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第七章:決戦は土曜0時

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 ぱきん。
 よく響く、それでいて哀しい音と共に、小さな粘土細工の家の周りの周りの最後の木札が砕ける。
 張果ちょうかは、同時に起こった二つの事象に混乱し、ほんの一瞬だが、思考が止まる。
 木札が、この土地にかけた封陣が破られるのは想定内だからよい。だが、破られる前提だからこそ、さらに術を上掛けし、相手の隙をついて力を削り、そぎ落とす。そういう計画だった。
 だが、今、術を成さなければならない張果の、その左腕を、動かないと思っていた人形が、エータが掴んでいる、あまつさえ、ひねりあげられている。
「く……つ……」
 骨の軋む痛みに、張果はつい握っていた玲子の手を離してしまう。そして、離した途端。
 エータの、エータに入った柾木の右の鉄拳が、張果の左頬を激しく打擲ちょうちゃくした。

 驚愕の表情で、床に崩れ落ちながら張果はエータを見る。何をやっても動かなかった、動かせなかった人形。それが、何故動く?
「柾木様!」
 玲子が、歓喜の声をあげてエータに抱きつく。柾木?あの小僧のことか?まさか、そういう事か?
「柾木君、なの?」
 五月も、椅子の背に右手をついて体を支えつつ、エータに、柾木に近づく。
「おまえ……小僧か……?」
 張果が、起こした上体を震える腕で支えてエータを見上げ、やっとの思いで絞り出すように、聞いた。
 だがエータは、柾木はそれに答えず、玲子の肩に手を置いて優しく体を離すと、張果の胸ぐらを掴み、引き摺り起こす。
「先に殴ったのは確かに俺だけど。一回は一回だからな……それに」
 柾木は、玲子も五月も聞いたことのないような声で、言う。
「あんた、玲子さんに酷い事しようとしただろ」
 玲子は勿論五月の目にすら留まらない速度で、柾木の、エータの拳が張果の鳩尾にめり込んだ。

「柾木様……」
 玲子は、今の自分の気持ちをどう表現したものかわからず、柾木にどう接したらよいのかも分からなくなってしまっていた。
 今、わたくしに背中を向けている柾木様は、激しく憤っていらっしゃる。それはわかります。そして恐らく、その原因は、私が考え無しに張果の前で邪眼を使おうとし、危うく逆に目を潰されそうになったあの一件。柾木様は、私の目を潰そうとした張果に、それほどまでも憤って下さっていたのですのね……私は、ごめんなさい、気付いておりませんでした。
 その事自体は、玲子にとって、嬉しい。と同時に、その事で柾木を傷つけてしまった事も思い出し、胃が絞めあげられる、嬉しさより申し訳なさで胸がいっぱいになる。そして。
 出会ってから半年ちょっと、初めて見る柾木の、本気で憤る姿に、軽く怯えすら感じ、その背中にすがり、その胸に抱きつきたいのに、その為の一歩を踏み出すことが出来ずにいた。
 だが、そんな玲子の葛藤など知らない柾木は、床に崩れ落ちて動かなくなった張果を見下ろして深く息を吐くと、いつもと変らない表情で、玲子にとって玲子の全てを受け入れてくれると信じるその微笑みで、玲子に振り向く。
 その顔を見た瞬間、玲子の心の中に熱い物が溢れる。体当たりする勢いで、その胸に飛び込む。柾木の背中に腕を回し、固くしがみつく。このお体はエータのもの、それは分かっております。けれど、ここに入っているお心は、柾木様のもの。私のために憤って下さる、柾木様の……お優しい柾木様、でも、やはり男の方ですのね……
 玲子は、柾木の胸に頬を当てて、思う。
 ……私も、せいぜい柾木様に怒られないようにしませんと……

「柾木君……」
 五月が、エータ柾木に近づいて再度声をかける。
「五月さん、大丈夫ですか?」
 しがみつく玲子を若干持て余しながら、エータ柾木も五月に向きなおる。
 五月は、何日かぶりに微笑んで、答える。
「私は大丈夫、とも言い切れないけど、怪我はしてないわ……あれはやっぱり、柾木君だったのね?」
「そうです、すみません、こいつに」
 エータ柾木は、張果を見下ろし、
「気取られるわけには行かなかったんで……それが、茉茉モモですね?」
 玲子の肩に手を置いて、さっきと同じように優しく玲子を引き剥がしたエータ柾木は、五月が左手で抱く茉茉に手を伸ばす。
「あ……」
 あっさりと、それでも努めて優しく、両手を茉茉の脇の下に入れて、エータ柾木は茉茉を五月の腕から取り上げる。五月は、突然に体の自由が回復したのを感じる。
「お前だったのか……なんか、変な感じだな」
 柾木は、茉茉を五月が座っていた肘掛け椅子に座らせ、
「ちょっとごめんな……蒲田さん!大丈夫ですか!」
 玲子と五月の背後の、女性陣が完全にアウトオブ眼中になっている、人形にたかられて埋没している蒲田に向けて、柾木は小走りに近づいた。
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