う事は、『宮殿』の内部に入る事を許されたのと同義です。もちろん、内裏はその範囲外ですけれど」
細い目をさらに細めてくすりと小さく笑いながら、ラモチュンはペーター少尉に説明する。
「謁見の間は『宮殿』の地下にありますから、『宮殿』に入らない事には謁見の間に行く事も出来ません」
「なるほど」
ラモチュンは、黄金で出来た鍵で、荘厳な装飾の施されたこれまた黄金の扉を解錠する。分厚く、さぞかし重みのあるだろうその扉は、しかしながらラモチュンの細腕一つで、その指が触れると同時に、軋みもせずにゆるゆると押し開かれた。
『宮殿』――に限らず、『聖なる都』の地下一般部分は全ての区画で三層構造になっている――の第三層エントランスホールに入ったペーター少尉は、一種独特なその空間に圧倒された。
明らかにチベット文化圏の建築物ではない、いや、むしろ西欧でも東洋でもないその内装の作りは、自ら発光しているかのごとき極彩色の抽象画的な壁画に囲まれ、長く見ていると平衡感覚さえ失われるのではないかと思う程のそれであった。
一昨日に立ち入った、『宮殿』の『庭園』は地下第二層で、そこはエントランスからチベット文化圏の建築である事が明らかな作りであり、『庭園』自体もエントランスから壁一つ向こうであったため、そこまで内装に気を取られることはなかったのだが、それにしても、明らかにこの空間は異質だと、ペーター少尉は思う。
呟くように、そのような感想を我知らず漏らしたペーター少尉に、ラモチュンは微笑みつつ応える。
「この壁画は、宇宙の真理を現しているのだそうです。もっとも、私も残念ながら、まだ理解出来る境地には至っていませんが……こちらです」
ペーター少尉の先を歩くラモチュン――何も言わず、当たり前のように、表門に居た召使いのうちの二人がラモチュンに付き添っている――は、短い回廊のドン突きの扉の前で、再度、黄金の鍵を懐から取り出しながら、言った。
「この回廊自体、許可無く『同胞団』以外のものが立ち入ることは出来ませんが、この扉の向こうこそが本当の意味での立ち入り制限区域になります。これまで例がないわけではありませんが、『同胞団』以外のものが立ち入る事自体が非常に希有である事、この先にはそれなりのしきたりがあることをご理解ください。それから、この先は特に許可のない限り沈黙を守って戴けますよう、強くお願いします。よろしいですか?」
ペーター少尉は、既にその沈黙の区間が始まっているかのごとくに、重々しく頷いた。
重厚な黄金の扉を開くには、あまりにもその鍵は小さく儚く、そして美しかった。
その鍵が、かちりと小さな音をたてて錠を解くのを、ペーター少尉は固唾をのんで見守っていた。
鍵を、枷を外された黄金の扉は、お世辞にも体格に恵まれているとは言えないラモチュンの指先の軽い一押しで、まるで自ら開くかのように音も無く押し開かれる。
幅10メートル程、高さ3メートル程の回廊を仕切っていた縦横3メートル程の観音開きの扉の向こうは、幅も高さも5メートル程はあろうという、半球形のホールと、その向こうに口を開ける、さらに地下に向かう階段だった。
いつの間に火を点けたのか、召使いが差し出す松明を受け取って、ペーター少尉は奈落に下るようなその階段の先を照らそうと、松明を前に差し出した。
不思議なことに階段の断面は五角形であり、本来は斜面であった床面にステップを刻んで階段としたらしく、壁面の仕上げと階段の仕上げにやや違いがあった。だとしたら、階段そのものはどうやら後から刻まれたもののようだ、ペーター少尉そう推察する。だとしたら、この階段、斜面は何の為に?壁面に等間隔に窪みが穿たれており、人が手をかけるにしては位置も間隔もあまりにも不自然にすぎるが、一体何の用途なのだろう?見上げた天井も、こうして松明で人が往来している割にはまるで煤けていない。永遠にも思える長い階段を下りつつ、ペーター少尉の頭の中には次から次へと疑問符が浮かび上がってくる。
