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リュールカ第二部 三話試作
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同日、早朝。ドイツ国鉄のドレスデン中央駅、正面からその駅舎を出た広場に、大日本帝国陸軍大佐狩野浩伸と、その通訳兼秘書の如月茉莉花は立っていた。
「追っ手は……」
逃避行の緊張の中で夜行列車に足かけ五時間ほど揺られ続けた狩野は、まさに明けんとする朝日の方を眩しそうに見ながら、周りを見渡す。
「……ないようだな」
「上手いこと、出し抜けたようですね」
緊張で寝付けなかった狩野の横で、大胆にも寝息をたてていた茉莉花は、軽く伸びをしながら相槌を打つ。
秘密警察の急襲を辛くも退けた二人は、奇策と速攻で見事にその追っ手を出し抜き非常線を張られる前にベルリンの脱出に成功。そして、ある目的を持って、早朝のドレスデン駅前に立っていた。
昨夜、助手席に狩野を、後席に死体を載せた、徴発した――かっぱらった、とも言う――乗用車を運転して走り出した茉莉花は、しかし、シュプレー川沿いの人気も灯りもない木陰で、突然車を停めた。
「き、如月君、こんな所で車を停めて、一体……」
「すみません狩野大佐、少し手伝っていただけませんか?」
当然の疑問を口にした狩野の、その言葉にかぶせて茉莉花は狩野に頼み事をする、否応もなく。
「大佐、申し訳ありませんがそっちのそいつ下ろして、そいつの持ち物全部剥がして下さい。それから、申し訳ありませんが制服をそいつに着せて下さい、あ、上だけで結構です」
言いながら、飛び出すように運転席から降りた茉莉花は、自分も運転席側後席に積んだ死体を引きずり下ろす――この最初期型オリンピアは2ドアだ――と、そのまま死体は地面に置き、後席に頭を突っ込んでトランクの中身を――初代オリンピアのトランクは車室内からアクセスする――物色し出す。
「おっと。やっぱりあった。さすがはドイツ人、用意が良いわ」
トランクに頭を突っ込んでいた茉莉花が、嬉しそうな声をあげた。
一体何をしているのか。何がしたいのか。聞いてみたい狩野だったが、先ほどの経験から、ここは素直に従った方が良いと判断する。曰く、
――如月君は、どうやら、俺が思っていたよりずっと有能だったらしい。それも、俺が思っていたのとはまるで違う方向で――
即座にそう納得する程度には、狩野の思考は柔軟だった。
言われるままに、狩野は陸軍の制服の上を脱ぎ、死体の来ているスーツと交換する。恰幅が良い狩野だがそこは日本人、ゲルマン人の死体が着ているスーツの胴囲はさほどきつくはなく、身丈袖丈は若干余る。
「交換したが、次はどう……うわ如月君何を」
言いながら茉莉花に目を向けた狩野は、茉莉花が上半身をはだけているのを見て目を白黒させる。
「あらやだ、あんまり見ないで下さい」
しかし、当の茉莉花は、一応はそう言って胸元を隠すがさほど慌てたそぶりはない。
「それでは、そいつを助手席に乗せて下さい」
狩野に指示しながら、茉莉花は、自分の着けていた下着をもう一つの死体の胸にあてがっている。
その有様を横目で見ながら、狩野は理解する。要するに如月君は、この死体を自分達の身代わりにしようと考えているのだ、と。とはいえ、顔も体つきも、いやそもそも男女もちがうのに、誤魔化せるのか?
「終わったら、すみませんが、ガソリンを少し、その瓶に抜いて下さい」
ブラウスの前を閉めながら、茉莉花は狩野に、車の後ろに置いた瓶とゴムホース、恐らくは車のオーナーが不意のガス欠などに備えたのだろう、さっきトランクの中から見つけたものを視線で示す。
「あ、ああ……」
言われるままに、狩野は車の後部のフィラーキャップを開け、ゴムホースを突っ込んでガソリンを吸い出す。
「……う、げ」
この方法でガソリンを吸い出すと、タイミングが分からずどうしてもガソリンが口に入りやすい。狩野も気を付けてはいたが、やはり少し口に入り、慌てて吐き出す。吐き出しながら、ゴムホースの端を瓶の口にあてがう。サイホンの原理で、タンクのガソリンは瞬く間に瓶を満たす。
「出来たぞ、次は?」
口元を拭いつつ、狩野は茉莉花に聞く。
「ありがとうございます。では、少し離れていていただけますか?」
運転席に載せた死体の、その上に座りながら、茉莉花が答える。
「あと、これ、持ってて下さい」
茉莉花が、何か小さなものを投げてよこす。受け取ってみれば、それは、死体が持っていたらしいマッチ箱。
――なるほど、そういう事か……しかし、なんと大胆な……――
もう狩野も、茉莉花が何をしようとしているかは理解している。しているつもりだった。
その次の茉莉花の行動以外は。
てっきり、その場でガソリンを撒いて火を点けると思っていた狩野をよそに、茉莉花は車のギヤを入れ、アクセルを踏んでクラッチを繋ぐ。
「な?」
意表を突かれた狩野を置き去りに、オペル・オリンピアはものすごい加速で走り出す、道路を斜めに突っ切って。
「え?おい!」
