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第七章:決戦は土曜0時

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 五月は、莉莉リリ入っていた・・・・・棺に両手を置き、考えていた。
 莉莉が私を選んだ理由、私の心に取り込まれた理由。それは、比較的速い段階で分かってはいた。
 誰かを、特定の男を強く愛している事。自分がそんなに強く誰かを愛しているとは、五月はその時まで自覚はしていなかった。だが、莉莉が何故自分を選んだかを頭ではなく心で理解した時、同時に、自分は酒井源三郎という男にすがっているのだと自覚せざるを得なかった。そしてそれは、莉莉の半生を知ったとき、確信に変った。
 莉莉と自分は、同じ穴の狢なのだと、理解した。

 母のように、自分は自立し、強く生きていると、そう思っていた。学もないし、履歴書に書ける資格も、職歴もないが、したたかに強く生きているのだと思っていた。女手一つで自分を育てた、母のように。五月にとって、母は、理想であり、目標でもあった。
 だが、理想となるような女性であれば、そもそも死別したのでもない限り、女手一つで子供を育てるような事は普通すまい、という事を、五月は考えないようにしていたのかも知れない。その事を、莉莉の生き様は自分に突きつけていたように、五月は感じていた。ダメなものはダメなんだ、と。

 小部屋の外、事務所跡で蒲田と何か相談している酒井の声を聞きながら、五月は思い出す。
 初めて会ったとき、源三郎さんの借り住まいに転がり込んだのは確かに偶然だった。けれど、そこにかくまってもらおうとしたのは自分だ。あの時、源三郎さんが言ったとおり、物件としてみれば蒲田さんの方が――一つ年下だけど――良物件だったとは思う。でも、自分はあの時、何故か源三郎さんを選んだ。あれはもう、理屈抜きの直感だった。
 そういうとこだぞ、葵五月あおい さつき。五月は、本名の自分に言い聞かせる。もう少し理性的に打算で動け。いや、源三郎さんを選んだのも打算と言えば打算なんだけど。そう、今ひとつうだつのあがらない、押せばいやとは言えない優柔不断なオジサンだと、その時はそう思って押しかけた、そのつもりだった。
 結果として、偶然、直感は正しかった。運がよかったとは思う。いろんな意味で、源三郎さんは望外の良物件だった。けどまあ、あの時の評価も間違ってはいなかったけど。あの優柔不断は、「優しい」で済む範囲をちょっとはみ出している。
 その優柔不断なくらい優しい源三郎さんが、この先もそのままでいてくれる保証は無い、その事を、莉莉は私に、張果ちょうかという実例を見せる事で教えてくれた。自分から見れば優しい男でも、自分から見えない面で何をしているか分からない、自分を破滅に導く事だってあり得ると。
 そして、私や莉莉のような女は、それでも、いやそれだからこそ、その男にすがってしまうのだと。

 五月は、莉莉の棺から手を離す。五月が莉莉の骸にかけた莉莉の外套、莉莉の頭から腰のあたりまでかけたはずの、さっきまでわずかに膨らんではいたそれは、今は平らに潰れてその下に何かがあるようには思えない。
 今の五月の心の中に、莉莉はいない。ただ、五月の心には、莉莉の生き様の記憶だけは残っている。
 五月は、それは莉莉が自分に、心を取り込み合ったダメな女同士の自分に残した教訓のように感じていた。
 自分を教訓に、自分のようになるなと、そう言われているように。
 大丈夫、私はきっと、大丈夫。五月は、小部屋を出ようとした足を止め、振り向いて一瞥を莉莉の棺に投げる。
 あなたが見せてくれたから。私は、上手くやってみせる。だから。
 莉莉、安心しておやすみなさい……

「とにかく、熊川警部補に連絡取ろう。八課にも連絡してもらわないと」
「ですね、はい」
 まどかが孫達を引き連れて事務所跡を出てすぐ、酒井は蒲田と今後の相談を始めた。
「円さん達もいつまでもここに居ないだろうし、西条さん達もそうだろうし。五月さんだって家に送らなきゃな」
「かと言ってここを無人にするわけには、はい。重要参考人も居ますし……」
 酒井の指摘に、蒲田が足下の、押し黙っている張果を見下ろしながら意見を述べる。
「……そうだよなあ、大体ここ、冷静に考えるととんでもない事になってるぞ」
「解凍済みの死体がざっと五十体ですからね、はい……それに、思い出しました、僕、あららぎさんを大黒パーキングまで送らないとです、はい」
 蒲田は、円を大黒PAでピックアップしてきたいきさつを簡単に酒井に説明する。
「そうか、そりゃ早く送らないとだな」
「はい、その足でついでに五月さんも送るのが面倒なくて良いんですが、はい」
「じゃあ、明け方には八課が応援に来るんだろ?俺がここで待機してるよ」
「いえいえいえいえ。酒井さんこそ一度帰宅してください、はい。御自分じゃ分かってないかもですが、見た目えらい事になってますから、はい」
「そ、そうか?」
 酒井は、そう言われて改めて自分の格好を確かめる。
「……源三郎さん、酷い格好ですよ……まあ、あの葉法善ようほうぜんとやり合ったんでしょ、生きてるのが不思議なくらいです」
 小部屋から出てきた五月が、背広の背中を見ようと四苦八苦している酒井の様子を見て、そう評する。実際、かろうじて酒井の着ているのは背広だったと分かる程度、かじかの「治療」のおかげで傷はあらかた塞がっているが、服と肌にこびりついた血と泥は落ちていない。
「そんなに酷いか?」
「酷いです」
 五月と蒲田の声がハモる。
「そうか……しかし、どうしたもんかな……」
「……提案なんですが」
 困り果てる酒井に、蒲田が、
「熊川警部補に、こっち来てもらいましょう、はい」
「しかしそれじゃ、あっちは……」
「こっちに比べればあっちはヤバさでは全然マシです、はい。蘭さんに頼んで「人払いの結界」って奴を朝までかけて置いてもらうか、何なら所轄に応援頼んでも、どうでしょうか?」
「所轄か……」
 酒井は、ちょっと考える。死体やら何やら満載のこっちは、一般警察に任せるのは荷が重すぎるが、あっちにあるのはせいぜい密輸品にヤクザが二、三十人といったところ。八課に渡して本庁のソタイその他への手土産にしてもらおうと思っていたが……
「……よし、神奈川県警にも土産は必要だし、熊川君にも聞いた上で必要ならあっちには所轄を呼ぶか」
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