階段は数メートルおきに踊り場があり、踊り場には扉というより潜水艦か戦車のハッチのようなものがあるのだが、頼りない松明の明かりではうっかりすると見落とすくらいに壁面と一体化しており、一分の隙もなく閉じられたそれはどうやら数年単位、いやそれ以上の年月、開閉された気配が見受けられない。
一体何がそのハッチの向こうにあるのだろうと興味を覚えつつ、ペーター少尉はステップの数を数えながら階段を降り続ける。ステップの段差を20センチと推定して、段数をかけ算するともう100メートル近く下ったことになる。これは、帰りはなかなか苦労しそうだ、などと考えていると、唐突に階段は終わりを告げ、床面が半円を描く踊り場、明らかに別などこかの部屋に連なる前室としての踊り場に着く。
今度は鍵のかかっていない扉が召使いによって押し開かれ、ラモチュンに先導されたペーター少尉は、扉の内の小堂、おそらくはさらに奥のホールの前室であろう、縦横10メートルはあるだろうそこに入った。
小堂の中は、壁の穴に差し込まれた松明によってそこそこの明るさで照らされていた。気温も匂いも、酸欠になる気配もないことから、ペーター少尉はこの区画でもきちんと空調が成されていることを確信し、安心する。
小堂の扉の裏に控えていたのであろう召使いが、ペーター少尉から松明を取り上げて火消し壺に入れ、返す刀でこれまた黄金の噴霧器から香水を拭きかける。聖水で清めるようなものか、あるいは、この香水がここでの聖水そのものか。ペーター少尉は、そんな事を考えながら、抗うことなくされるがままにたっぷりと香水を拭きかけられる。
そうしていながらも、ペーター少尉は、入って来た扉とその向かいを除いて九つ、この小堂から別のどこかに向かうのであろう扉がある事を見て取る。先ほどまでの踊り場にあるハッチ様のそれではなく、入り口と向かいの扉は黄金、それ以外は貴金属ではないものの、ぱっと見は素材がわからない金属で出来ているようだ。それぞれ、どの扉にも四人の召使いが配されている。
納得がいったのだろう、香水を拭きかけていた召使いが下がると、やはり四人の召使いが側に立つ正面の大扉が、重々しく開いた。
扉の奥は大きなホールだった。どうやら召使いの同行はここまでのようで、ホールの中は先ほどまでとは替わって壁という壁に無数の松明が灯されている。
ペーター少尉の油断ない目は、その松明がしかしフェイクであり、その下に灰が落ちていないことも、松明独特の匂いもしないことをすぐに見抜いた。恐らくは松明を形取ることに意味があり、明かりとしての実態は上部居住層を照らす『熱のない炎』と同系統のものなのだろう、ペーター少尉はそのように、自分の中で結論づけた。
この部屋に来て初めて、ペーター少尉は『木綿の粗末な外套を着た召使い』とも、『白い絹の外套を着た同胞団の下位団員』とも違う、チベット独特の呪的記号が刺繍された豪華な外套を着た、恐らくは高位の同胞団員であろう者達を見た。7人いる彼らは、うやうやしく持っていた黒のシルクのローブ――彼ら同様に呪的記号の縫い取りがしてある――を、ペーター少尉に差し出し、身振りでそれを着るよう促す。
ペーター少尉は、一瞬、迷う。どう考えてもこれは儀式の一端であり、そうすべきであるという考え方と、キリスト教徒として明らかに他宗教の支配下に入る事に対する抵抗感の狭間で、迷う。
迷ったが、一瞬で判断し、決断する。
神は心の中にあり、どのような衣を着ようとも、自分はクリスチャンであると。
これは任務であり、個人の信条でこの機会を失うようなことはあってはならないと。
