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第七章:決戦は土曜0時

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「……終わったんですか?」
 五月さつきの肩を抱くようにして支えつつ近寄ってきた酒井が、まどかに聞く。
「死んだ、の?」
 少し離れた所で立ち止まり、倒れ伏す窮奇きゅうき――葉法善ようほうぜんをのぞき込むようにして、五月も聞く。
「……これだけやりゃあ、普通は死ぬと思うけどね……」
 腰に手を当てて、二歩ほど窮奇から離れた所でその頭を見下ろす円が答える。
「……死んでると言い切れないのが、この手の妖怪のやっかいな所よね……」

 それはもはや、虎革の名残を残すだけの肉塊とも言えた。
 酒井の投げた丸太の杭が窮奇の心臓を貫くその直前、ほんのミリ秒ほどの時間差で、円の投げた鉄扇がその両の腕を切り離し、ともえの木刀がその胴を切り裂き、かおるのトンファーがその頭蓋を砕いていた。
 ……俺が何もしなくても、こいつに生き残るチャンスはなかったんだろうな……
 酒井は、それを成した、警戒を解かずに距離を保って窮奇を見下ろす人狼達、人のプロポーションでありながら、発達した犬歯、突き出た鼻と口、尖った耳を持つ、何よりも血のつながりを重視する一族を、改めて間近に見る。
 その姿は、酒井には、その法外な強さを目の当たりにした身としては、恐ろしくもあり、そして眩しくもあった。

「いやもう、聖銀弾をドタマにぶち込んでも倒れねーんだもん、焦りましたよ」
 その人狼達に並んで、スパスをローレディに構えたままの信仁が言う。
「酒井さんがとどめ刺してくれたんで助かりました、ホントに。ありがとうございます」
 そう言って、信仁は酒井に笑いかける。
「ホントよぉ。信仁にいは一発で仕留めようとしすぎなのよ。酒井さん、本当にありがとうございました」
 かじかが、屈託のない笑顔で酒井に礼を言う。その顔は、既に人のそれに戻っている。
「ああ、いや、俺はその、咄嗟に……」
 ばん。酒井の背中が、強く、優しく叩かれる。
「助かったわよ。なんかお礼しなきゃね」
 円が、満面の笑みで、言う。だが。
「……いってえぇ!」
 緊張で忘れていた、背中の創傷を叩かれた酒井は、返事の代わりにその場に膝をつく。
「源三郎さん!」
 五月が、しゃがみ込んで酒井を介抱する。
「あー……」
「ありゃあ……」
「ひでぇ……」
「ばーちゃん……」
 巴、信仁、馨、鰍からの非難の声と、責める目で見上げる五月の視線に押され、円は小さくなって、言う。
「ごめん……」

「柾木様!ご無事で……」
「うわ!っとっと……」
 緊張が抜けて脱力し、十五メートルほど離れたところの、葉法善だった虎のバケモノの死骸の周りの人垣をなんとなく見ていた柾木は、出し抜けに横合いから玲子に抱きつかれ、驚いてたたらを踏む。
「れ、玲子さん。大丈夫です、ちょ、苦し……」
 玲子は、あらん限りの力で柾木に抱きつく。わたくしは、知りませんでした。私が、あんなに、心の狭い、卑しい女だったなんて……でも……
「……もう、無茶、なさらないで下さいまし……」
 さらに腕に力をこめ、柾木に訴えかけながら、玲子は、思う。
 やはり私は、辛抱がなりません……

「……終わった、ですかね?はい」
 そんな、玲子に締め上げられている柾木に、蒲田が聞く。
「あ、はい、みたいです」
 言うほどは苦しくなさそうに、柾木は振り向いて蒲田に答える。
「じゃあ、熊川警部補に連絡しないとですね、はい。後始末とかあるんで……酒井さん!」
 蒲田は、酒井に声をかけ、小走りに走って行く。
「……後始末、か……」
 柾木は、呟いて、周りを見回す。
 必死だったから気になっていなかったが、気が緩んでみると凄い光景、そして凄い匂いだった。倉庫の中には三十体ほどの、倉庫の外には二十体ほどの殭屍キョンシー「だったもの」が、そのうちいくつかは「部品」をバラ撒いて、転がっていた。
 だが、そういう感覚・・・・・・が麻痺してしまっているのか、柾木は冷静に考えた。
 ……これ、誰が片付けるんだろう……
「……柾木様?」
 玲子が、何か自分以外の別なものに気を取られている柾木に気付き、いぶかしげに顔を上げた。
「どうか、なさいまして?」
「いや、後始末って言われて、なんかあったような気が……」
「後始末、ですか?」
「っていうか、何かそもそも目的があってここに来たような……あ」
 その事に気付いた、思い出した柾木は、同時に思い出したらしい、口元を手で覆い、驚愕の眼差しで柾木を見上げる玲子と目が合う。
 ぱぱっと回りを見回した柾木は、怪しげないくつかのコンテナに向けて駆け出す。玲子が、慌ててそれを追う。

