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第七章:決戦は土曜0時

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「柾木君!」
 歯軋りする思いで、五月は叫ぶ。自分の体が自由になるなら、こんな事は絶対に許さない。自分のふがいなさに怒りがこみ上げ、そして、畳んだパイプ椅子で柾木を殴りつけた張果ちょうかに憎しみすら覚えた。その激しい怒り、憎しみは、この倉庫、この敷地に蔓延する結界の、亡者の未練をもって生者の負の感情を膨らます術の影響である事すら、五月は失念してしまっていた。
「張果!この……」
 五月の怒りは、自分でも抑えきれなくなりそうだった。この状況でそれはまずいと頭のどこかで感じつつも、この数日貯め込まれた鬱積がはけ口を求めてあふれかえろうとしていた。五月は、椅子の肘掛けに爪を立て、床を突き破るほどの力を込めて立ち上がろうとあがいた。
「五月様!柾木様!」
 玲子は、部屋の中からの声と物音に、たまらず踊り場から離れ、ドア口に立って事務所跡をのぞき込み、状況を一瞬で把握して立ち尽くす。
 真っ先に目に入るのは、ドアから見て正面少し左、部屋に二メートルほど入ったところの肘掛け椅子に座る、憔悴した様子の見える青葉五月の姿と、自分の足下に倒れる北条柾木の姿。
 思わず口元を抑えた玲子は、次いで、右手方向に何かの塊が蠢いているのに気付き、
「……ひっ!」
 思わず息を呑む。そして玲子はすぐに、それは無数の人形に取り付かれた蒲田であると気付く。
「蒲田さん!……ひっ!」
 蒲田に右手を伸ばしかけた玲子の、口元から離れた左手が誰かに捕まれ、玲子は反射的に掴まれた左手を引こうとする。
「これは、西条のお嬢さんもお越しとはな」
「あっ!」
 張果が、その玲子の左手を強引に引く。たまらず、玲子はよろけて張果にぶつかり、張果も左足を一歩引いて堪える。
「この、外道!玲子さんから手を離しなさい!離せ!」
 五月の中で、何かのたがが外れようとしている。五月は、それを自覚したが、溢れ出ようとする何かを止めようとは思わなかった。握りつぶすほど強く椅子の肘掛けを握りしめ、爪が合皮を突き破ってスポンジに食い込む。
「玲子さん……」
 五月の声に隠れて、柾木が、微かに呟く。苦しそうに体を丸め、体を起こそうとゆっくりもがく。
「ほお……気を失ってはおらなんだかよ」
 張果は力ずくで玲子を引き摺るようにしながら、倒れ伏す柾木に近寄り、その腹をしたたかに蹴る。
「ぶっ……」
「柾木様ぁ!」
 蹴られた柾木は、背中で床を滑って五月の座る椅子の斜め後ろまで、二メートルほど飛ばされる。
「お前に殴られたこと、忘れてはおらんでな。どれ、倍にしてのしを付けて返してやろうかの」
 言いながら、張果は無理矢理玲子を引っ張り、柾木に近づく。
「止めなさい!許しません!柾木様!」
 玲子が、全力で抵抗しつつ張果をなじる。だが、体格は似たようなものに見えて、張果は力では遥かに玲子を上回っているらしく、どれほど玲子が抵抗しても、張果の体はゆらぎこそすれ結局は引き摺られてしまう。
「張果ぁ!」
 五月の、血を吐くような叫びを聞きつつ、張果はその横を平然と通り過ぎる。
「……エータ……」
 柾木は、右肩を下に床に丸くなり、左手で腹を押さえ、それでも右手を部屋の奥、壁際のパイプ椅子に座る、自分と同じ顔をしたオートマータに向けて伸ばし、呼ぶ。
「えーた?それがあの傀儡の名前か?やっと手がかりを教える気になったかの。だがまあ、もう遅いがな」
 もう一度、張果は柾木を蹴る。その力は、反動で張果自身が一歩後じさるほど、とても枯れ木のような老人の力とは思えない。
 尻を蹴られた柾木は、斜めに床を転がり、背中からエータの足にぶつかる。
 苦しそうにあえぎつつ、右側を下に横臥する柾木は、左を向いて、左目だけを薄く開けて、エータを見上げる。
「……」
 何かを呟いたのだろう、柾木の口がわずかに動き、やっと少しだけ持ち上げた左手がエータの膝の下に触れる。触れて、ぱたりと床に落ちる。
「柾木様っ!あっ!」
 引き摺られていた玲子が、今度は柾木に駆け寄ろうとし、張果に引き戻される。
「こときれたかよ。まあ、そんなものか」
 そううそぶく張果に、
「……おのれぇっ!」
 五月の中の箍が外れた。鈍い音をたてて、椅子の肘掛けが砕ける。ゆらりと、俯いたまま五月は立ち上がる。握りしめていた右手を開くと、肘掛けの残骸がその掌から散る。
 五月が、顔を上げる。その目は憤怒に燃え、そして額には二本の親指ほどの角。
「なんと!おまえ、そういうものであったか!」
 背後の異変に気付いた張果は振り向き、盲た目を見開く。口は、喜びに満ちあふれた笑いのそれだ。
「玲子さんを離せ、さもなくば……」
「五月様……」
 玲子の声がうわずる。
「玲子さん、私、認めるわ。私は、あなた達を、みんなを護りたい。だから、その為なら鬼だろうが何だろうがなってやるわ……認めるわ、私は、鬼だ。おひいさまを護る、鬼」
 覚悟のこもった低い声で、五月は宣言した。一瞬張果から玲子に移したその視線は、この上なく慈しみに満ちて、しかし、すぐに張果に戻したその目に宿るのは憤怒。ああ、やはり、わたくしの目はそういうものなのだ。玲子は、五月の覚悟を有り難いと心から思いつつ、自分の邪眼に触れてしまった五月に謝っても謝りきれない申し訳なさを感じた。
「それで、どうしようと言う?何が出来る?今のおまえに?」
 ふらつきつつ近づく五月に、張果は勝ち誇ったように言う。張果は理解したのだろう、あれほど茉茉モモに体力も法力も支配され、吸い上げられていながら正気を保てていた理由は、五月の体力も法力も人のそれではなく、鬼のそれであったからなのだと。それでも、その茉茉を左腕に優しく抱いたまま、五月はゆっくりと張果に近づく。
 張果は、懐に手を入れる。五月は、その動きは何らかの符籙ふだを取り出すそれだと気付く。今の自分では、茉茉の影響下にある自分では、張果の術を返すことはかなわない。張果と五月の間合いは二メートル弱、五月にとって勝ち目は、張果が術を成す前にその首をくか、腕をぐくらいしかない。そして、その隙を与える張果とも、五月には思えない。
 確かに、今の私には、攻め手がない。
 その事を、五月が内心認めた、その時。
 張果は、その五月の心を読んだかのように、嗤った。そして。
 その張果の、玲子の腕を掴む左手を、エータが掴んだ。
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