そして、何より、もしこの先にシャンバラが、ヴリル・パワーが、そしてアーリア人に関する何かがあるのならば、どんな犠牲を払ってでも、自分はこの先に進み、それを手に入れなければならないのだ、と。
ペーター少尉は、決断したものの、しかしながらどうやってその外套を着たものだか、迷う。今着ている制服の上着を脱いで、その代わりに外套を着るのが正しいのだろうが、仮にも任務中の身である。一般親衛隊は軍隊ではないが、組織の構成としては限りなく軍に近い。任務中に制服を脱ぐなど、ペーター少尉には考えられないし、第一、今身につけている装備の大半――腰に下げた、木製ストックホルスターに入った拳銃も――を外してしまうことになる。
結局、ペーター少尉は、制服の上からさらに外套を羽織る事にする。多分、ちょっと暑いだろうけれど、今思いつく最善だと、ペーター少尉は判断した。
ペーター少尉が外套を羽織るのを満足げに見ていた七名の高位の同胞団員は、それぞれ松明を手にすると、ペーター少尉に言外について来いと態度で示しながら、ホール奥の上り階段に向かう。
階段を一階層上った先の踊り場で、ペーター少尉は純白の外套――というより、ペーター少尉のものも含めてローブに近い――を着た、見るからに先ほどの七名の同胞団員より階位が高いであろう高官に迎えられた。同じ白の絹のローブであっても、仕立ても形状も明らかにラモチュンの着るそれとは別格で、一目で同胞団内での官位差がわかる。
踊り場から続く小ホールで、今度は宮仕えの同胞団員が立派なフェルト靴をペーター少尉に差し出す。
一瞬、ペーター少尉は戸惑い、そして今度はこれを固辞する。なんとなれば、今履いているブーツも含めて親衛隊の制服であり、そしてなにより、親衛隊の黒い制服にフェルト靴はなんともちぐはぐで、どう考えてもペーター少尉の美意識がその組み合わせを拒んだからだ。
恐らくは、謁見に際してこれら外套や靴を身につけることは当たり前であり、あるいは名誉なことなのだろう。宮仕えは驚いたような、不思議そうな顔をし、七名の同胞団員が頷くのを確認してから引き下がった。
前室である小ホールから、もはや当たり前のように存在する黄金の扉をくぐってペーター少尉は大ホールに入る。数歩歩いてから気配に気付き、後ろを振り向いたペーター少尉は、ゆっくりと閉められる扉の向こうで、小ホールに残ったラモチュンが会釈しているのを見る。してみると、ラモチュンの階位では、これ以上先には原則として入室は許されていない、そういう事なのだろう。
この二つ目の大ホールからは、入り口の扉の他に二つ、入り口と反対側の壁の左右に階段の入り口があった。その他にいくつか、別のどこかに繋がっているであろう通廊の入り口がある。ペーター少尉は、その行き先について聞きたい気持ちでいっぱいだったが、沈黙を保つよう言われていることも忘れてはいなかった。
ふと、ペーター少尉は気付いた。このホールには、松明が無いことに。
天井を見上げたペーター少尉は、天井全体が、まるで居住区画の天井のように、あたかも素通しのガラスのように発光している事に気付く。もちろん、地上からの深さ的にも、時間帯的にも、太陽光がこのホールの届いている道理は無い。
つまり、自発光する面発光体だ。ペーター少尉はそう理会する。もちろん、白熱電球でも、昨今実用化されたばかりの蛍光灯でもない。
未知の、発光デバイス。ペーター少尉は、求めていたものの手がかりに触れている可能性に気付き、身震いした。
夜も更けた頃、あてがわれた自室で一日の記録をつけていたペーター・メークヴーディヒリーベ一般親衛隊少尉は、ラモチュンに連れられて、『宮殿』の扉の前――木綿の外套を着た生気の無い目をした召使い四人が左右に二人ずつ、石像のごとくに守っている――に立っていた。
