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第三章-月齢26.5-
第3章 第28話
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「え?」
一瞬虚を突かれ、すぐに雪風の一言を理解したモーセス・グースは、雪風の視線を辿って崖の上を見る。
多少なりとも日差しの遮られるU字谷の谷底から見上げる崖の上は、抜けるような青空を背に黒く強いコントラストをもってそびえ立つ。
その崖の端に、一瞬、空より白い何かが見えた。
「あれが?」
「話は後で聞くわ!」
ユモの怒鳴り声が聞こえた。その声が移動している事に気付いて、モーセスは視線をそちらに向ける。
「ユキ!」
「あいよ!」
小走りに崖に向かって駆け出したユモを、ペーター少尉の書簡を放り出して走り出し、すぐにユモに追いついた雪風が抱え上げ、横抱きにしたまま崖に突進する。U字谷の、まだ比較的勾配が緩い底付近を真っ直ぐ駆け上り、勾配がきつくなるにつれて進路をジグザグに切り替え、高地の山羊もかくやという足取りで雪風は崖を駆け上る。
「なんと……」
放り出された書簡をお手玉しつつ受け取り、それからユモと雪風の背中を視線で追ったモーセスは、驚愕した眼でその後ろ姿を見送る。
それほど高いものではないとは言え、あっという間に崖を駆け上り、そのまま姿を消した雪風と、雪風が横抱きにしたままだったユモを見送って、モーセスはしばし立ち尽くしていた。
「居た!」
崖の上に上がったところで、もはや誰にも見られないと確信した雪風は人狼の姿になっていた。
その目は、鼻は、感覚は、ヒトのそれをはるかに超える。その雪風の眼が、彼方を歩き去ろうとする白い獣――の、ようなもの――を見つける。
「あれは……」
その雪風の腕の中で、ユモは目をこらす。人の姿の時でさえ雪風より若干視力で劣るユモの肉眼では、その白い獣の正体をはっきりと捉えられない。
だが。ユモの感覚は、雪風の示すそこに、この地では有り得べからざる放射閃を感じる。
「……ヨド・ヘー・ヴァウ・ヘー!アー・ドー・ナイ!……」
咄嗟に、ユモは雪風の腕の中で、呪文を唱える。
「……我が四方に大天使ありて、我が廻りに五芒星燃え、我が頭上に六星輝く!精霊よ!疾く現れ出でて、風を司りて我が声を彼のものにのみ聞こえせしめよ!」
大気を振動させて精霊を使役したユモは、一息、大きくその胸に吸い込み直すと、大音声で叫ぶ。
「停まりなさい!オーガスト・モーリー!」
その声は、目の善い者にのみ見えるエーテルの輝きを纏って、真一文字に音速で駆ける。はるか先の、白い獣に向けて。
そして。その声は、輝きは、狙い違わず、白い獣をまるで背中から撃ち抜くかのように捕らえ、そこで四散する。
はたして、獣はそこで足を停め、背筋を伸ばすと、ゆっくりと振り向く。
熊そのものの両手が、ゆっくりと白熊の顔を左右から押さえ、ずるりと、上に引き抜く。
「やっぱり……」
立ち止まった白熊にあっという間に追いついた漆黒の人狼の腕の中で、ユモは呟いた。
「……放射閃に狂いはなかったわね」
「驚きました。十年ぶり、に、なりますか。ジュモー、いえ、ユモ嬢、本当にお変わりなく」
そう言って、白熊の頭蓋を脱いだその下から現れたオーガスト・モーリー米陸軍軍医大尉の白い顔は、相好を崩した。
「……頭では理屈はわかっているつもりでしたが、こうして再び見えますと、いやはやなんとも」
「うわあ、オーガストさん、お久しぶりです」
横抱きにしていたユモを降ろしながら、雪風もオーガストを認めて、普通に挨拶する。
「これは……お召し物からそうではと思っていましたが、やはりあなたがユキさんでしたか……」
「え?……あ。」
雪風は、遅れて気付いた。オーガスト・モーリの前で人狼の姿をさらしたのは、実はこれが初めてである事を。
「うわ、見られちゃった……」
「おお……」
何となく恥じ入った雪風が、するりと人の姿に成ったのを見て、オーガストは感嘆する。
「……なんと……神よ、今再び彼の少女達に引き合わせていただいたこの幸運を感謝いたします」
「なるほど、信心深さは変わっていらっしゃらないのですね」
ユモの胸元から、声がした。