狩野は、焦る。車は、道路脇の街灯を目指し、突進する。
衝突する。狩野が、そう思った刹那。
運転席から、茉莉花が飛び降りた。
「だ、大丈夫か?」
ガソリンの瓶を片手に駆け寄る狩野を、ごろごろと地面を転がって衝撃を和らげていたらしい茉莉花は笑顔で見上げる。
「あいたたたた……大丈夫、大丈夫です。あたた……」
立ち上がりながら、茉莉花は手を出す。
「じゃあ、そのガソリン、貸して下さい」
結構な勢いで街灯に衝突し、ひしゃげたオリンピアの運転席、そこに座る二体の死体に、茉莉花はガソリンをかける。燃やしてごまかしたいところにはたっぷりと、逆に燃え残って欲しいところは、可能なら何かに被さって燃え残るように細工しながら。
「タンクは破れなかったか……まあ、仕方ないか。じゃあ……」
茉莉花は、ひしゃげたボンネットをこじ開け、キャブレターに繋がるガソリン配管のゴムホースを引き抜きいてエンジンルームに放り出し、そのまわりに瓶に残ったガソリンをぶちまける。
「……では大佐、仕上げをお願いします」
「あ、ああ……」
これも死体から拝借したハンカチで手を拭きながら、茉莉花は、マッチを持つ狩野にそう促す。流れるような一連の偽装工作と破壊工作の手際に舌を巻きつつ、狩野は、マッチを擦って、投げた。
流石に、事故を起こせば人目を引く。それでも、衆目が集まる前にその場から消えることに成功した二人は、その足で最寄りの駅からSバーンに乗車、アンハルター駅からドレスデンに向かう長距離夜行列車に乗り換える。
ベルリン市内までは東部戦線の苦境はまだ影響していなさそうだとは言えそこは戦時中、駅にはそれなりの監視もあると考えるのが定石。どちらから言うともなくそう合意した二人は、茉莉花が逃げ出す際にも懐に忍ばせていた化粧品のファウンデーションを狩野の髪にぶちまけて白髪がちのそれに見せかけ、髪型も変え、眼鏡も外してほんの少し目鼻にシャドウを加えて印象を変える。その傍らで、いつの間にか、狩野も気付かぬうちに茉莉花は髪の色を栗色に変えている。それに気付き、何か言いたそうな狩野に大げさにウィンクすると、茉莉花は言った。
「似合いますでしょ?このウィッグ」
まるでそれが本来の髪の色であるかのように、その栗色のショートボブは如月茉莉花によく似合っていた。
万が一手配が回っていたとしても、彼らが探しているのは「中年の日本軍将校とその秘書」、ベルリンのこのあたりでは日本人はそこまで珍しくなく、酒の入った中年とその中年が持ち帰ろうとしている酒場女は見逃される可能性が高い。そう言って、化粧品で赤ら顔を装い、ブラウスの胸を大きく開けた茉莉花は、空になった瓶を振り回すようにしながら狩野にしなだれかかる。その目はしかし、鋭く周囲の人間の動向を窺っていることに気付きつつも、狩野は、腕に押し当てられる、下着を着けていない胸の感触にどぎまぎする。そんなに初心ではないはずなのに、そう心の中で苦笑しながら。
幸か不幸か誰何されることもなく、二人は夜行列車でドレスデン中央駅に到着、早朝の駅前に立つ。
「……さて、大佐。とにかく何かお腹に入れましょうか」
三歩ほど先で、くるりと茉莉花は振り向く。その表情は、状況を理解しているのか疑わしいほどに明るくコケティッシュ、いや、蠱惑的ですらある。
「……まだ、店など開いていないだろう?」
だが、狩野は理解していた。如月君は、恐らく、この俺よりも深く、違う視点からこの事態を理解し、対応している。それは、公使館での他国との交流という名の腹の探り合いのチェスで常勝し、「日本のマンシュタイン」などとおだて上げられた俺とは違う、最前線の、実戦下での肌感覚によるものではないか。狩野は、理屈ではなく感覚で、そう理解していた。
「そこはそれです。時間勝負ですから、まあ、お任せあれ」
愛らしく、茉莉花は狩野に微笑む。その笑顔には、昨夜見せたような凄みは、何一つ見られなかった。
駅の周辺で客待ちという名の仮眠をとっていたタクシーを見つけ、茉莉花は、この時間でも食事が取れる場所、あるいは食料が買える店へ行くように指示する。不満顔のドライバーに、あなたも好きなもの奢るわよ、と持ちかけて交渉成立、中心街の端の方の、見かけ上は閉店している食堂で一端車を停める。
ドライバーも誘って店内に入った茉莉花と狩野は、慣れた様子でカウンターに座るドライバーを他所に、食事を二人前とコーヒーを頼んで店の奥側、入り口を見張れるテーブル席につく。
こちらをチラチラ見ながら、やや眠たげな、太った店主と話をしているドライバーの様子を伺いつつ、狩野は茉莉花に、そもそもの疑問を問いかける、日本語で。
「それにしても、何故、ドレスデンなのかね?」
コーヒーを持って来た店主を気にしつつ聞いた狩野に、茉莉花は、
「あら、彼、言ってましたよ?」
たっぷりのミルクと砂糖を入れる狩野を見ながら、ブラックで熱いコーヒーを一口飲んで、さらりと言い放つ。
「今際の極みに、ドレスデン、って」
そんな事、狩野は聞いた覚えはない。眉根を寄せる狩野の表情に気付いたのか、茉莉花が言葉を重ねる。