「『宮殿』の庭園とその周囲はその限りではありませんが、『宮殿』の内部は、我らの主である貴き宝珠の内裏は、みだりに踏み入ることは禁じられています。そして、貴き宝珠への謁見を許されたと言う事は、『宮殿』の内部に入る事を許されたのと同義です。もちろん、内裏はその範囲外ですけれど」
細い目をさらに細めてくすりと小さく笑いながら、ラモチュンはペーター少尉に説明する。
「謁見の間は『宮殿』の地下にありますから、『宮殿』に入らない事には謁見の間に行く事も出来ません」
「なるほど」
ラモチュンは、黄金で出来た鍵で、荘厳な装飾の施されたこれまた黄金の扉を解錠する。分厚く、さぞかし重みのあるだろうその扉は、しかしながらラモチュンの細腕一つで、その指が触れると同時に、軋みもせずにゆるゆると押し開かれた。
『宮殿』――に限らず、『聖なる都』の地下一般部分は全ての区画で三層構造になっている――の第三層エントランスホールに入ったペーター少尉は、一種独特なその空間に圧倒された。
明らかにチベット文化圏の建築物ではない、いや、むしろ西欧でも東洋でもないその内装の作りは、自ら発光しているかのごとき極彩色の抽象画的な壁画に囲まれ、長く見ていると平衡感覚さえ失われるのではないかと思う程のそれであった。
一昨日に立ち入った、『宮殿』の『庭園』は地下第二層で、そこはエントランスからチベット文化圏の建築である事が明らかな作りであり、『庭園』自体もエントランスから壁一つ向こうであったため、そこまで内装に気を取られることはなかったのだが、それにしても、明らかにこの空間は異質だと、ペーター少尉は思う。
呟くように、そのような感想を我知らず漏らしたペーター少尉に、ラモチュンは微笑みつつ応える。
「この壁画は、宇宙の真理を現しているのだそうです。もっとも、私も残念ながら、まだ理解出来る境地には至っていませんが……こちらです」
ペーター少尉の先を歩くラモチュン――何も言わず、当たり前のように、表門に居た召使いのうちの二人がラモチュンに付き添っている――は、短い回廊のドン突きの扉の前で、再度、黄金の鍵を懐から取り出しながら、言った。
「この回廊自体、許可無く『同胞団』以外のものが立ち入ることは出来ませんが、この扉の向こうこそが本当の意味での立ち入り制限区域になります。これまで例がないわけではありませんが、『同胞団』以外のものが立ち入る事自体が非常に希有である事、この先にはそれなりのしきたりがあることをご理解ください。それから、この先は特に許可のない限り沈黙を守って戴けますよう、強くお願いします。よろしいですか?」
ペーター少尉は、既にその沈黙の区間が始まっているかのごとくに、重々しく頷いた。
重厚な黄金の扉を開くには、あまりにもその鍵は小さく儚く、そして美しかった。
その鍵が、かちりと小さな音をたてて錠を解くのを、ペーター少尉は固唾をのんで見守っていた。
鍵を、枷を外された黄金の扉は、お世辞にも体格に恵まれているとは言えないラモチュンの指先の軽い一押しで、まるで自ら開くかのように音も無く押し開かれる。
幅10メートル程、高さ3メートル程の回廊を仕切っていた縦横3メートル程の観音開きの扉の向こうは、幅も高さも5メートル程はあろうという、半球形のホールと、その向こうに口を開ける、さらに地下に向かう階段だった。
いつの間に火を点けたのか、召使いが差し出す松明を受け取って、ペーター少尉は奈落に下るようなその階段の先を照らそうと、松明を前に差し出した。
