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第二章-月齢25.5-

第2章 第15話

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 夕餉の支度を口実にユモと雪風にあてがった客間を出たドルマは、厨房に向かう廊下でモーセス・グースと会った。
「モーセス様……」
「浮かない顔ですね、何かありましたか?」
「……私は……」
 ドルマは、自分の手を見つめて呟き、しかし言葉が続かない。
「疑ってはなりません」
 何をか言わんとしているドルマの機先を制して、モーセスは断言する。目を見開いたその顔は、有無を言わせない迫力でドルマに迫る。
「あなたは、我らが女神の加護を受けているのです。己が生まれ出ずるに至った理由を、疑ってはなりません。そして、報われる事を望んではいけません。信仰とはひたすらに信じ、勤め、奉仕するもの。対価を求める奉仕は卑しいものです。ただひたすらに、我らは勤めなければなりません。わかりますね?」
「……はい」
「報われない事が、辛いですか?」
「……はい」
「それでよいのです」
 モーセスは、慈愛に満ちた微笑みで、ドルマに言う。
「報われないのは辛いのだという事を知る者こそ、他者に報いる事が出来るのです。辛くないと偽る者は、他者にもきっと耐える事を強いるでしょう。それは、悲しい事です」
「……はい」
「辛い時は弱音を吐きなさい。苦しいときは助けを求めなさい。我慢する事はありません。ただ、疑う事だけはしてはなりません。出来ますね?」
「はい」
 ドルマが即答したのを聞いて、満足げに、モーセスは頷く。
「それでこそ、我らが女神の申し子です。さあ、それでは、御自分の勤めを果たして下さい」
「……はい、承知しました、師範ロード
 見つめていた手のひらを強く握り、ドルマは頷いた。
 
「……どう思う?」
 ユモは、茶菓子カプセ――バターで練った小麦粉の揚げ菓子、チベットでは比較的贅沢品――を摘まみながら、ざっくりした質問を雪風に投げる。
「うーん……」
 バター茶プージャを飲み下して、雪風は答える。
「瓦せんべい、いや、八つ橋に近いかな?甘みとか添加物調整したら大化けするかも」
 茶菓子カプセの感想を述べて、雪風はそれを口に放り込む。
「じゃなくて!さっきのドルマさんの話よ!」
「なかなかに興味深い告白でした」
 ユモの胸元から、ニーマントの声がする。
「人間の価値観、結婚観、実に興味深いですな」
「そういう話でもなくて。たくもう……」
「一度は絶望した人間が、新たな使命ミッションを得て、しかし、完全には納得していない、そんな印象を受けましたが」
「箱入りのお嬢様が、行きずりの風来坊に一目惚れして、親兄弟からこっぴどく反対されて……三文芝居の筋書きよね、ありがちっちゃありがちだわ」
「そうだけど。ありがちで普遍的だからこそ、洋の東西時代のいかんを問わず、色恋沙汰は度し難い、ママムティはしょっちゅうそう言ってたわ」
 ユモは、色恋沙汰の悩みと占いが持ち込まれる度、そんなような事を言ってため息をつき、とりあえず客の分も含めてお茶ハーブティーを淹れていた事を思い出す。そのお茶ハーブティーに、ひとつまみのまじない、特性のラベンダーとカモミールを調合して。
「人間の避けがたい特性なのでしょうか?そういう、色恋沙汰というのは?」
「この世に男と女がいてつがいを作る、そういうものである限り、浮世から色恋沙汰の愁嘆場が消える事はないって、ママムティは言ってたわ」
「あんたの両親とこって、恋愛結婚だったわよね?」
「あんたの両親とこもでしょ?」
「説得力あるわよね」
「ホントに」
 ユモと雪風、どちらの両親も、一般人ノーマルの父と曰く付きアブノーマルの母の大恋愛の末の結婚である事は、二人共に理解している。
「私にはどうにも理解しづらい概念ですが、それは私に肉体と、それに付随する性別がないからでしょうか?」
あんたニーマントがどういうものなのかよくわからないけど、性別の概念がなければそりゃ恋愛感情そのものも無いでしょうね」
「わかんないわよ?あたしの時代だと、同性婚とかちょいちょいあるから……ね、そういうのって、キリスト教的にどうなの?」
「どうって……ソドムとゴモラの故事をひもとくまでもなく、古典宗教ではそういうの禁忌タブーよ。まあ、非生産的で種族子孫の維持に不利益だから禁忌タブーとされた、ってのが宗教学的な解釈だけど」
「ますます興味深いですな」
「ま、今思うべきはそう言う事じゃなくて、ドルマさんがまだその彼を引きずってるのかって事だけど」
「……引きずってると、なんか問題ある?」
 他人の色恋沙汰に今ひとつ興味が薄い雪風は、ユモに真顔で聞く。
「あたしね、ドルマさんは、養女の体のナルブさんのお目かけさんだと思ってたのよ。その予想は外れたわけだけど、それとは別にさ、そういうの引きずってる女って、大事なところで判断間違うから怖いのよ。ママムティの依頼人でそういうの、いーっぱい見たもの」
「……あんたってさぁ、耳年増の見本みたいよね、そっち方面……」
「実に、興味深いです」

