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第七章:決戦は土曜0時

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 その時、張果ちょうか莉莉リリは、軍の基地の近くにいた。
 場所は、関東州にほど近い遼東半島の山岳地帯、軍の基地と言っても駐屯地というわけではなく、それは何らかの通信施設、あるいは単なる倉庫のようであった。
 それがいつで、そこで何が起きたのか、莉莉の記憶からは読み取れない。それは、単純に記憶が欠落しているからかもしれないし、莉莉が重要な事として記憶していなかったのかも知れないし、あるいは、阿片の影響で既に記憶が定かでなかったのかも知れなかった。
 そして、五月にとってはどうでもよいと思っていたその「いつ」という情報は、思わぬ形で手に入った。
――こいつ……関係してたのか……――
 五月の脳裏に、悔しげな、憎々しげなまどかの声が聞こえた。
「……え?一体……」
――確か昭和三年、北支事変、じゃなくて今は日華事変?のちょっと前よ……――
「まさか……」
――詳しい事は知らないわ、でも、多分これ、あたしが知ってる事件に関係しているヤツだわ……ここ、見覚えあるもの――
 五月は、その円の記憶の方にも若干の興味を覚えたが、とにかく今は目の前の莉莉の記憶に集中するべきだと思い直し、集中する。

 張果も莉莉も、見た目は既に中年の域に達しているように見える。五月も、時間経過が実感出来ない事もあり、そんなもんだろうと思う。だが、
――計算合わないわよ、単純計算で、莉莉は八十近くになってるはずよ――
 円が、そう忠告する。そして、そう考えれば、やつれ気味ではあるが、莉莉はかつて茉茉モモを流産し、精神的にも体調的に最悪だった時期よりもむしろ体調が良さそうに見えた。
 だが、いずれにしても、莉莉は茉茉を手元に置いてさえいればしごくまっとうであり、また張果もそんな莉莉をかいがいしく世話していた。そんな幸せな莉莉の記憶は、幸せのまま、いきなり途切れていた。

 その瞬間の記憶は、本当に断片的で、かつ、瞬間的でしかない。分かるのは、張果の双眸から血が流れている事、張果の背後に、何か大きな獣が倒れている事、そして、莉莉が満足したまま事切れている事だけだった。
 そして、五月は感じていた。
 莉莉は、何か巨大な獣の爪と牙から張果を庇い、それが故に致命傷を受けたのだと。阿片の影響でもはや痛覚を感じない莉莉は、張果を守れたその事だけで満足し、自分の死には未練を残していないのだと。

 ああ、そうか。つまり、そういう事か。
 五月は、理解した。
 円さんが言っていたのは、この事か。莉莉は、満足して、死んだのだ。その意味で、莉莉の魂は、既に救われているのだ。
 要するに、私のしている事は、莉莉にとってはお節介でしかない、そういう事だ。
 しかし、だとしたら、莉莉の魂を現世に引き留めているのは、何か別のものだ。それは、この未練は一体、何?
 そもそも、あの獣は、何?
 その答えは、茉茉の記憶にあった。

 死産、流産であった茉茉だが、少なくとも流産の直前までは生きており、その魂魄は存在していた。
 だから、張果によって土人形に封じ込められた茉茉の嬰児は、その未熟な自我のまま、莉莉の愛情を注ぎ込まれ、いびつな魂の赤子として、死んで生まれた人形として、生きているとも死んでいるとも言えない状態のまま、存在し続けていた。
 その自我は、ただひたすらに父母の愛を欲し、そして自分の保身を望む、ただそれだけのものだった。だからこそ、自分を傷つける者には容赦がなく、自分を愛する者には愛をもって答える、非常にわかりやすいとも言える反応を示していた。
 張果は、莉莉を愛し、茉茉も愛する事で、その特性を特化させ、茉茉を経由して莉莉の力を研ぎ澄ます事に成功していた。それは偶然の産物ではあったが、家族の愛のなせる技でもあった。
――これで済んでりゃ、まあ、よかったねで済ましてもいい話、だったんだろうけどね……――
 断片的に進む茉茉と莉莉、そして張果のその後を第三者視点で見つめる玲子と柾木の脳裏に、鰍の声がする。
「……確かに、いびつだけど、家族愛って言えばそうなのか、な?」
 柾木が、今ひとつ確信の持てない気持ちを隠さず、感想を述べる。
「ずいぶんと歪んではいますけれど、確かに、そう言えなくもありませんわね……」
 玲子も、全てを是としたわけではないが、それでも概ね同意する。
 それが変ったのは、その事件が起きた時だった。

 茉茉の記憶にも、その出来事の詳細は、事細かには残っていない。莉莉に比べればいくらか自我の強い茉茉だが、その興味は自分への愛情に特化している。それ以外の事はまるで興味がなく、従って記憶に残らない。
 だが、莉莉が茉茉を経由して術を使えば、それは茉茉の記憶にも残る。それは、莉莉が今際の極みに、巨大な獣の爪で体を引き裂かれながらも、強力な幻術でその獣を抑え込んだその時の記憶だった。
 その獣は、翼と角をもつ虎、窮奇そのものだった。