不思議なことに階段の断面は五角形であり、本来は斜面であった床面にステップを刻んで階段としたらしく、壁面の仕上げと階段の仕上げにやや違いがあった。だとしたら、階段そのものはどうやら後から刻まれたもののようだ、ペーター少尉そう推察する。だとしたら、この階段、斜面は何の為に?壁面に等間隔に窪みが穿たれており、人が手をかけるにしては位置も間隔もあまりにも不自然にすぎるが、一体何の用途なのだろう?見上げた天井も、こうして松明で人が往来している割にはまるで煤けていない。永遠にも思える長い階段を下りつつ、ペーター少尉の頭の中には次から次へと疑問符が浮かび上がってくる。
階段は数メートルおきに踊り場があり、踊り場には扉というより潜水艦か戦車のハッチのようなものがあるのだが、頼りない松明の明かりではうっかりすると見落とすくらいに壁面と一体化しており、一分の隙もなく閉じられたそれはどうやら数年単位、いやそれ以上の年月、開閉された気配が見受けられない。
一体何がそのハッチの向こうにあるのだろうと興味を覚えつつ、ペーター少尉はステップの数を数えながら階段を降り続ける。ステップの段差を20センチと推定して、段数をかけ算するともう100メートル近く下ったことになる。これは、帰りはなかなか苦労しそうだ、などと考えていると、唐突に階段は終わりを告げ、床面が半円を描く踊り場、明らかに別などこかの部屋に連なる前室としての踊り場に着く。
今度は鍵のかかっていない扉が召使いによって押し開かれ、ラモチュンに先導されたペーター少尉は、扉の内の小堂、おそらくはさらに奥のホールの前室であろう、縦横10メートルはあるだろうそこに入った。
小堂の中は、壁の穴に差し込まれた松明によってそこそこの明るさで照らされていた。気温も匂いも、酸欠になる気配もないことから、ペーター少尉はこの区画でもきちんと空調が成されていることを確信し、安心する。
小堂の扉の裏に控えていたのであろう召使いが、ペーター少尉から松明を取り上げて火消し壺に入れ、返す刀でこれまた黄金の噴霧器から香水を拭きかける。聖水で清めるようなものか、あるいは、この香水がここでの聖水そのものか。ペーター少尉は、そんな事を考えながら、抗うことなくされるがままにたっぷりと香水を拭きかけられる。
そうしていながらも、ペーター少尉は、入って来た扉とその向かいを除いて九つ、この小堂から別のどこかに向かうのであろう扉がある事を見て取る。先ほどまでの踊り場にあるハッチ様のそれではなく、入り口と向かいの扉は黄金、それ以外は貴金属ではないものの、ぱっと見は素材がわからない金属で出来ているようだ。それぞれ、どの扉にも四人の召使いが配されている。
納得がいったのだろう、香水を拭きかけていた召使いが下がると、やはり四人の召使いが側に立つ正面の大扉が、重々しく開いた。
扉の奥は大きなホールだった。どうやら召使いの同行はここまでのようで、ホールの中は先ほどまでとは替わって壁という壁に無数の松明が灯されている。
ペーター少尉の油断ない目は、その松明がしかしフェイクであり、その下に灰が落ちていないことも、松明独特の匂いもしないことをすぐに見抜いた。恐らくは松明を形取ることに意味があり、明かりとしての実態は上部居住層を照らす『熱のない炎』と同系統のものなのだろう、ペーター少尉はそのように、自分の中で結論づけた。
この部屋に来て初めて、ペーター少尉は『木綿の粗末な外套を着た召使い』とも、『白い絹の外套を着た同胞団の下位団員』とも違う、チベット独特の呪的記号が刺繍された豪華な外套を着た、恐らくは高位の同胞団員であろう者達を見た。7人いる彼らは、うやうやしく持っていた黒のシルクのローブ――彼ら同様に呪的記号の縫い取りがしてある――を、ペーター少尉に差し出し、身振りでそれを着るよう促す。
ペーター少尉は、一瞬、迷う。どう考えてもこれは儀式の一端であり、そうすべきであるという考え方と、キリスト教徒として明らかに他宗教の支配下に入る事に対する抵抗感の狭間で、迷う。
迷ったが、一瞬で判断し、決断する。