「それとも、大佐、私は人の心が読める魔女です、って告白した方がよろしかったですか?」
わざとドイツ語で言った茉莉花の言葉が耳に入ったドライバーと店主のギョッとする顔が目に入り、狩野は盛大にむせた。
「まあ、それはともかく、彼からドレスデンに何かある、と言う情報が取れたのは事実です。ですが、正直、ここからどうしたものかは、私もまだ皆目見当がついていません」
ひとしきりクスクスと笑ってから、茉莉花は言葉を続ける。
「夕べは上手く出し抜けましたが、早晩ここにも手配は回るでしょう。スピード勝負ですが、こちらのカードは無いも同然。正直、今はお手上げです。ですが、とにかく、腹が減っては戦は出来ぬ、です。夕べから飲まず食わずでは言いアイデアも浮かぶはずもありませんから、とにかく、食べられる時に食べておきましょう」
この時、狩野は、茉莉花のこの言葉がいろんな意味で現実になるとは、思ってもいなかった。
「軍人さんが集まる所って言えば……そうさなぁ……」
食事を終わり、タクシー車内に戻った狩野と茉莉花、及びドライバーは、この先の行き先を相談していた。
我々は実は、日本から来た商社の者である。ここに来た目的は軍に我が社を売り込むことであるが、出来れば、普通の部隊ではなく、武装親衛隊の上の方に売り込みたい。このあたりで、武装親衛隊がたむろしているような場所はないか。
茉莉花は、そんな話をドライバーに持ちかけてみた。ドレスデンは、軍事及び交通の要衝である。駐留、あるいは移動の中継点として滞在する国防軍は多く、武装親衛隊もそれなりの数が駐屯しまた滞在しているが、秘密警察の上部組織としての武装親衛隊で、狩野達が目的とする者の情報を持っているとすれば、それは一時立ち寄りではなく恒久的にこのあたりに駐留している組織のはずである。手がかりが無い以上、それらをしらみつぶしに当たるしかない。そのためには、タクシー運転手など土地に詳しい者の情報は貴重である。そんな事を、狩野と茉莉花は食事をとりつつ相談し、自分達は商社のものだと偽ることにするのが良かろうという合意に達していた。
「……軍の詰め所ならあっちこっちにあるけど」
しらみつぶしと言っても、それら全部を回る時間も余裕もあるとは思えない。
「研究所、みたいなところはないかな?」
狩野も、聞いてみる。もし、岩崎が何らかの理由で秘密警察に捕らわれているとしたら、ベルリンからドレスデンまで移送するくらいだ、街中の詰め所に閉じ込めるとは思いづらい。
「研究所、ですかい?そうさな……ピルナの方に、病院ならあるが……でも、あそこはなぁ……」
ドライバーは、口ごもる。
「……訳あり?」
茉莉花は、軽く身を乗り出して聞く。その動きに合わせ、開けたブラウスの胸元から、下着を着けていない胸元が覗き、揺れる。
「……キ○ガイ病院だって、いや、実際、精神病棟があるのは確かなんだがな」
目線を忙しく上下させつつ、ドライバーは答える。
「確かに親衛隊や党の偉いさんを乗せていった仲間もいるが……」
どう思う?狩野は、茉莉花に視線で聞く。
「あえて火中の栗を拾いましょうか、どこかに火を点ければ、必ず火消しが動きます……そこにやって下さい」
「ゾンネンシュタイン城、かあ……」
この上だよ、そう言って去って行ったタクシードライバーの指し示した先にあった、城と言うよりは領主の館という感じの大きな建物を見上げながら、狩野は呟いた。
「城と言うイメージではないですね……さあ、覚悟決めて虎穴に入ってみましょう」
隣に立ち、同様に城を見上げていた茉莉花も同意し、そして狩野を促す。
「あ、ああ……」
若干気圧され気味の返事をして、狩野は、先に歩き出した茉莉花の後に続いた。
「待て、何者か?何の用だ?」
当然、門番の国防軍兵士は二人を誰何する。
「大日本精機の者です。本日、こちらで商談のお約束で参りました。日本陸軍の岩崎大佐からお話しが行っているはずですが……」
ひっかけのワードを含めた出任せを、さも当たり前のように茉莉花は口にする。おいおい大丈夫か、狩野は内心気が気ではないが、それを顔に出さないように下腹に力を入れる。これは、打合せの範囲のことだ。
「……聞いているか?」
「いや……問い合わせよう」
「そのようにお願いします……報告したい件もございますので」
早朝の、思いがけない訪問にあたふたする兵卒二人に、茉莉花は、首から提げた秘密警察の認識票を胸元から引き出し、ちらりと見せる。
その途端に、兵卒の顔色が変わる。一度書けようとした内線電話機を切り、改めて、違う番号にかけ始めたのを見て、茉莉花は認識票を胸に戻す。
兵卒が何事か電話口で頷き、開門の操作をはじめたのを見て、茉莉花は狩野に振り向く。
「ここから先は出たとこ勝負、手札なしの大博打になります。正直、分はあまりありません。大佐は、ここでお待ちいただくか、街に降りていただいてもよろしいのですが……欲を言えば、街で逃走手段を確保していただけるとなお良いのですが」