――ばーちゃん、こっちの記憶、繋げる?――
 五月の脳裏にも、鰍の声が聞こえてくる。
――やってごらん、練習よ――
――うわ、ひっでぇ……――
 本来なら、一人の術者が複数の人間、だけでなく妖怪変化も対象になるが、それらに同時に同じ夢を見せ、事実関係などに共通の認識を持たせる。それが「夢のお告げ」と呼ばれる、「協会」のネゴシエイターの裏技である。
 だが、この場合は、題材こそ同じだが、複数の人間が見ている、二つの夢。これを結合するのは、それなりに難易度が高い。「上から見ている」円や鰍の立場からは両方の夢が見えているが、「下から見ている」人間側からは、時系列その他で矛盾や不整合が起きる事がある。
「うわ」
「あ……」
 幸か不幸か、今回に限っては、夢の中の登場人物として存在するのは莉莉つまり五月だけであり、柾木と玲子は鰍と同様の立ち位置から見ていたため、ほとんど不整合なく夢を統一する事が出来た。
――……よし、出来た、かな?――
 とはいえ、茉茉の側は、茉茉を抱いたエータ柾木を経由して生身柾木の夢に連れ込むという手順を踏んでいるため、不安もあった。
――……上等よ。上手くなったじゃない――
――ばーちゃん直伝だもの、そりゃね――
 二人の夢魔の会話を聞きつつ、五月は、莉莉と茉茉の記憶が統合された世界を見渡し、そして理解する。
「つまり、葉法善ようほうぜんは莉莉の術の影響で張果に従っていた、って事?」
「そういう事のようですわね……」
 姿は見えないが、すぐ近くから玲子の声がする。この世界に実在しない人物だから、夢の中に具現化しないのだろう、と五月は理解する。
「そして、張果を助けるために、莉莉は死んだ?」
「みたいですね……あ」
 今度は柾木の声。それが、何かに気付いたような声になる。
 柾木が何を見たのか、それはすぐに五月にも分かった。五月の視点は、地面に倒れ伏す莉莉のそれだが、その視野に、血涙を流し、茉茉を片手に莉莉に近寄る張果が見えた。

「そんな……」
 玲子が、悲鳴にも似た声をあげる。
 張果が、髪をかきむしり、地面を叩き、踏みしめ、気が狂ったかのようにのたうち回る様を見ているからだ。
 既に事切れているはずの莉莉の、しかし、その心が動じているのが、五月には分かった。
 ……哀しまないで。怒らないで。あなたが生きていてくれれば、私はそれで良いの……
 胸郭を引き裂かれ、肺も心臓も失っている莉莉の、しかし心だけがまだ生きている、その事に五月は驚き、そしてすぐに理解する。
 莉莉も、仙になりかけていたのだ。だから、魂魄がすぐに体を離れないのだ。
 しかし、何故?五月は自問する。何故、何が理由で、もはや使い物にならない体に魂魄がしがみつく?
 その理由は、すぐに知れる。
 ……ああ、私は、あなたが、心配です……
 これだ。
 莉莉の、張果を愛するが故の未練。張果にすがらなければ生きていけない莉莉という女の、執着心。
 五月は、理解した。莉莉は、救われていないのではない。自ら望んで、留まっているのだ、と。

「そんな……そんなこと……」
 玲子は、胸が千切られるような痛みを感じる。
 血涙と思ったのは、実際に張果の目が切られ、出血しているせいだった。よく見れば、張果自身も傷だらけ、しかし、のたうち回るのは、その痛みのせいだけには思えなかった。
 その姿は、悲しみにのたうつ哀れな姿は、玲子の知っている張果、あの枯れ木のような不遜な老人と、まるで結びつかなかった。
 そして、茉茉すら、泣いていた。父と母の悲しみに反応して。未熟で、原始的な感情だからこそ、純粋に哀しんで。
「玲子さん……」
 柾木は、今、ここに体がないことを悔やんでいた。体がないからこそ、玲子が哀しんでいる、それがストレートに伝わってくる。しかし、俺は何もしてあげられない。体があれば、せめて肩を抱くくらいのことはしてあげられるのに……柾木は、自分自身この状況に悲しみを覚えつつ、何も出来ない自分が悔しかった。

「何とか、なりませんの?助ける事は出来ませんの?」
 玲子の悲痛な叫びがする。
――出来なくはないわ。ただ、酷く難しいの――
 鰍の声がする。
――アタシやばーちゃんなら、夢を書き換えることは出来るわ――
「それなら!」
――けど、それをすると、莉莉と一体化している五月さんの記憶がどうなるか、アタシは保証できないの――
――もうちょっと五月ちゃんと付き合いが長ければ、もう少し見分けが付けられるんだけどね……あたしや鰍じゃ、記憶の気配が見分けられないの……そうね、でも、そうね、玲子ちゃんなら……――
――ちょっと!ばーちゃん!――
――やってみる?五月ちゃんを鬼にした、玲子ちゃんなら、あるいは記憶の気配が見分けられるかも……――
 玲子は、返答に詰まる。 
「……わたくしに、本当に出来ますの?」
――さあ……悪いけど、保証は無いわ。ただ、あたしや鰍がやるより、可能性が高そうってだけよ――
「玲子さん、やれるんなら、やってみて下さい」
「ちょ!五月さん!」
 五月の一言に、それはいくら何でも自暴自棄じゃないかと思った柾木が抗議する。
「……出来るかどうか、分かりませんのよ?……」
「構いません、どうせ……」
 五月は、莉莉の記憶と混同しているだろう部分のいくつかを思い出し、断言する。
「……大していらない記憶ですから」
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