神は心の中にあり、どのような衣を着ようとも、自分はクリスチャンであると。
これは任務であり、個人の信条でこの機会を失うようなことはあってはならないと。
そして、何より、もしこの先にシャンバラが、ヴリル・パワーが、そしてアーリア人に関する何かがあるのならば、どんな犠牲を払ってでも、自分はこの先に進み、それを手に入れなければならないのだ、と。
ペーター少尉は、決断したものの、しかしながらどうやってその外套を着たものだか、迷う。今着ている制服の上着を脱いで、その代わりに外套を着るのが正しいのだろうが、仮にも任務中の身である。一般親衛隊は軍隊ではないが、組織の構成としては限りなく軍に近い。任務中に制服を脱ぐなど、ペーター少尉には考えられないし、第一、今身につけている装備の大半――腰に下げた、木製ストックホルスターに入った拳銃も――を外してしまうことになる。
結局、ペーター少尉は、制服の上からさらに外套を羽織る事にする。多分、ちょっと暑いだろうけれど、今思いつく最善だと、ペーター少尉は判断した。
ペーター少尉が外套を羽織るのを満足げに見ていた七名の高位の同胞団員は、それぞれ松明を手にすると、ペーター少尉に言外について来いと態度で示しながら、ホール奥の上り階段に向かう。
階段を一階層上った先の踊り場で、ペーター少尉は純白の外套――というより、ペーター少尉のものも含めてローブに近い――を着た、見るからに先ほどの七名の同胞団員より階位が高いであろう高官に迎えられた。同じ白の絹のローブであっても、仕立ても形状も明らかにラモチュンの着るそれとは別格で、一目で同胞団内での官位差がわかる。
踊り場から続く小ホールで、今度は宮仕えの同胞団員が立派なフェルト靴をペーター少尉に差し出す。
一瞬、ペーター少尉は戸惑い、そして今度はこれを固辞する。なんとなれば、今履いているブーツも含めて親衛隊の制服であり、そしてなにより、親衛隊の黒い制服にフェルト靴はなんともちぐはぐで、どう考えてもペーター少尉の美意識がその組み合わせを拒んだからだ。
恐らくは、謁見に際してこれら外套や靴を身につけることは当たり前であり、あるいは名誉なことなのだろう。宮仕えは驚いたような、不思議そうな顔をし、七名の同胞団員が頷くのを確認してから引き下がった。
前室である小ホールから、もはや当たり前のように存在する黄金の扉をくぐってペーター少尉は大ホールに入る。数歩歩いてから気配に気付き、後ろを振り向いたペーター少尉は、ゆっくりと閉められる扉の向こうで、小ホールに残ったラモチュンが会釈しているのを見る。してみると、ラモチュンの階位では、これ以上先には原則として入室は許されていない、そういう事なのだろう。
この二つ目の大ホールからは、入り口の扉の他に二つ、入り口と反対側の壁の左右に階段の入り口があった。その他にいくつか、別のどこかに繋がっているであろう通廊の入り口がある。ペーター少尉は、その行き先について聞きたい気持ちでいっぱいだったが、沈黙を保つよう言われていることも忘れてはいなかった。
ふと、ペーター少尉は気付いた。このホールには、松明が無いことに。
天井を見上げたペーター少尉は、天井全体が、まるで居住区画の天井のように、あたかも素通しのガラスのように発光している事に気付く。もちろん、地上からの深さ的にも、時間帯的にも、太陽光がこのホールの届いている道理は無い。
つまり、自発光する面発光体だ。ペーター少尉はそう理会する。もちろん、白熱電球でも、昨今実用化されたばかりの蛍光灯でもない。
未知の、発光デバイス。ペーター少尉は、求めていたものの手がかりに触れている可能性に気付き、身震いした。
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