 高地で寒冷、乾燥した気候であるチベットでは、入浴の習慣はほぼ無い。当然、あてがわれた客間にも風呂もシャワーも無い。
 夕食後、特に頼んで持って来てもらったタライの湯で体を拭きつつ、ユモはニーマントに聞く。
「ねえ、ニーマント、ケシュカルがどこに居るか、あなた、わかる?」
「把握出来てます。夕食に現れませんでしたが、ご心配ですか?」
 ユモと雪風は、ナルブの客人扱いという事で、ペーター・メークヴーディッヒリーベ少尉も含めてナルブ及びドルマと夕食を共にしていた。その席に、ケシュカルとモーセスが居ない事を尋ねたユモに、ナルブは、
師範ロードと少年は、明日以降は寺院に入りますから、その準備があります。食事も別にして精進潔斎を図られています」
 そう言って、彼らがここに居ない理由を説明した。
「まあ、心配と言えば心配よね。現地宗教の禁を犯した少年がその本山に連行されるって言うんだから」
「事実だけ並べるとそう言う事だけど」
 濡れ髪を拭きながら、雪風が言う。シャンプーリンスなどというシャレたものは無いから石鹸で洗うだけだが、それでも髪を洗えるのは久しぶりだ。
「あのモーセスさんってお坊さん、どうなんだろね?掴み所が無いというか、悪い人じゃなさそうだけど」
「信用出来るかって言うと、信用するしかない、って事よね……現地の風習にあたし達が口出しするいわれはないし、そもそも、あたし達がその元凶なんだし」
 雪風に比べればはるかに長い髪を苦労してすすぎつつ、ユモも言う。手の空いた雪風が、ユモを手助けしつつ、言う。
「まあ、こういう状況であの子が酷い目に合う、なんて映画みたいな展開は滅多にあるもんじゃ無いと思うけど」
「だと良いけど」
「不安?」
「まあね」
「とりあえず、ケシュカル少年は一人で居るようです。それ以上の事はよくわかりませんが」
 ニーマントは、その対象の特徴がある程度把握出来ていて、自身から一定程度の距離範囲内であれば、離れていてもその対象の位置が把握出来るし、その周りに他者等が存在するかもわかるという。放射閃オドを『視て』いるのだそうだが、途中に壁などがあっても、影響される事はあるがある程度まではその向こうが視えるのだとも。
「声をかけてみますか?」
「そこまでしなくても良いわ、びっくりさせるだけで、メリットなさそうだもの」
 視える範囲であれば、会話も可能。ニーマントによれば、そもそも彼の発声はエーテルの振動を鼓膜音波に変換して伝えているので、遠距離であっても会話は成立し、何なら特定の個人とのみ会話する事も可能――相手の鼓膜を直で振動させる――だという。ただし、ニーマントの声は特定の個人にしか聞こえなくても、その個人の発声は周りに聞こえてしまう――ニーマントは思考を読んでるのではなく、あくまで音波とエーテル波の変換をしているだけ――ので、実用性は疑問だというのがユモと雪風の共通した見解でもあった。
「……おや?誰か、ケシュカル少年のところに接近していますね……ああ、これは先ほどの、モーセス・グース氏ですね」
 ニーマントは、放射閃オドの個人差によって個人を判別している。放射閃オドとは、生物であれば必ず放出している『生命現象の証』であって、いうならば呼吸や心拍のようなもの、以前ユモは雪風にそう説明していた。その呼気の成分や心拍の調子などには個人差があり、ニーマントに限らず、魔法的な個人特定は可能である、とも。
「お坊さんが、何の用かしらね?」
「明日の用意とか、あるいは夜のお勤めとか」
「夜のお勤めって……あんた、なに想像してるのよ」
「え?……あ」
 呟いたユモの言葉に何気なく返した雪風は、あらぬ方向からのユモのツッコミに一瞬理解が追いつかず、そして理解して、うろたえる。
「いや、ちょ、そういう意味じゃ!」
「ふうん……」
「つかあんたこそなに人の言った事曲解してるのよ!」
「あたしはただ、聞き返しただけよ?」
「……一体、なんのお話しですかな?」
 冷静に聞かれて、何をか想像していた少女二人ははたと我に帰る。
「いや、その……」
「……宗教的な規律のもとにおける、肉体的欲求に基づく親愛の情の示し方についての話よ」
「ほほう?なかなか面白そうではありますね」
「ユモあんた、言い方直球すぎ」
「そうかしら?かなりオブラートに包んだつもりだけど……盗み聞きは無しよニーマント、悪趣味だわ」
「そういうものですか?少々残念ですが、ではまあ仕方ないですね、紳士として」
 この時、その会話を聞いておけば。
 そのような後悔は、しかし、二人の少女は、この後している余裕など無くなろうとは思ってもいなかった。
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