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第八章:そして日常へ

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「分かりました。じゃあ早速、セキュリティの通信ログを抜いてみます。いやあ、楽しみだなあ」
 土曜、午前十一時。そう言って、緒方いおりが地下の実験室に消えた後、北条柾木は井ノ頭邸の応接間でぽつねんと放置されていた。

 朝八時に西条家のメイド、濾斗舞耶ろーと まいやに起こされた柾木は、夜着の上にガウンを羽織った格好で、とっくに起きていた部屋着の玲子と朝食をとった。
 完全に場違い、かつ全く似合わない格好に戸惑っている事を正直に吐露した柾木に、鈴を転がしたように玲子は笑って、言う。
「ですが、いずれ慣れていただきませんと。いずれ、こうしてここで一緒にお食事する機会も増えましょうから」
 部屋着の――普段の外出着のゴスロリに比べれば遥かにシンプルな、軽くフリルをあしらった薄ピンクのワンピースにカーディガンを羽織った、部屋着と言ってもそのまま外出しても全く違和感なさそうな――玲子は、そう言って軽く首を傾げ、嬉しそうに微笑む。
 冬の遅い朝日を照り返す白銀の髪に、普段は目にしない玲子の白い素肌とベールのない素顔。柾木は、ちょっとだけ動悸が速くなるのを感じた。

 そんな朝食の後、柾木は、夜のうちに洗ってもらっていた自分の服――ダサダサのスウェット上下――を着込んで上からスタジアムコートを羽織り、外出着に着替えた玲子と一緒にセンチュリーの後席に収まる。トランクの中には、エータ柾木が横倒しに膝を抱えて入っている。
「……なんだかなぁ……」
 なんとなくそのトランクを振り返って、柾木は呟く。
「何が、ですか?」
 今日は白いワンピースの上に黒のAラインコートを合わせた、ロリータの基本型とも言えるスタイルの玲子が不思議そうに柾木に聞く。朝食の際と違い、ボンネットにベールで顔と視線を隠し、長手袋にストッキングで一分の隙もなく肌の露出を抑えた玲子の姿は、やはり柾木にはこちらの方が見慣れていてなんとなく落ちつく。
「いや、エータがオートマータだってのは分かってるんですが。自分と同じ顔したのがトランクに転がってるってのは、どうにも……」
「とはいえ、この車は四人乗りですから、エータを座らせる席は残念ながらございません。仕方のない事です……お気に召しませんか?」
「まあ、わかってはいるんですが……」
 柾木としては、自分が中に入った事のあるオートマータをトランクで運ぶのは、感覚としては人間相手にそうしているのに等しい。この感覚は、どうやら玲子には伝わらないらしい。柾木よりもはるかにオートマータを見慣れているせいかもしれない。

 そして、午前十時を少し回った頃、八丁堀の井ノ頭邸に到着し、時田と袴田がエータを下ろす傍ら、柾木と玲子は先に玄関を入る。
「あらあら、西条さん、北条さん、いらっしゃいませ」
 これから向かう旨連絡済みであったため、井ノ頭菊子がすぐに玄関に迎えに出た。
「菊子さん、おはようございます」
 柾木と玲子の挨拶がかぶった。思わず顔を見合わせた二人を見て、菊子は、掌で口元を隠して笑う。
「どうぞ、お上がり下さい」

「ああ、やっと来た。お待ちしてました北条さん、早速話聞かせて下さい」
 玲子に手を貸して先に玄関を上がらせてから自分の靴を脱いでいた柾木に、地下室から上がってきた緒方が挨拶も抜きで声をかける。柾木は、苦笑して、
「……玲子さん、俺、ちょっと説明して来ます」
 玲子に声をかけ、緒方の後に続いて地下室に降りる。その後に、二人がかりでエータを持ってきた時田と袴田が続いた。