「ご無沙汰しております、ミスタ・モーリー。お変わりないようで何よりです」
「おお、ミスタ・ニーマント、あなたもいらっしゃいましたか。いや、それはそうだ。ユモ嬢があなたを手放されるはずがない。なにしろ、あれだけの苦労をされて、私からあなたを奪い返されたのですから」
「その通りです、ミスタ・モーリー。そして、私は、ユモさんとユキカゼさんと共に、あれから色々と素晴らしい経験を重ねております。その上で、私はあなたに一つお聞きしたい」
もう一つ感情のこもらない、飄々とした声で、ニーマントはオーガストに聞いた。
「ミスタ・モーリー。あなたは今、何の神に感謝を示されたのでしょうか?」
「……なるほど、ミスタ・ニーマント、あなたの言わんとする事は理解出来ます。お答えしましょう」
オーガスト・モーリーは、曇りのない笑顔で答える。
「私の信仰する神はただ一つ、主イエスに他なりません。如何に私がその他の神々、この世の果てから来た蕃神を見知ったとしても、です」
自分の胸に手を当て、オーガストは続ける。
「信仰とはそういうもの……多少なりとも『外なる神』を知ったからこそ、私はそう思えるのです」
その姿は、痩せた白熊のようであるからこそ、滑稽でありながら、妙にまた尊くも見えるものであった。
「……かくも信仰とは面倒なものね」
ユモは、鼻息荒く茶々を入れる。
「再会を祝いたいし、なんでそんな着ぐるみ着てるのかとか色々聞きたいところだけど、今ちょっと取り込んでるの……あんた、色々見てるんでしょ?教えて?ここで一体、何がどうなってるのか?」
ユモと雪風の顔を交互に見つめ、少し考えてから、オーガストはおもむろに口を開いた。
「……事情はよくわかりませんが、下に居る僧や、先ほどのあれとお二方が関係しているのですね。わかりました」
オーガストは、谷川に数歩近づきながら、言う。
「簡潔に申し上げましょう。先ほど、この下で、チベット人の人足6名が惨殺されました。下からいらしたのですから、現場はご覧になっていますね?」
ユモと雪風は、頷く。重々しく。
「加害者は、ナチスの将校でした……お心当たりでも?」
ユモと雪風の顔色が変わったのに気付いたのだろう、オーガストが尋ねる。
「あるわ……でも、とりあえず、続けて頂戴」
「実を言うと私は、今に至るもアメリカ陸軍に在席しております。詳細は省きますが、ここでの私の任務は、チベットで活動するナチスの監視であり、これに伴う権限の拡大の意味と、この十年の軍に対する貢献から、今の私は中佐に昇進しています」
オーガストは、白熊の着ぐるみの胸で揺れる、軍用双眼鏡を押さえる。
「とはいえ、この地域のナチスの活動は地質調査ばかりで、さほど重要ではないと思っておりました。ところが三日前、大きな破裂音があり、以降、どうも動きがおかしい。今にして思えば、あれはお二方がこの地に出現された、十年前のあれと同じ現象だったと理解出来たところですが、今の今までそれを知らなかった私は、本朝、意を決して彼らのキャンプ付近まで可能な限り接近しようと思ったところ、一名の将校がなにやら大荷物をチベット人の人足に運ばせている所に遭遇、様子を伺いつつ後をつけたところ、この谷に至りました。そして、私は自分の目を疑う光景を見ました」
一度言葉を切って、オーガストはユモと雪風に視線を合わせる。無言で、ユモも雪風も話の先を促す。
「突如、ナチスの将校は頭を抱えて膝をつき、ひとしきりもがくと、急に暴れ始めました。それはもう、かつて見た『ウェンディゴ症候群』患者の比ではなく、あっという間に6人の人足全てを惨殺し、それでも飽き足らないのか遺体をバラバラにして、いずこかに走り去りました」
「……うわ」
「……マジか」
思わず、ユモも雪風も眉根を寄せる。
「問題は、それだけではありません」
オーガストも、顔を曇らせて、続ける。
「距離があったのではっきりとは見えなかったのですが、恐らくですが、走り去った時点で、いや、人足を殺していた時点で、彼はナチスの将校の姿ではありませんでした」
「え?」
「それって、どういう……」
「どう言えばいいのか、私にもよくわかりません」
ユモと雪風の問い返しに、暗い顔で、オーガストは答える。