「ああ、じゃあ、八課に連絡して……何だ?」
 蒲田から今後の方針を相談され答えつつ、鰍が展開した法円のほぼ中心に座り込んで背中の傷を癒やしてもらっていた酒井は、倉庫の建て屋から出てきて別の小さな屋外倉庫の扉に向かって走る柾木と玲子を見て、疑問を持つ。
「何かしら……あ、ドア開かないみたい」
 酒井の隣で、座りっぱなしで萎え、むくみきった足を癒やしてもらいながら、屋外倉庫の扉を開けられずに四苦八苦している柾木と玲子に五月も気付いて、補足する。
「ちょっと見てきます」
「あ、あたしも」
 小走りにそちらに向かおうとする信仁を、巴が追う。一応、この「グリーン興業」の敷地内は片付いた、制圧したと思ってはいるが、それでも非戦闘員の単独行動は危険と、ここに居る全員が思う。
「なんか探してる……のか?まあいいや、で?」
 酒井は、中断した相談を再開する。
「はい、じゃあ、熊川警部補に連絡して、八課に応援よこしてもらいます」
「ああ、頼む。何時くらいになるだろう?」
「さあて……」
 蒲田は、スマホを耳に当てながら、腕時計を見る。時間は、土曜の午前一時になろうとしている。
「今から動員かけて……明け方ですかね、はい。あ、熊川警部補ですか、蒲田巡査長です、はい……」
 酒井は、連絡を蒲田に任せ、自分は背中の治療、癒やしに集中しようとする。

 先ほど、酒井の背中の傷を見て鰍が立ち上げた術は、治療と言えば治療だが、「体内の気の通りを阻害しているものを精霊の働きで取り除き、本来の快復力を最大に引き出す」ものだと説明された。
「だから、そもそもの体力がないと逆に大変な事になるの。その点、刑事さん達は体力は問題なさそうだけど」
 蒲田が来る少し前、そう言って、鰍は酷い足のむくみと筋力の萎えに苦しむ五月もついでに酒井の隣に座らせ、術を立ち上げた。
「いやいや、俺はともかく、五月さんは……」
 仮にも女性、しかも今時点で相当疲弊し消耗している五月をおもんぱかって酒井は抗議する。と、横で見ていた円が、
「なーに言ってんのよ、二人とも立派な角生やして、体力ないなんて言わせないわよ」
「……え?」
 きょとんとした顔で、酒井は円の顔を見る。
「……角?」
「……あんた、もしかして……」
 円が、驚いたような、それでいて可哀想な物を見るような目で酒井を見ていた。
「……あの、源三郎さん?」
 五月も、心配そうに酒井の顔をのぞき込む。その額には、親指ほどの、二本の、角。
 酒井は、もしや、まさか、と思って、自分の額に手をやる。その手が、あんまり知りたくなかったものに、触れる。
 酒井の記憶が、思い出したくない記憶が一瞬、脳裏をよぎる。妻と子供の、自分を見る、恐怖に濁った、目。
 そうか、あれ・・の原因は、これだったか。酒井は、半年以上振りに、やっとその事実に得心がいった。
 そりゃ、離婚されるわけだ……
「……もしかして、知らなかったんですか?」
 五月が、黙ってしまった酒井に心配そうに聞く。
「……いや……なんて言うんだろ、うん、知らなかった……」
「あきれた……あんた、鏡見た事ないの?」
 本当にあきれたという表情で、円は酒井に言い捨てる。
「鏡くらい見ます。でも……」
「そりゃ、四六時中角生やしてるわけないわよね。ばーちゃん、酒井さんだって人間としての生活ってもんがあるんだから」
 呼び出した精霊を操りながら、鰍が横合いから助け船を出す。
「ああ、それもそうか。にしてもさぁ……」
「それだけ普段の酒井さんはお優しいって事でしょ、ね?」
 いまいち納得のいかないらしい円に、鰍が意見しつつ、五月に同意を求める。
「え?ええ……」
「ほらぁ。彼女さんがそう言ってるんだから」
「か彼女さんって!」
 いやその違います、酒井は続けようとした言葉を、危ういところで口に出さずに押しとどめる事に成功する。五月の居るその目の前で、そんな事言ったら絶対にあとで面倒な事になる。酒井だってそこまで朴念仁ではない、五月が自分に好意を持っている事くらいは気付いている、というか、むしろ自分が踏ん切りを付けていない、優柔不断なだけだという自覚だってある。仮にも妻帯者だった酒井は、女性の前でのその手の発言は慎重に慎重を重ねるべきだというのは身に染みていた。
「なによ、違うの?」
 ニヤニヤしつつ、円が聞いてくる。五月は、酒井の横で黙っている。
 これが怖い。この沈黙が怖い。どんな顔で聞いているかを知りたいが、それが分かれば手を打つ方向性が読めるが、今横を向くのは悪手だ、不自然だ。かと言って返答を伸ばせば、一秒刻みで状況は悪化する。
 突然現れた酒井の絶体絶命の危機。そこから酒井を救ったのは、こちらに駆け寄ってくる蒲田だった。
「酒井さーん!」

 蒲田が電話の向こうの熊川と連絡を取るのを見て、聞いていた酒井は、突然、こつん、と肩に何かが当ったのに気付く。
 振り返るまでもなく、それは横に居る五月の頭だった。
「あ……ごめんなさい」
 薄目を開けて、五月が謝る。その顔は、大変に眠そうだ。
「いや、いいんだけど。眠いのか?」
「ええ……これ、なんか気持ちよくって。足のむくみも取れて、なんかお風呂入ってるみたい……」
 火曜の夜から数えて足かけ五日、五月はここに監禁されていたのだ。そりゃ体も疲れるだろうし、気疲れだってしただろう。酒井自身、「気の流れをよくする」というこの魔法?魔術?をかけられて、全身がぽかぽかするのは感じている。
 五月が、もう一度酒井の肩にもたれかかってきた。今度は、起きない。酒井は、左手で五月を支えてやりつつ、その顔を見る。
 額の角は、もう見えない。
 酒井は、開いている右手で自分の額を撫でる。何も無い。
 そうか。気を張ると出て、気が緩むと引っ込むのか。人前で出さないように、これからは気をつけないとな……
 酒井は、要らない注意事項が一つ増えたと思った。
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