 それから根掘り葉掘り聞く緒方に、柾木が思い出す限りの事を説明するのに小一時間。三十分ほど経った時に玲子と菊子が地下室に現れ、散歩がてら買い物に行ってきますと告げてすぐにまた出て行ってしまった。あらかた話し終わった柾木が開放されたのはそれから約三十分後、何か余計な事を緒方が言い出す前に、柾木は一旦、玄関横の応接間に戻る。
 ソファに身を投げ出して大きくため息をついた柾木に、袴田がティーカップを差し出した。
「如何ですか?カモミールですが」
「あ、ありがとうございます」
 袴田は基本的にはセンチュリーの運転担当だが、もちろん一通りの執事としての業務もこなす。
 気分を落ちつかせるそのハーブティーをひとすすりしたところで、慌ただしく応接間の扉が開いて緒方が顔を出す。
「北条さん、聞き忘れてました。どうやってエータの起動手順を知りました?」
 驚いて危うくお茶をこぼしそうになった柾木だが、なんとか見た目上は平静を保つ事に成功した、と思って、緒方の質問に答える。
「前に、ほら、あの船で、菊子さんが言ったの思い出したんです。言葉と接触の二重暗証だって。なんで、もしかしたらエータも俺が触って声かければ動くかなって」
「なるほど……いや、教えてなかったのによく気が付いたと感心してたんですが、なるほど、確かに菊子さんはたまにそれ、セキュリティに使いますね。分かりました。じゃあ早速、セキュリティの通信ログを抜いてみます。いやあ、楽しみだなあ」
 緒方が地下室に消えると、柾木はやれやれと再びソファにもたれてハーブティーを嗜む。応接室は、一人でいるには広い。いや、袴田も居るのだが、彼は必要がない限り、自発的に柾木に干渉してくる事は滅多に無い。かと言って無愛想なわけではない事は、この半年で柾木もよく分かってはいた。
 手持ち無沙汰になってしまった柾木は、ふと思い出して、スマホを取り出すと通販サイトを閲覧し始める。

「お買い物をされるのですか?」
 通販サイトでしばらく商品を検索していた柾木が、気に入ったものを見つけて決済画面に移った頃を見計らって、珍しく、袴田が声をかけてきた。
「あ、はい。言いましたっけ、このスウェット、水かけられたりなんだかんだで結構ヤレちゃったんで。ずいぶん着たし、新しいの探そうかなって」
「そうですか。お支払いは、カードで?」
「多分、そうですね」
 柾木は、ある意味当たり前な事をあえて聞く袴田に不自然なものを感じた。
「……何か?」
「いえ、ただ、北条様が今、どこのカードをお使いになるかは存じませんが……」
 言いながら、袴田はどこに持っていたのか、使い込まれたタブレット、ハードな使用を想定したパナソニックのタフブックを取り出し、慣れた手つきでひとしきり操作すると、画面を柾木の方に向ける。
「……え?ええ?えええええー?」
 画面に映し出された情報を見て、その意味を理解した柾木は思わず絶叫する。そこに映し出されていたのは、柾木のクレジットカードの使用履歴と、住所氏名といった個人情報。
「ど、ど、ど……」
「このクレジットカードは以前スキミングされておりまして」
「い、いつから?」
「北条様が、青葉様とホテルに逗留された夜からでございます」
「……マジっすか……」
 つまり、あのホテル、五月と出逢い、なし崩しに引きずり込まれたホテルでの会計に使ったカードがスキミングされていたって事か。柾木は、それで翌日すぐに玲子が自分の元に現れた事の合点がいった。スキミング被害。そんなものがあるのは柾木も当然知っていたが、自分がその対象になっている事は想定していなかった。
「何時ご忠告申し上げようかと思っておりましたが、丁度よい機会ですので。悪用されないよう手は打ってありますが、そのカードは解約された方がよろしいかと存じます」
 タブレットを仕舞う袴田を呆けた顔で見ていた柾木は、ふとある事に気付く。
「……手は打ったって、どういう事です?いや、そもそも袴田さんは何で……」
「昔、色々と「いけない遊び」をしていた時期がございまして」
 柾木の質問を遮って、袴田が答える。
「西条の家に雇われてからは昔の仲間とは付き合いを断っておりますが、まあ、昔取った杵柄という奴でございます」
 何でもない事のように答えて、袴田はニヤリと、悪意のない顔で笑う。それを見た柾木は、はっとして思わず聞いてしまう。
「もしかして、時田さんとかも……」
「それは、時田に直接お尋ね下さい」
 微笑みつつさらりと答えた袴田の様子から、柾木は、この場に居ない、玲子の買い物に付き添って外出している時田も、やはり只の執事というわけではないのだと確信した。