「水面に流れた油のようにきらめく皮膚を持つ、人型の、しかし人では無い名状しがたき何か、と言ったところでしょうか……」
一瞬虚を突かれ、すぐに雪風の一言を理解したモーセス・グースは、雪風の視線を辿って崖の上を見る。
多少なりとも日差しの遮られるU字谷の谷底から見上げる崖の上は、抜けるような青空を背に黒く強いコントラストをもってそびえ立つ。
その崖の端に、一瞬、空より白い何かが見えた。
「あれが?」
「話は後で聞くわ!」
ユモの怒鳴り声が聞こえた。その声が移動している事に気付いて、モーセスは視線をそちらに向ける。
「ユキ!」
「あいよ!」
小走りに崖に向かって駆け出したユモを、ペーター少尉の書簡を放り出して走り出し、すぐにユモに追いついた雪風が抱え上げ、横抱きにしたまま崖に突進する。U字谷の、まだ比較的勾配が緩い底付近を真っ直ぐ駆け上り、勾配がきつくなるにつれて進路をジグザグに切り替え、高地の山羊もかくやという足取りで雪風は崖を駆け上る。
「なんと……」
放り出された書簡をお手玉しつつ受け取り、それからユモと雪風の背中を視線で追ったモーセスは、驚愕した眼でその後ろ姿を見送る。
それほど高いものではないとは言え、あっという間に崖を駆け上り、そのまま姿を消した雪風と、雪風が横抱きにしたままだったユモを見送って、モーセスはしばし立ち尽くしていた。
「居た!」
崖の上に上がったところで、もはや誰にも見られないと確信した雪風は人狼の姿になっていた。
その目は、鼻は、感覚は、ヒトのそれをはるかに超える。その雪風の眼が、彼方を歩き去ろうとする白い獣――の、ようなもの――を見つける。
「あれは……」
その雪風の腕の中で、ユモは目をこらす。人の姿の時でさえ雪風より若干視力で劣るユモの肉眼では、その白い獣の正体をはっきりと捉えられない。
だが。ユモの感覚は、雪風の示すそこに、この地では有り得べからざる放射閃を感じる。
「……ヨド・ヘー・ヴァウ・ヘー!アー・ドー・ナイ!……」
咄嗟に、ユモは雪風の腕の中で、呪文を唱える。
「……我が四方に大天使ありて、我が廻りに五芒星燃え、我が頭上に六星輝く!精霊よ!疾く現れ出でて、風を司りて我が声を彼のものにのみ聞こえせしめよ!」
大気を振動させて精霊を使役したユモは、一息、大きくその胸に吸い込み直すと、大音声で叫ぶ。
「停まりなさい!オーガスト・モーリー!」
その声は、目の善い者にのみ見えるエーテルの輝きを纏って、真一文字に音速で駆ける。はるか先の、白い獣に向けて。
そして。その声は、輝きは、狙い違わず、白い獣をまるで背中から撃ち抜くかのように捕らえ、そこで四散する。
はたして、獣はそこで足を停め、背筋を伸ばすと、ゆっくりと振り向く。
熊そのものの両手が、ゆっくりと白熊の顔を左右から押さえ、ずるりと、上に引き抜く。
「やっぱり……」
立ち止まった白熊にあっという間に追いついた漆黒の人狼の腕の中で、ユモは呟いた。
「……放射閃に狂いはなかったわね」
「驚きました。十年ぶり、に、なりますか。ジュモー、いえ、ユモ嬢、本当にお変わりなく」
そう言って、白熊の頭蓋を脱いだその下から現れたオーガスト・モーリー米陸軍軍医大尉の白い顔は、相好を崩した。
「……頭では理屈はわかっているつもりでしたが、こうして再び見えますと、いやはやなんとも」
「うわあ、オーガストさん、お久しぶりです」
横抱きにしていたユモを降ろしながら、雪風もオーガストを認めて、普通に挨拶する。
「これは……お召し物からそうではと思っていましたが、やはりあなたがユキさんでしたか……」
「え?……あ。」
雪風は、遅れて気付いた。オーガスト・モーリの前で人狼の姿をさらしたのは、実はこれが初めてである事を。
「うわ、見られちゃった……」
「おお……」
何となく恥じ入った雪風が、するりと人の姿に成ったのを見て、オーガストは感嘆する。
「……なんと……神よ、今再び彼の少女達に引き合わせていただいたこの幸運を感謝いたします」
「なるほど、信心深さは変わっていらっしゃらないのですね」
ユモの胸元から、声がした。
「ご無沙汰しております、ミスタ・モーリー。お変わりないようで何よりです」
「おお、ミスタ・ニーマント、あなたもいらっしゃいましたか。いや、それはそうだ。ユモ嬢があなたを手放されるはずがない。なにしろ、あれだけの苦労をされて、私からあなたを奪い返されたのですから」