「……いや、一緒に行こう。どのみち、捜査の手は今日中にもここに届くだろう。情けないが、街に俺一人で居て、逃げ隠れできる自信はないし、そもそも、どこに居ても、もはや俺に安全な場所は、ドイツ国内には無かろう」
茉莉花の言わんとする事を、狩野は先読みする。
――どうやら、思ったより大事に俺はかかわってしまっているらしい。いや、俺と岩崎は、か――
狩野は、腹の中がぐるぐるするのを感じる。とんでもない状況に、文字通りの虎口に首を突っ込んでしまっている、それが今、目の前の兵卒の態度から読み取れた。だから。これは、多分、怖じ気づいているのだ。だが。
――だが。だとしても。何も知らずには引き下がれない。同盟国の公使館付き武官に手を出すような、それ程の何かがあるのだとしても、あるのだとしたら、だからこそ、知らないままでは居られない……そうだ、これは使命ではない。俺の、意地だ――
狩野は、無理矢理に覚悟を決めた。
「日本からとは、遠路はるばるご苦労様です。生憎と連絡は届いていないのですが、御用の向きは僕が伺いましょう」
通された応接室で、そう言って椅子を勧めるのは、どうやら軍人ではなさそうな、白衣を着た研究者風の男だった。
「申し遅れました。僕は、ここの医者で、フリードリヒ・ブランデンブルクと申します、お見知りおきを」
白衣の男、フリードリヒは、そう言って腰を折る。眼鏡の奥の目は常に薄笑いのようで、感情が読みづらい。
「お時間を割いて戴いて光栄です。私は通訳のマリ・キムラ、こちらは私の上司のヒロ・カノウです」
咄嗟に名前を少しだけ変えて、椅子に座りつつ茉莉花は答える。
――間違いなく、この部屋は監視されている。いつ何時、武装した兵士がなだれ込んで、俺たちを拘束しても何の不思議も無い――
狩野は、脇に汗が滲むのを感じる。
――無謀も良いところのやり方だ、情報を取るどころか、返答一つで生きて出る事さえ難しくなる。いざとなった時頼れるのは、互いにベルトに挟んだ拳銃一丁、弾倉は装填済みも含めて各人三つ。なるほど、警察の捕り物なら充分だろうが、ここから強行突破で逃げ出すとなると、あまりに心細い……――
事前の打ち合わせ通り、上司はドイツ語が堪能では無いという設定で、基本的には茉莉花が一人で受け答えする手はずになっている。その間に、狩野は相手の言動その他を吟味する、そういう役割分担になっていた。
「早速ですが、先日郵送いたしましたパンフレットはご覧になって頂けておりますでしょうか?」
よくぞそこまで口から出任せが出るものだ。狩野は、茉莉花の口車に半ば感心する。
「いえ、そのようなものは受け取っては……」
「これは失礼しました、てっきりご覧になっているものとばかり……分かっていれば、手ぶらでなど来ませんでしたのに」
茉莉花は、残念そうな顔をする。
「では、申し訳ありませんが、口頭にて説明させていただきます。弊社、大日本精機では、このほど新しい医療機器の開発に成功いたしまして、是非ともこれの拡販輸出を行いたいと考えております。資料によれば、ここで行っている業務の効率を劇的に改善出来ると弊社開発部は申しておりまして」
「……具体的に、それはどんな器具ですか?失礼ですが、僕もさほど時間を取れず、申し訳ないが手短にお話しを済ませていただきたいのですが」
もってまわった言い方をはじめた茉莉花に、軽くいらだちを見せてフリードリヒは言葉を遮る。
「これは重ね重ね失礼しました」
茉莉花は、それを軽く受け流し、切り出す。
「弊社は、新型の高速焼却装置を開発いたしました」
はじめ、フリードリヒはくつくつと小さく、次第に肩をふるわせて、しまいには破顔する。
「……いやいや、これは失礼、失礼しました……して、それはどんな隠語ですかな?」
狩野は、背中に冷や汗が流れるのを感じる。表情を変えない努力は実っているのかどうか、茉莉花の様子を窺いたいが、それはあまりに不自然に過ぎると気付き、すんでの所で思いとどまる。
「いやいやいやいや。申し訳ない。私は秘密警察でも何でもありませんので、その方面は疎いのです。それで、焼却装置、ですか?」
「……はい。隠語でも何でもなく」
「秘密警察の認識票をお持ちのあなたが、何でもない、と?」
「はい。ここに来てそれを見せれば話が早いと教わりまして」
「失礼ですが、どなたから?」
「……大日本帝国陸軍、岩崎大佐」
その瞬間。狩野は、全身に衝撃が走るのを感じた。落雷に打たれたかのような、衝撃。
椅子の上で飛び上がり、そのまま床に倒れ、体が動かない狩野は、薄れゆく意識の中で、フリードリヒの声を聞いた。
「いやいや、もしかしたら、あなた方は本当に秘密警察の一員かも知れません。そうでありましたら、平に御容赦の程を。ただ、僕の美意識が許さないのです、アーリア人の為の組織である秘密警察に、武装親衛隊に、東洋人が居るはずが無いと。まあ、彼の名前を御存知だったと言うだけで、充分に嫌疑はありますから、ご安心下さい、何とでも理由は後付け出来ます。それに、東洋人の検体ももう少し欲しかったところです。喜んで下さい。あなた方は、僕の研究の役に立ち、全アーリア人の為の礎になるのですから……」