「ごめんくださーい」
 玄関から聞き覚えのある声がしたのは、時田とイプシロンを連れた玲子と菊子が日本橋のデパ地下で買ってきた惣菜、並びに、菊子と、菊子の手ほどきもありつつの玲子の二人で作った汁物その他の付け合わせの昼食が済み、食後のお茶を皆が戴いていた頃だった。
「はあーい」
 菊子が席を立ち、玄関に向かう。
「……かじか様のお声ですわね?」
 玲子も、ティーカップをソーサーに戻して、柾木に確認する。
「だと思います、何でしょうね?」
 柾木が、応接間の玄関に面する扉を見ながら言う。と、待つほども無く扉が開き、思った通り、蘭鰍あららぎ かじかと、「協会」の経理担当の笠原弘美かさはら ひろみが姿を現した。
「こんにちは、ってまだ半日も経ってないわよね」
「はい、その節はお世話になりました」
 笑顔で入って来た鰍に、真っ先に玲子が返事を返す。柾木は、ちょっと不思議な感じでそれを見る。初対面の時は、同じこの部屋で怒鳴りつけ合っていたのに、玲子は今は、あの人狼達の中で特に鰍に親近感を感じているように見える。それは、柾木の生身の体を治すため、この井ノ頭邸でしょっちゅう顔を合わせていた事も関係しているのだろうが、どちらかというと、歳が一番近い事に加え背格好も近い、というか、一つ年上の鰍の方が体の小さい玲子よりさらに背が低い事も関係しているのだろうと柾木は思う。
「それで、今日はどんな御用向きですの?」
「うん、夕べ、エータを返しにここに来るって言ってたでしょ?」
 万が一の緊急連絡の可能性が捨てきれない為、昨夜、解散する直前に、互いの翌日の行動については打ち合わせてあった。
「それで、ばーちゃんから伝言頼まれたのとね」
 鰍はそこで言葉を途切って、続きを隣の弘美に振る。
「ご無沙汰しております。今回のご依頼につきまして、会計処理に参りました」
「会計、ですの?」
「会計、ですか?」
 玲子と柾木の声が被さる。
 菊子に進められてソファに座りながら、弘美は頷くと、書類一式をブリーフケースから取り出す。
「はい。円さんから、今回、西条玲子さんから依頼を受けたと聞いてます」
「依頼、ですの?」
「はい。円さんに寄れば、西条さんから、助けて欲しいとメールをもらったと」
「はい、それは、はい、そう申し上げました」
 玲子は、柾木を助けに行く途中で円に打ったメールを思い出した。玲子の返事を聞いた弘美は、一つ頷くと、
「なので、「協会」としてこれは正規の緊急救助要請であると判断し、そのように手続きして最適なハンターを派遣しました」
「判断したのも、メンツ選んだのもばーちゃんだけどね」
 鰍が混ぜっ返す。軽く苦笑してそれを流した弘美が言葉を続ける。
「正規の要請なので、費用が発生します。こちらが、その請求書になります」
「まあ……そういう事ですの……」
 こうも理路整然と言われると、玲子としてはそう言ってとりあえずは書類を受け取らないわけにはいかない。なにしろ玲子は西条精機の社長令嬢である、それなりの能力を持った人材をある程度の時間拘束した場合、それなりの費用が発生する事は重々承知している。ましてやこの場合、かなり特殊な能力を持った人材を複数名起用している。そこそこの出費を覚悟し、果たして自分のポケットマネーで賄えるだろうかと内心ビクビクしながらその請求書を見た玲子であったが、
「……これは……この値引き額というのは……」
 請求書から目を上げて、玲子は弘美に聞く。
 一般に、技術職では一人月百万円が一つの判断基準になる。八時間労働×二十日で割って諸経費込みマンアワー代に直せば六千二百五十円、玲子はそれを基準として、まどか以下五人を半日十二時間拘束し、それにさらに消耗品やら何やらが載った額を想像していたが、蓋を開けてみれば玲子の想像より少々高い請求額――酒井達警官チームがスポット扱いで加算されていた――の小計の下に、それと同額の「値引き」が記入され、結果として請求額はゼロになっていた。
「初回でもあるし、今回は特別に割り引けとの「協会」重鎮からの通達がありまして」
 肩をすくめて、やれやれという顔で弘美が答える。
「要するに、今回はばーちゃんの奢りなんだってさ」
 鰍も、ソファの背もたれに寄りかかりながら、やや苦笑気味に言う。
「円さんが?」
「そうならそうと自分で言いに来りゃいいのに、いい歳してそういうところ素直じゃないんだから。ま、アタシはギャラ払ってもらえれば出所はどうでも良いんだけど」
「……本当に、よろしいのですの?」
 聞き返す玲子に、鰍が答える。
「ばーちゃんね、玲子さん達を構いたくてしょうがないのよ。だから、遠慮しないで受け取ってちょうだい、だってさ」
「というわけですので、受け取りにサインを頂けますでしょうか?」
 弘美が、カーボン紙を挟んだ請求書とボールペンを玲子に差し出した。

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