「その通りです、ミスタ・モーリー。そして、私は、ユモさんとユキカゼさんと共に、あれから色々と素晴らしい経験を重ねております。その上で、私はあなたに一つお聞きしたい」
もう一つ感情のこもらない、飄々とした声で、ニーマントはオーガストに聞いた。
「ミスタ・モーリー。あなたは今、何の神に感謝を示されたのでしょうか?」
「……なるほど、ミスタ・ニーマント、あなたの言わんとする事は理解出来ます。お答えしましょう」
オーガスト・モーリーは、曇りのない笑顔で答える。
「私の信仰する神はただ一つ、主イエスに他なりません。如何に私がその他の神々、この世の果てから来た蕃神を見知ったとしても、です」
自分の胸に手を当て、オーガストは続ける。
「信仰とはそういうもの……多少なりとも『外なる神』を知ったからこそ、私はそう思えるのです」
その姿は、痩せた白熊のようであるからこそ、滑稽でありながら、妙にまた尊くも見えるものであった。
「……かくも信仰とは面倒なものね」
ユモは、鼻息荒く茶々を入れる。
「再会を祝いたいし、なんでそんな着ぐるみ着てるのかとか色々聞きたいところだけど、今ちょっと取り込んでるの……あんた、色々見てるんでしょ?教えて?ここで一体、何がどうなってるのか?」
ユモと雪風の顔を交互に見つめ、少し考えてから、オーガストはおもむろに口を開いた。
「……事情はよくわかりませんが、下に居る僧や、先ほどのあれとお二方が関係しているのですね。わかりました」
オーガストは、谷川に数歩近づきながら、言う。
「簡潔に申し上げましょう。先ほど、この下で、チベット人の人足6名が惨殺されました。下からいらしたのですから、現場はご覧になっていますね?」
ユモと雪風は、頷く。重々しく。
「加害者は、ナチスの将校でした……お心当たりでも?」
ユモと雪風の顔色が変わったのに気付いたのだろう、オーガストが尋ねる。
「あるわ……でも、とりあえず、続けて頂戴」
「実を言うと私は、今に至るもアメリカ陸軍に在席しております。詳細は省きますが、ここでの私の任務は、チベットで活動するナチスの監視であり、これに伴う権限の拡大の意味と、この十年の軍に対する貢献から、今の私は中佐に昇進しています」
オーガストは、白熊の着ぐるみの胸で揺れる、軍用双眼鏡を押さえる。
「とはいえ、この地域のナチスの活動は地質調査ばかりで、さほど重要ではないと思っておりました。ところが三日前、大きな破裂音があり、以降、どうも動きがおかしい。今にして思えば、あれはお二方がこの地に出現された、十年前のあれと同じ現象だったと理解出来たところですが、今の今までそれを知らなかった私は、本朝、意を決して彼らのキャンプ付近まで可能な限り接近しようと思ったところ、一名の将校がなにやら大荷物をチベット人の人足に運ばせている所に遭遇、様子を伺いつつ後をつけたところ、この谷に至りました。そして、私は自分の目を疑う光景を見ました」
一度言葉を切って、オーガストはユモと雪風に視線を合わせる。無言で、ユモも雪風も話の先を促す。
「突如、ナチスの将校は頭を抱えて膝をつき、ひとしきりもがくと、急に暴れ始めました。それはもう、かつて見た『ウェンディゴ症候群』患者の比ではなく、あっという間に6人の人足全てを惨殺し、それでも飽き足らないのか遺体をバラバラにして、いずこかに走り去りました」
「……うわ」
「……マジか」
思わず、ユモも雪風も眉根を寄せる。
「問題は、それだけではありません」
オーガストも、顔を曇らせて、続ける。
「距離があったのではっきりとは見えなかったのですが、恐らくですが、走り去った時点で、いや、人足を殺していた時点で、彼はナチスの将校の姿ではありませんでした」
「え?」
「それって、どういう……」
「どう言えばいいのか、私にもよくわかりません」
ユモと雪風の問い返しに、暗い顔で、オーガストは答える。
「水面に流れた油のようにきらめく皮膚を持つ、人型の、しかし人では無い名状しがたき何か、と言ったところでしょうか……」
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