フリードリヒの話はまだ続いていたかも知れなかったが、狩野が理解し、記憶し得たのはそこまでだった。
※20220104:フリードリヒの容姿に関する部分で、少しだけ追記しました。
「追っ手は……」
逃避行の緊張の中で夜行列車に足かけ五時間ほど揺られ続けた狩野は、まさに明けんとする朝日の方を眩しそうに見ながら、周りを見渡す。
「……ないようだな」
「上手いこと、出し抜けたようですね」
緊張で寝付けなかった狩野の横で、大胆にも寝息をたてていた茉莉花は、軽く伸びをしながら相槌を打つ。
秘密警察の急襲を辛くも退けた二人は、奇策と速攻で見事にその追っ手を出し抜き非常線を張られる前にベルリンの脱出に成功。そして、ある目的を持って、早朝のドレスデン駅前に立っていた。
昨夜、助手席に狩野を、後席に死体を載せた、徴発した――かっぱらった、とも言う――乗用車を運転して走り出した茉莉花は、しかし、シュプレー川沿いの人気も灯りもない木陰で、突然車を停めた。
「き、如月君、こんな所で車を停めて、一体……」
「すみません狩野大佐、少し手伝っていただけませんか?」
当然の疑問を口にした狩野の、その言葉にかぶせて茉莉花は狩野に頼み事をする、否応もなく。
「大佐、申し訳ありませんがそっちのそいつ下ろして、そいつの持ち物全部剥がして下さい。それから、申し訳ありませんが制服をそいつに着せて下さい、あ、上だけで結構です」
言いながら、飛び出すように運転席から降りた茉莉花は、自分も運転席側後席に積んだ死体を引きずり下ろす――この最初期型オリンピアは2ドアだ――と、そのまま死体は地面に置き、後席に頭を突っ込んでトランクの中身を――初代オリンピアのトランクは車室内からアクセスする――物色し出す。
「おっと。やっぱりあった。さすがはドイツ人、用意が良いわ」
トランクに頭を突っ込んでいた茉莉花が、嬉しそうな声をあげた。
一体何をしているのか。何がしたいのか。聞いてみたい狩野だったが、先ほどの経験から、ここは素直に従った方が良いと判断する。曰く、
――如月君は、どうやら、俺が思っていたよりずっと有能だったらしい。それも、俺が思っていたのとはまるで違う方向で――
即座にそう納得する程度には、狩野の思考は柔軟だった。
言われるままに、狩野は陸軍の制服の上を脱ぎ、死体の来ているスーツと交換する。恰幅が良い狩野だがそこは日本人、ゲルマン人の死体が着ているスーツの胴囲はさほどきつくはなく、身丈袖丈は若干余る。
「交換したが、次はどう……うわ如月君何を」
言いながら茉莉花に目を向けた狩野は、茉莉花が上半身をはだけているのを見て目を白黒させる。
「あらやだ、あんまり見ないで下さい」
しかし、当の茉莉花は、一応はそう言って胸元を隠すがさほど慌てたそぶりはない。
「それでは、そいつを助手席に乗せて下さい」
狩野に指示しながら、茉莉花は、自分の着けていた下着をもう一つの死体の胸にあてがっている。
その有様を横目で見ながら、狩野は理解する。要するに如月君は、この死体を自分達の身代わりにしようと考えているのだ、と。とはいえ、顔も体つきも、いやそもそも男女もちがうのに、誤魔化せるのか?
「終わったら、すみませんが、ガソリンを少し、その瓶に抜いて下さい」
ブラウスの前を閉めながら、茉莉花は狩野に、車の後ろに置いた瓶とゴムホース、恐らくは車のオーナーが不意のガス欠などに備えたのだろう、さっきトランクの中から見つけたものを視線で示す。
「あ、ああ……」
言われるままに、狩野は車の後部のフィラーキャップを開け、ゴムホースを突っ込んでガソリンを吸い出す。
「……う、げ」
この方法でガソリンを吸い出すと、タイミングが分からずどうしてもガソリンが口に入りやすい。狩野も気を付けてはいたが、やはり少し口に入り、慌てて吐き出す。吐き出しながら、ゴムホースの端を瓶の口にあてがう。サイホンの原理で、タンクのガソリンは瞬く間に瓶を満たす。
「出来たぞ、次は?」
口元を拭いつつ、狩野は茉莉花に聞く。
「ありがとうございます。では、少し離れていていただけますか?」
運転席に載せた死体の、その上に座りながら、茉莉花が答える。
「あと、これ、持ってて下さい」
茉莉花が、何か小さなものを投げてよこす。受け取ってみれば、それは、死体が持っていたらしいマッチ箱。
――なるほど、そういう事か……しかし、なんと大胆な……――
もう狩野も、茉莉花が何をしようとしているかは理解している。しているつもりだった。
その次の茉莉花の行動以外は。
てっきり、その場でガソリンを撒いて火を点けると思っていた狩野をよそに、茉莉花は車のギヤを入れ、アクセルを踏んでクラッチを繋ぐ。
「な?」
意表を突かれた狩野を置き去りに、オペル・オリンピアはものすごい加速で走り出す、道路を斜めに突っ切って。
「え?おい!」
狩野は、焦る。車は、道路脇の街灯を目指し、突進する。
衝突する。狩野が、そう思った刹那。
運転席から、茉莉花が飛び降りた。
「だ、大丈夫か?」
ガソリンの瓶を片手に駆け寄る狩野を、ごろごろと地面を転がって衝撃を和らげていたらしい茉莉花は笑顔で見上げる。
「あいたたたた……大丈夫、大丈夫です。あたた……」
立ち上がりながら、茉莉花は手を出す。
「じゃあ、そのガソリン、貸して下さい」
結構な勢いで街灯に衝突し、ひしゃげたオリンピアの運転席、そこに座る二体の死体に、茉莉花はガソリンをかける。燃やしてごまかしたいところにはたっぷりと、逆に燃え残って欲しいところは、可能なら何かに被さって燃え残るように細工しながら。
「タンクは破れなかったか……まあ、仕方ないか。じゃあ……」
茉莉花は、ひしゃげたボンネットをこじ開け、キャブレターに繋がるガソリン配管のゴムホースを引き抜きいてエンジンルームに放り出し、そのまわりに瓶に残ったガソリンをぶちまける。
「……では大佐、仕上げをお願いします」
「あ、ああ……」
これも死体から拝借したハンカチで手を拭きながら、茉莉花は、マッチを持つ狩野にそう促す。流れるような一連の偽装工作と破壊工作の手際に舌を巻きつつ、狩野は、マッチを擦って、投げた。
流石に、事故を起こせば人目を引く。それでも、衆目が集まる前にその場から消えることに成功した二人は、その足で最寄りの駅からSバーンに乗車、アンハルター駅からドレスデンに向かう長距離夜行列車に乗り換える。
ベルリン市内までは東部戦線の苦境はまだ影響していなさそうだとは言えそこは戦時中、駅にはそれなりの監視もあると考えるのが定石。どちらから言うともなくそう合意した二人は、茉莉花が逃げ出す際にも懐に忍ばせていた化粧品のファウンデーションを狩野の髪にぶちまけて白髪がちのそれに見せかけ、髪型も変え、眼鏡も外してほんの少し目鼻にシャドウを加えて印象を変える。その傍らで、いつの間にか、狩野も気付かぬうちに茉莉花は髪の色を栗色に変えている。それに気付き、何か言いたそうな狩野に大げさにウィンクすると、茉莉花は言った。
「似合いますでしょ?このウィッグ」
まるでそれが本来の髪の色であるかのように、その栗色のショートボブは如月茉莉花によく似合っていた。
万が一手配が回っていたとしても、彼らが探しているのは「中年の日本軍将校とその秘書」、ベルリンのこのあたりでは日本人はそこまで珍しくなく、酒の入った中年とその中年が持ち帰ろうとしている酒場女は見逃される可能性が高い。そう言って、化粧品で赤ら顔を装い、ブラウスの胸を大きく開けた茉莉花は、空になった瓶を振り回すようにしながら狩野にしなだれかかる。その目はしかし、鋭く周囲の人間の動向を窺っていることに気付きつつも、狩野は、腕に押し当てられる、下着を着けていない胸の感触にどぎまぎする。そんなに初心ではないはずなのに、そう心の中で苦笑しながら。
幸か不幸か誰何されることもなく、二人は夜行列車でドレスデン中央駅に到着、早朝の駅前に立つ。
「……さて、大佐。とにかく何かお腹に入れましょうか」
三歩ほど先で、くるりと茉莉花は振り向く。その表情は、状況を理解しているのか疑わしいほどに明るくコケティッシュ、いや、蠱惑的ですらある。
「……まだ、店など開いていないだろう?」
だが、狩野は理解していた。如月君は、恐らく、この俺よりも深く、違う視点からこの事態を理解し、対応している。それは、公使館での他国との交流という名の腹の探り合いのチェスで常勝し、「日本のマンシュタイン」などとおだて上げられた俺とは違う、最前線の、実戦下での肌感覚によるものではないか。狩野は、理屈ではなく感覚で、そう理解していた。
「そこはそれです。時間勝負ですから、まあ、お任せあれ」
愛らしく、茉莉花は狩野に微笑む。その笑顔には、昨夜見せたような凄みは、何一つ見られなかった。
駅の周辺で客待ちという名の仮眠をとっていたタクシーを見つけ、茉莉花は、この時間でも食事が取れる場所、あるいは食料が買える店へ行くように指示する。不満顔のドライバーに、あなたも好きなもの奢るわよ、と持ちかけて交渉成立、中心街の端の方の、見かけ上は閉店している食堂で一端車を停める。
ドライバーも誘って店内に入った茉莉花と狩野は、慣れた様子でカウンターに座るドライバーを他所に、食事を二人前とコーヒーを頼んで店の奥側、入り口を見張れるテーブル席につく。
こちらをチラチラ見ながら、やや眠たげな、太った店主と話をしているドライバーの様子を伺いつつ、狩野は茉莉花に、そもそもの疑問を問いかける、日本語で。
「それにしても、何故、ドレスデンなのかね?」
コーヒーを持って来た店主を気にしつつ聞いた狩野に、茉莉花は、
「あら、彼、言ってましたよ?」
たっぷりのミルクと砂糖を入れる狩野を見ながら、ブラックで熱いコーヒーを一口飲んで、さらりと言い放つ。
「今際の極みに、ドレスデン、って」
そんな事、狩野は聞いた覚えはない。眉根を寄せる狩野の表情に気付いたのか、茉莉花が言葉を重ねる。
「それとも、大佐、私は人の心が読める魔女です、って告白した方がよろしかったですか?」
わざとドイツ語で言った茉莉花の言葉が耳に入ったドライバーと店主のギョッとする顔が目に入り、狩野は盛大にむせた。
「まあ、それはともかく、彼からドレスデンに何かある、と言う情報が取れたのは事実です。ですが、正直、ここからどうしたものかは、私もまだ皆目見当がついていません」
ひとしきりクスクスと笑ってから、茉莉花は言葉を続ける。
「夕べは上手く出し抜けましたが、早晩ここにも手配は回るでしょう。スピード勝負ですが、こちらのカードは無いも同然。正直、今はお手上げです。ですが、とにかく、腹が減っては戦は出来ぬ、です。夕べから飲まず食わずでは言いアイデアも浮かぶはずもありませんから、とにかく、食べられる時に食べておきましょう」
この時、狩野は、茉莉花のこの言葉がいろんな意味で現実になるとは、思ってもいなかった。
「軍人さんが集まる所って言えば……そうさなぁ……」
食事を終わり、タクシー車内に戻った狩野と茉莉花、及びドライバーは、この先の行き先を相談していた。
我々は実は、日本から来た商社の者である。ここに来た目的は軍に我が社を売り込むことであるが、出来れば、普通の部隊ではなく、武装親衛隊の上の方に売り込みたい。このあたりで、武装親衛隊がたむろしているような場所はないか。
茉莉花は、そんな話をドライバーに持ちかけてみた。ドレスデンは、軍事及び交通の要衝である。駐留、あるいは移動の中継点として滞在する国防軍は多く、武装親衛隊もそれなりの数が駐屯しまた滞在しているが、秘密警察の上部組織としての武装親衛隊で、狩野達が目的とする者の情報を持っているとすれば、それは一時立ち寄りではなく恒久的にこのあたりに駐留している組織のはずである。手がかりが無い以上、それらをしらみつぶしに当たるしかない。そのためには、タクシー運転手など土地に詳しい者の情報は貴重である。そんな事を、狩野と茉莉花は食事をとりつつ相談し、自分達は商社のものだと偽ることにするのが良かろうという合意に達していた。
「……軍の詰め所ならあっちこっちにあるけど」
しらみつぶしと言っても、それら全部を回る時間も余裕もあるとは思えない。
「研究所、みたいなところはないかな?」
狩野も、聞いてみる。もし、岩崎が何らかの理由で秘密警察に捕らわれているとしたら、ベルリンからドレスデンまで移送するくらいだ、街中の詰め所に閉じ込めるとは思いづらい。
「研究所、ですかい?そうさな……ピルナの方に、病院ならあるが……でも、あそこはなぁ……」
ドライバーは、口ごもる。
「……訳あり?」
茉莉花は、軽く身を乗り出して聞く。その動きに合わせ、開けたブラウスの胸元から、下着を着けていない胸元が覗き、揺れる。
「……キ○ガイ病院だって、いや、実際、精神病棟があるのは確かなんだがな」
目線を忙しく上下させつつ、ドライバーは答える。
「確かに親衛隊や党の偉いさんを乗せていった仲間もいるが……」
どう思う?狩野は、茉莉花に視線で聞く。
「あえて火中の栗を拾いましょうか、どこかに火を点ければ、必ず火消しが動きます……そこにやって下さい」
「ゾンネンシュタイン城、かあ……」
この上だよ、そう言って去って行ったタクシードライバーの指し示した先にあった、城と言うよりは領主の館という感じの大きな建物を見上げながら、狩野は呟いた。
「城と言うイメージではないですね……さあ、覚悟決めて虎穴に入ってみましょう」
隣に立ち、同様に城を見上げていた茉莉花も同意し、そして狩野を促す。
「あ、ああ……」
若干気圧され気味の返事をして、狩野は、先に歩き出した茉莉花の後に続いた。
「待て、何者か?何の用だ?」
当然、門番の国防軍兵士は二人を誰何する。
「大日本精機の者です。本日、こちらで商談のお約束で参りました。日本陸軍の岩崎大佐からお話しが行っているはずですが……」
ひっかけのワードを含めた出任せを、さも当たり前のように茉莉花は口にする。おいおい大丈夫か、狩野は内心気が気ではないが、それを顔に出さないように下腹に力を入れる。これは、打合せの範囲のことだ。
「……聞いているか?」
「いや……問い合わせよう」
「そのようにお願いします……報告したい件もございますので」
早朝の、思いがけない訪問にあたふたする兵卒二人に、茉莉花は、首から提げた秘密警察の認識票を胸元から引き出し、ちらりと見せる。
その途端に、兵卒の顔色が変わる。一度書けようとした内線電話機を切り、改めて、違う番号にかけ始めたのを見て、茉莉花は認識票を胸に戻す。
兵卒が何事か電話口で頷き、開門の操作をはじめたのを見て、茉莉花は狩野に振り向く。
「ここから先は出たとこ勝負、手札なしの大博打になります。正直、分はあまりありません。大佐は、ここでお待ちいただくか、街に降りていただいてもよろしいのですが……欲を言えば、街で逃走手段を確保していただけるとなお良いのですが」
「……いや、一緒に行こう。どのみち、捜査の手は今日中にもここに届くだろう。情けないが、街に俺一人で居て、逃げ隠れできる自信はないし、そもそも、どこに居ても、もはや俺に安全な場所は、ドイツ国内には無かろう」
茉莉花の言わんとする事を、狩野は先読みする。
――どうやら、思ったより大事に俺はかかわってしまっているらしい。いや、俺と岩崎は、か――
狩野は、腹の中がぐるぐるするのを感じる。とんでもない状況に、文字通りの虎口に首を突っ込んでしまっている、それが今、目の前の兵卒の態度から読み取れた。だから。これは、多分、怖じ気づいているのだ。だが。
――だが。だとしても。何も知らずには引き下がれない。同盟国の公使館付き武官に手を出すような、それ程の何かがあるのだとしても、あるのだとしたら、だからこそ、知らないままでは居られない……そうだ、これは使命ではない。俺の、意地だ――
狩野は、無理矢理に覚悟を決めた。
「日本からとは、遠路はるばるご苦労様です。生憎と連絡は届いていないのですが、御用の向きは僕が伺いましょう」
通された応接室で、そう言って椅子を勧めるのは、どうやら軍人ではなさそうな、白衣を着た研究者風の男だった。
「申し遅れました。僕は、ここの医者で、フリードリヒ・ブランデンブルクと申します、お見知りおきを」
白衣の男、フリードリヒは、そう言って腰を折る。眼鏡の奥の目は常に薄笑いのようで、感情が読みづらい。
「お時間を割いて戴いて光栄です。私は通訳のマリ・キムラ、こちらは私の上司のヒロ・カノウです」
咄嗟に名前を少しだけ変えて、椅子に座りつつ茉莉花は答える。
――間違いなく、この部屋は監視されている。いつ何時、武装した兵士がなだれ込んで、俺たちを拘束しても何の不思議も無い――
狩野は、脇に汗が滲むのを感じる。
――無謀も良いところのやり方だ、情報を取るどころか、返答一つで生きて出る事さえ難しくなる。いざとなった時頼れるのは、互いにベルトに挟んだ拳銃一丁、弾倉は装填済みも含めて各人三つ。なるほど、警察の捕り物なら充分だろうが、ここから強行突破で逃げ出すとなると、あまりに心細い……――
事前の打ち合わせ通り、上司はドイツ語が堪能では無いという設定で、基本的には茉莉花が一人で受け答えする手はずになっている。その間に、狩野は相手の言動その他を吟味する、そういう役割分担になっていた。
「早速ですが、先日郵送いたしましたパンフレットはご覧になって頂けておりますでしょうか?」
よくぞそこまで口から出任せが出るものだ。狩野は、茉莉花の口車に半ば感心する。
「いえ、そのようなものは受け取っては……」
「これは失礼しました、てっきりご覧になっているものとばかり……分かっていれば、手ぶらでなど来ませんでしたのに」
茉莉花は、残念そうな顔をする。
「では、申し訳ありませんが、口頭にて説明させていただきます。弊社、大日本精機では、このほど新しい医療機器の開発に成功いたしまして、是非ともこれの拡販輸出を行いたいと考えております。資料によれば、ここで行っている業務の効率を劇的に改善出来ると弊社開発部は申しておりまして」
「……具体的に、それはどんな器具ですか?失礼ですが、僕もさほど時間を取れず、申し訳ないが手短にお話しを済ませていただきたいのですが」
もってまわった言い方をはじめた茉莉花に、軽くいらだちを見せてフリードリヒは言葉を遮る。
「これは重ね重ね失礼しました」
茉莉花は、それを軽く受け流し、切り出す。
「弊社は、新型の高速焼却装置を開発いたしました」
はじめ、フリードリヒはくつくつと小さく、次第に肩をふるわせて、しまいには破顔する。
「……いやいや、これは失礼、失礼しました……して、それはどんな隠語ですかな?」
狩野は、背中に冷や汗が流れるのを感じる。表情を変えない努力は実っているのかどうか、茉莉花の様子を窺いたいが、それはあまりに不自然に過ぎると気付き、すんでの所で思いとどまる。
「いやいやいやいや。申し訳ない。私は秘密警察でも何でもありませんので、その方面は疎いのです。それで、焼却装置、ですか?」
「……はい。隠語でも何でもなく」
「秘密警察の認識票をお持ちのあなたが、何でもない、と?」
「はい。ここに来てそれを見せれば話が早いと教わりまして」
「失礼ですが、どなたから?」
「……大日本帝国陸軍、岩崎大佐」
その瞬間。狩野は、全身に衝撃が走るのを感じた。落雷に打たれたかのような、衝撃。
椅子の上で飛び上がり、そのまま床に倒れ、体が動かない狩野は、薄れゆく意識の中で、フリードリヒの声を聞いた。
「いやいや、もしかしたら、あなた方は本当に秘密警察の一員かも知れません。そうでありましたら、平に御容赦の程を。ただ、僕の美意識が許さないのです、アーリア人の為の組織である秘密警察に、武装親衛隊に、東洋人が居るはずが無いと。まあ、彼の名前を御存知だったと言うだけで、充分に嫌疑はありますから、ご安心下さい、何とでも理由は後付け出来ます。それに、東洋人の検体ももう少し欲しかったところです。喜んで下さい。あなた方は、僕の研究の役に立ち、全アーリア人の為の礎になるのですから……」
フリードリヒの話はまだ続いていたかも知れなかったが、狩野が理解し、記憶し得たのはそこまでだった。
※20220104:フリードリヒの容姿に関する部分で、少しだけ追記しました。
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